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「問題のある人たち」――村瀨孝生『シンクロと自由』を読んで

「家に帰りたい」

 このたった一言を、仕事に疲れた社会人が呟くのは問題にならないが、介護施設の入居者が呟けば問題になる。この違いは一体どこからくるのだろうか?

 その人の「家」にいるのに「家に帰りたい」と言うから? ではその人の「家に帰りたい」という気持ちは、おかしなことで、あってはならないことで、解決しなければならない問題なのだろうか? それは介護施設だけの問題なのだろうか?

 医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の最新刊、村瀨孝生著『シンクロと自由』(2022)を読んだ。介護現場の微妙で伝えにくいところが、絶妙に言語化されていた。いつかこんな本を書いてみたいものだ。

 本書のすごいところは、書籍に載せることをためらうような、職員のリアルを描いているところだ。言ってはいけないことを言ってしまう職員、イライラする著者、「優しくない」自分に出会ってしまった職員、保身を考える著者。

 介護職員の一般的なイメージは、いつもニコニコしていて、優しくて、奉仕精神のある人。安い給料なのに、他人の下の世話までして。とても自分にはできない仕事。こんなところだろうか。

 当たり前のことだが、介護職員だろうと、大便は臭いと感じる。尿だって臭いに決まってる。何度も同じことを聞かれたり、答えたりすることは、もちろん疲れる。夜寝ない利用者がいればイライラする。少なくともやったーとは思わない。介護職員になったからといって、精神的に強くなったわけではない。

 「3K(きつい、汚い、危険)」のイメージを脱却するためなのか、介護の楽しさ、面白さ、素晴らしさを語る人や本が多い。「便が出れば、たとえ衣服が汚れても、いいのが出たねと喜びます」「夜寝ない人がいれば、どんな話をしようか楽しみです」「介護って楽しいよ~!!」

 なんでこんなにポジティブでいなければならないのだろうか。イライラしたり、臭いと思ったりする人は、介護職失格なのだろうか。優れた介護職員とは、優れた人格を持つ人のことを言うのだろうか。むしろ介護職員へのハードルを上げていないだろうか。

 冒頭の話に戻るが、「家に帰りたい」という当たり前の思いは「帰宅願望」という問題に、イライラしてその怒りをぶつけようものなら「不穏」という問題に、お風呂に入らない人は「拒否」という問題になり、介護職員が解決すべき、すなわち社会にとっては排除すべき問題となる。認知症や老い、弱さを抱える人たちは、「問題のある人たち」となる。こんな社会を私たちは望んでいるのだろうか?

 著者は、コロナ禍で注目されたエッセンシャルワーカーへの「感謝の拍手」に違和感を表明している。

誰に向けて行われたのだろうか。まるで「あなたつくる人、わたし食べる人」と線引きされたかのようだった。その線引きは誰がしたのか。そもそも線引きなどできるのか。生活そのものを通して、すべての人間がキュアとケアに携わっているはずである。
同書、p139

 「痴呆」が「認知症」と名称を変え、マイノリティなど社会的弱者への注目も昨今高まっている。結論を述べるならば、弱さが受け入れられる社会に、そしてケアを特別視しないことが求められる......

 となるのだが、個人的に「弱者」という言葉が好きではない。自分の弱さを認めることは大事だと思うが、人をプラスかマイナスで見るのは、あまり心地良くない。

 本書では「機能障害によって行為を失うのではなく、行為の在り方が変わる」(同書、p94)とあったが、認知症によって「わからなくなる」「できなくなる」のではなく、食事や排泄、時間や場所の認識、会話の在り方が変わるのだと捉えれば、「問題」は「問題」ではなくなるのではないだろうか。

 そうすれば無理に介護をポジティブに捉える必要も、自分の人柄や善意に頼った介護に陥ることはない。そんな気がする。


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