敗北感とともに生きてゆく――小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』を読んで
「勉強好き?」
こう聞かれると返答に悩む。第一に、それは内容による。興味のあることは時間を忘れて取り組めるから好きと言えるが、必要に駆られてそれこそ「強」いられるものは、楽しくないから嫌いだ。第二に、その問いには、勉強が好き=真面目/自分とは違う、勉強が嫌い=自分と同じ、という意味が暗に含まれており、相手が期待している返答を想像せざるを得ず、またその後の無益な会話を想像するだけで面倒に感じてしまう。
僕は高校生の時に世界史にハマった。そろそろ大学入試に向けて勉強しなければと思い立ち、ちょうど定期試験の範囲だったフランス皇帝ナポレオンの快進撃と凋落に魅了されたのだ。まるで小説を読んでいるかのような彼の「物語性」は、勉強をしているという感覚もなければ、暗記をしているという感覚もなかったのに、試験で高得点を取ったのを覚えている。
思えばそれは小説を読むのが好きだったことが功を奏したと言える。以前ベストセラーとなった、山崎圭一著『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』にも書いてあったように、用語や年号を闇雲に暗記するのではなく、人物や事件の背景や思惑を知ることで、「ストーリー性」を持って結果的に覚えられるということだろう。
おそらく普段から本を読む人は、この話に共感しやすいと思うのだが、本を読まない人には分かってもらえるだろうか? あらゆるビジネス書で、本を一冊も読まない若者が増えているという主張をよく目にするが、それを踏まえた上で、今回は小川公代著『ケアの倫理とエンパワメント』を読んで考えたことをまとめてみたい。
先に感想だけ言うと、非常に面白かった。文学における〈ケア〉がどのように描かれているのか、また〈ケア〉の視点でどのように解釈できるのか。「ネガティブ・ケイパビリティ」や「カイロス的時間」、「多孔的な自己」、「〈直立人〉と〈横臥者〉」といったキーワードを軸に、数多くの文学作品を読み解いている。読んだことのある三島由紀夫『美しい星』の解釈にはなるほどと思い、本作で引用された作品に興味が沸き、実際に読んだ多和田葉子『献灯使』も面白かった。
そう、面白かったのだ。ただしそれと同時に、これは果たしてエンパワメントになり得るのか、という疑問を感じてしまい、なかなか自分のなかで消化できず、最近もう一度読み直したところだった。
小川氏が言うように、〈ケア〉の視点以前に、小説を読むことは単なる娯楽以上の価値がある。
小説には多様な人物が登場し、読者は彼らの思考や行動に没入する。例えば自分とは異なる性別の人、子供、高齢者、動物、犯罪者、歴史上の人物。小説ではなくても、著名人や作家のエッセイを読めば、彼らの思考の一部をある意味、体験できる。
少なくとも人間が生まれてから死ぬまで、「自分」の「カイロス的時間」しか持てない以上、「自分以外」の「カイロス的時間」を多少なりとも体験させてくれる文学の価値は計り知れない。
しかし同時に感じてしまった、エンパワメントへの疑念。その理由として第一に、読み手の解釈次第ということだ。例えば三島由紀夫『美しい星』の登場人物、竹宮薫の解釈だ。小川氏の解釈とは異なり、個人的には、彼は金星人ではなく、単なる女たらしの地球人で、暁子の記憶のないところで性交して妊娠させたと解釈していた。
もちろん僕の読み違いで、間違った解釈なのかもしれない。ただ正解がどうであれ、ここで言いたいのは、エンパワメントになるかどうかは読者の解釈次第で、そこに「普遍性」は存在しないということだ。
小川氏は、同性愛者であったオスカー・ワイルドの作品が、「ヘテロノーマティヴな集団に属さない人々のエンパワメントに繋がったのではないだろうか」(同、p84)と述べているが、きっとエンパワメントになった人もいる。しかし、ならなかった人もいるだろう。
それに関連して、エンパワメントへの疑念の第二の理由として、それは読書する人だけに限られるということだ。例えば本書で取り上げられていた、多和田葉子『献灯使』における義郎と無名の関係性には、〈ケアの倫理〉をひしひしと感じられるし、義郎が無名に「同僚」と呼びかける場面は感動的ですらあった。
しかし、どれだけ示唆的に〈ケアの倫理〉が作品で描かれていようと、本を読む人は想像以上に少ない。本を読む人たちの間だけで「盛り上がった」ところで、現実的には何の役にも立たない。社会を変え得る力にはならない。
以上が、『ケアの倫理とエンパワメント』を読んで、面白かったにもかかわらず、どうしても拭い切れない苦々しい「無力感」である。なんだかまるで悪口を言っているようなので、文章にするのはやめようかと迷っていたのだが、少し前に横道誠著『唯が行く! 当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』の刊行記念トークイベントの配信を見た。
約2時間の対談の終盤で、小川氏がやや自虐的に述べた、文学研究の「役に立たなさ」、「敗北感」という言葉が印象的だった。大学教授を務め、また本書を読んで、その膨大な読書量と知識量に驚かされたにもかかわらず、小川氏が抱く「敗北感」とは。
僕は学生の頃に高齢者福祉の本を読んで興味が沸いて、それで論文も書いて、そして仕事で介護を選んだ。そこには、現実が伴わない知識は弱い、という思いがあった。実際に介護の現場で働くことで、以前読んだ高齢者福祉の本の理解がより深まった。しかし同時に、現場では理念や〈ケアの倫理〉といった理論的なものは蔑ろにされている。いや、せざるを得ないというべきなのかもしれない。
この「理論」と「実践」の両立は、個人的には可能である。「理論家」であるとともに、「実践者」でありたいとは常々思っている。(似たようなことが夏目漱石の『こころ』で書かれていた気がする。)しかし、これを社会的に――規模は家庭でも、職場でも、国内でも――両立するのは、かなり難しい。
僕の仕事に関して言えば、介護はチームで成り立っている。自分の理想的な介護を自分だけ達成しても意味はない。むしろ他のスタッフの介護が自分の理想とかけ離れていればいるほど、それこそ「敗北感」や「無力感」を覚えずにはいられない。
だからチームで、職場で「ケア」について話し合う必要があると思うのだが、勤務中にそのような時間は皆無である。また介護保険の将来性が危ぶまれている以上、効率化や利益の追求はさらに厳しくなるだろう。
また小川氏が言うように、文学によって得られる「他者性」は、ケアを生業とする介護職員には必須の能力と言える。しかし個人的に小説を読む同僚は、ほぼいない。
本書を読んで、結論を得たわけではない。確かに文学による「エンパワメント」は存在するのだろうが、だからと言って皆が本を読めば何もかもが解決するわけではないし、小川氏もそのような荒唐無稽な提案をしているわけではない。
普遍的な定義が出来ない、結論が出ない、というのは苦しい。もやもやする。関係性を軸とする〈ケアの倫理〉は大事にしたいし、いまの世界に必要なものなのだろうけど、戦争は起きたし、ヘイトクライムもなくならない。〈不確実性に耐える〉のは苦しい。この文章を書きながらも苦しい。「〈ネガティブ・ケイパビリティ〉が大事だ」とか「プロセス指向でいこう」とか、前向きに締めくくる文章も書いたけど、なんだかしっくりこないのでやめた。ただし、「敗北感」はあれど「絶望感」はない。少なくともゼロじゃない。こんなに暗い文章になってしまって申し訳ないけれど、それでもまだまだこれからも考えたい。そして言葉にしていきたい。