口紅を買えなかった日のこと

私は口紅を一本も持っていない。

グロスや、わずかに色のつくリップクリームの類は持っているけれど、いわゆる「ルージュ」と呼ばれるような、正式な口紅といえるものは所持していない。

口紅は、いつか大人になったら買うものだという意識があったからかもしれない。仕事ができて、知性をまとっていて、所作が美しく、それまでの人生で得た経験の深みを佇まいから感じさせるような、「大人」の女性。

だから、まだ私には早いだろう、まだ口紅の似合う「大人」ではないんだから、と口紅を買うことをずっと先延ばしにしていた。グロスで事足りているし、そもそも平日はメイクアップもほとんどしていないという理由もあった。

しかし、気付けば私は30歳になっていて、いつの間にかもう「まだ大人ではないです」とごまかすのは苦しい年齢に到達していた。

用があって立ち寄った百貨店の化粧室で、鏡に映った自分の顔を見る。日焼け止めに、気休め程度のチークとアイシャドウを乗せただけの、質素な顔がこちらを見返していた。口元はくすんで、血色が悪く、上下共に唇は薄くて小さい。お世辞にも美しいとは言えなかった。唇の色がぱっと明るくなったら、少しは華やかな印象に見えるだろうか。

もう帰路につこうとしていた気持ちを、奮い立たせ、私は一階の化粧品売り場へと向かった。様々なブランドの化粧品カウンターがひしめきあう。

そもそも、このカウンターで対面で化粧品を買うという行為が私はとても苦手だ。カウンターが多すぎてどのブランドが良いのか、検討がつかないし、メイクを試させてもらったとしたら、買わずに出ることができなくなるのだろうという気まずさがあった。

しかし、今日は口紅を買うと決めたのだから。勇気を出して飛び込んで行かなくてはと、自分を鼓舞する。

ぐるりと売り場を一周し、口紅が豊富そうなブランドを確認すると、おそるおそる近付いた。店頭の目立つ場所に口紅を並べていて、他の店に比べ色数も飛び抜けている。ピンク、アプリコット、オレンジ、レッド系まで、100本以上の口紅がずらりと並び、見事なグラデーションを描いていた。下地に使うのであろう白のリップや、ブラウンやブルーに近い、個性的なカラーリングのものまで目に入った。

私は、店員に声をかけられるのをさりげなく待ちながら、いくつか口紅を手に取ったり、リップライナーのふたを開けたり閉じたりして、売り場に佇んでいた。

「何かお探しですか」

明るい髪色に、はっきりとしたメイクをまとった、ほがらかな店員が声をかけてきた。私は、何度も頭の中で予行演習した言葉を発声した。

「はい、口紅を探していて・・・一本も、ちゃんとしたものを持っていないんです」

「そうなんですね」と、店員は微笑んだ。そういう方は多いですよ、ぜひこの機会にお試しされてくださいね、という気持ちの含まれた微笑みに見て取れた。しかし、同時に、もしかすると口紅を一本も持っていないという私の欠損に対しての嘲笑だったのかもしれないという不安も浮かび、少し心が曇った。

「グロスは、持っているんです。あ、あと、色のつくタイプのリップクリームとか・・・。それから、普段はチークとリップ両方に使える練りタイプの真っ赤なチークを使ったりもしていて・・・でも、ああいうのだとすぐ落ちてしまって持ちが悪いので」

私は言い訳をするように普段のメイクについて辿々しく彼女に説明を始めた。顔が、赤くなって、冷や汗が額を濡らしていくのが分かった。もし眼鏡をかけていたとしたら、きっとレンズが顔からの蒸気でくもっていただろう。

つややかなアプリコットのルージュをつけた店員は、私の言い訳を黙ってうなずきながら受け止めた。そして一呼吸置いてから、そのふっくらとした唇で、流暢に口紅の種類や色の系統について説明をはじめた。

「持ちが良いものをお探しならば、艶があるものよりもマットなタイプがおすすめです。日頃お使いのチークはどのような色のものが多いですか? チークとルージュは基本的に同じ色合いに揃えると品よくまとまるんです」

説明をしながら、彼女は手の甲にさっと口紅の色を乗せてみせる。桜貝のような輝きのあるパール、柔らかなオレンジ、目の覚めるような赤。

左手の甲が、4〜5種類のルージュの色で埋めつくされると、彼女は「いかがでしょうか?」という視線でこちらに微笑んだ。彼女の手の甲と、100種類以上並んだ口紅とを交互に眺めて、私は足元がぐらっと揺らぐような気がした。目が回る。汗がまた吹き出してきた。到底、選べない。到底、決められない。この色数の中から。この1本、という色に、どうやって辿り着けばよいのか、全く分からない。手の甲の色だけを見て判断しなくてはならないのだろうか? それとも、実際に唇に塗ってみたいのですが・・・と聞いていいものなのだろうか? それすらも分からない。経験値がなさすぎるのだ。

押し黙った私の不自然な様子にも戸惑わず、

「気になるものがあれば、お試しいただけますので」

と、彼女は販売員として、何ら落ち度のない対応を続けた。

しかし私はもう、その売り場から消え去りたい気持ちでいっぱいになっていた。「試してみてもいいですか」と聞く勇気がまず無かった。そして、何種類かの口紅を、実際に自分の唇に塗ってもらい、その自分の顔を鏡で確認し、「素敵ですね、でも、もう少しはっきりした色がいいかもしない」などと的確に発言して意見を交わし、どれかひとつに絞り込んでいくという行動力と判断力、そして人間的なエネルギーが、どう絞り出しても自分の中に残されているようには思えなかった。

「ちょっと、考えます」

と言って、私は一歩後ずさりした。

「はい、ごゆっくりご覧になっていってください」という彼女の言葉を聞き終わる前に、くるりと売り場に背を向けて、エントランスのガラス戸を押し、地下鉄のスロープへと逃げ込んだ。

悲しみと絶望で、泣き出したい気持ちだった。こんな簡単なことすらも、できないなんて。

道ゆく人とすれ違うたび、唇の色が目に留まる。モードな赤を付けている人、コンサバなベージュピンクの女性、オレンジがカジュアルな装いに似合っている女の子。皆、口紅の一本や二本、当たり前のように買って、使いこなしているというのに。

肩を落として、ホームのベンチで地下鉄を待つ。思い描いていた「大人」には程遠い自分。

それでも私の30代は容赦なく、私を明日へ押しやっていく。



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