人の一生を感じてどっと疲れた話
※今回は楽しい話ではないので、どよーんとしてもイイよ〜という場合だけ読み進めていただけると嬉しいです合掌←合掌するな!
今生の別れなんて突然である。
GW初日に訃報が届いた。
義姉の父が亡くなられた。
90歳超で家族に自宅介護されながら自然と衰弱していった最期だった。実際、眠るように息を引き取られたと聞いて、理想の亡くなり方だなぁと感じた。
自身がお会いしたことは記憶の中でも、冠婚葬祭時に2,3度しかない。
そんな関係性なのに、だ。
近しい家族の悲しみを感じずにはいられない。
通夜式のために家族葬の会場に向かうと、義兄姉が迎えてくれた。綺麗な葬儀施設に入ると、とてもこじんまりとしたスペースで、故人が棺の中に横たわっている部屋に案内される。
どうぞ最期の顔を見てあげてください、とのことで棺の側に行くと、故人が目をつむっている。思わず喉元あたりに目がいくが、微動だとしない。
寝ている時ならば、当たり前のように呼吸のため喉元が動いたり、胸元が上下動しているのに……
悲しくなる。
今風だと感じたのは、遺影がデジタル化されていたことだった。
会場正面奥には、50インチほどの大きなモニターにバストアップのデジタル遺影が映し出されていた。
水色のYシャツノーネクタイに、濃淡グレーのチェック柄の背広を羽織った姿。
聞いて驚いたのは顔だけのハメ込み画像だと言う。この勢いならAIで本人の声まで再生して、「遺影だけにイエーイ✌️」と喋って笑わせることもできそうだ♪(少なくとも自分の場合は、嗚呼言いそうだ、と周りは言うだろう)
正面棺の横、壁側には縦型のモニターが配置されていた。ふくよかな顔つきだった生前の家族たちとの姿がスライドショーとなって繰り返し流されている。
生前から親交のあったという住職さまが会場入りした。棺の故人のお顔を拝見し、一連の流れの中でそのスライドショーの映像にも自然と目を向けておられた。気持ちを察する。
参列者には宗派の聖典を手渡されて、読経と焼香がはじまる。
以前の葬儀を思い出しながら、やはり読経は歌だと再認識しながら、私も節をつけながら最後まで読み上げた。
読経に混じってすすり泣く声が会場内に響き渡り、胸が苦しくなる。故人のことを考えながらどうしても「もっと身近な家族」が亡くなったときのことが頭をよぎる。ごめんなさい。
式が滞りなく終わる。訪問された家族関係者以外の方々が、棺の側に立って最期の別れを忍んでいた。
声を掛ける人もいれば、無言で顔を見合わせてしばらく心の中で会話されている人もいた。
また悲しくなって胸が苦しくなる。
基本的に、葬儀進行の時間以外は参列者たちはにこやかに和やかに笑っていた。
故人もこの姿を見て、安心したかもしれない。
「いつかもっと身近な人が……」
不謹慎な想いかもしれないけれど、点いては消える古い電灯のようによぎる考え。
自分が先に逝ったとしても、もっと深い悲しみを与えてしまう。できれば避けたい。
だから、妻には日常会話の中で冗談混じりで「妻が先に亡くなる説」を刷り込んでいるのだけれど、その都度「また先に私を!」と怒るのである。(当然かw)
えー、だってその方が悲しまなくていいんだよ? 見送られる側の方があんな風に悲しまなくていいんだよ? なんて思いながら口には出さずにエヘヘと笑う。
なんとも難しいものだ。
知らずにずいぶんと疲れていたようで、書きながらまた寝落ちしていた……いつもやん! というツッコミが聞こえそうだけれど。
66日ライティングランニング
を始めて52日目です。
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