【ライブ・レビュー】アンダーグラウンド・シーンの現場から⑰ 2024年1月11日(木) BORDERS vol.1 瀬尾高志、近藤直司デュオ 斉藤圭祐、堺原拓人デュオ

2014年1月11日(木) BORDERS vol.1 (主催・瀬尾)
・瀬尾高志(contrabass)、近藤直司(baritone sax,tenor sax) デュオ
・斉藤圭祐(alto sax)、堺原拓人(alto sax,bartione sax) デュオ
・全員セッション
会場 神保町「試聴室」

聴いた。まずは、サックスの風雲児! 斉藤圭祐のプレイに関して特筆しておこう。現在東京で最もホットなサックス奏者として期待を集めている、若干21歳の新星。彼なら阿部薫のやれなかったことをやりとげ、「奴」の亡霊を(死んでから何十年もたって新たに評伝が出るというのは亡霊というほかない)成仏させてくれるのではないか、と私は考えている。

阿部薫や坂田明など日本のフリージャズの系譜に通じる流麗でメロディアスな疾走感あふれる演奏が持ち味だが、ジョン・ゾーンや井上敬三のような即物的で奇形的なサウンドも適時に織り込むことができるため、選択肢が幅広い。バップ・イディオムを借用して助走してから、高音を激しくヒットしておいて、低音へ潜り込んでうねるなど、伝統的なジャズで多用される手法を散りばめつつ、そこへフリーク・トーンを自在に叩き込むというスタイルは、 ジミー・ライオンズも思わせるものがあり、彼はあくまで「ジャズ」の拡張としてのフリー・フォームを志向しているといえる。

特にソロのライブは凄絶で、人からは「なぜそんなに激しい演奏をするのか」などと言われたりもするのだが、ソロでの内向的で悲痛な直情ぶりに比べると、他者との共演は彼の外向的で知的な面を味わうことができ、聴き手もリラックスして楽しめる。共演者の動向を余裕をもって見きわめつつ、自己の目指すものを堂々と打ち出すプレイには、ちょっとした風格のようなものすら漂ってきた。歴戦の猛者たちの繰り出す重量級のサウンドも、彼のプレイの前では「バックで鳴っている」ように聞こえてしまう。それには斉藤のサックスが出すけた外れの音量もあるわけだが、別に力任せで圧倒しているわけではなく、サックスを十分に鳴らして純度の高い響きを得るためだし、また斉藤の演奏のしかたが聴き手の耳を巧みに引き付けるからでもある。

今回目立ったのは「タッチ&ゴー」の手法で、相手の展開しようとしている奏法の断片を模倣して、それをたちまちデフォルメして自分の展開したい方向の演奏に繰り込んでしまう。これにより相手との接点を持たせる形で共演を成り立たせているし、フレージングや演奏者同士のもつれ合いを豊かにすることにもつながる。

またバラード調の展開でも、阿部薫の「泣き・喚き」のフレーズだけではなく、清水靖晃サキソフォネッツのバッハみたいなまろやかで典雅な響き、まぁこれもじつは阿部薫の奏法の中にあるのだが、それを単なるなぞりではなく自然に身につけていたあたり、着実な進境が感じられた。硬軟の使い分けもスムーズだし、高密度の演奏を長時間続けるためのペース配分もうまい。
とにかく斉藤の演奏はフェイズのスイッチングが早く、機転が利き、頭の回転が速い。機敏に上昇や急降下を使いこなすし、緩急や大小を用いて遠近法を感じさせるなど、サウンド・ペインティングの造形やカラーリングの可能性を常に押し広げようとしている。そして何よりリズムの出し方も巧みだ。今回新たに目についたのは、どことなくファンキーなリフを融解させたようなフレーズであり、面白い効果を上げていた。この辺は「渋さ知らズ」での経験が生かされているのだろうか?

このように彼の演奏には過去の即興演奏で編み出されてきたさまざまな要素が散りばめられているのだが、それらが技の羅列やパッチワークに留まっていないのは、根底にある自己のモチーフが一貫しており、呼び出されたさまざまな奏法やスタイルを、彼の好むメロディのラインに引き寄せて統合しようという求心力が常に強く働いているからだ。メロディのセンスにはコルトレーンの「インプレッションズ」やジョン・ゾーンの「マサダ」など、ジャズの「カッコイイ」勇壮さが明瞭に聞き取れる。彼の演奏はどんなにフリーキーなサウンドに聴こえる時でも、一貫して「ノイズ」ではなく「フレーズ」を指向しており、それが聴衆の聴覚を引き付ける大きな要因だ。

多様なサウンドを使いこなしつつ、それらを自分のコンセプトに無理やり繰りいれようという観念的な固さがなく、面白いことをやってやろうという機知に満ちたマインドが横溢しており、触媒による化学変化を期待する遊び心によって「変わっていく同じもの」(リロイ・ジョーンズ)を先へ推し進めようというスタンスが明確に打ち出されている。

まずは斉藤圭祐のアルトサックスと堺原拓人のバリトンサックスのデュオ。堺原は循環呼吸により持続的なサウンドを広範囲に撒き散らし、それらを漸進的に操作して、霧の粗密や3Dホログラムの凹凸のように動かすことを眼目とする。昔のテレビの「砂嵐」やラジオの電波に起きる干渉を思い浮かべてもらいたい。ようするにこれは電子音楽やノイズ・ミュージックの手法だ。
 
これに対して斉藤は間合いをはかりながら、さそりの尾のように毒気を含んでしなるフレーズを、断線的に切りつけていく。間合いといっても、同じことを堂々巡りしていては単なる間抜けになってしまうが、斉藤は沈黙の間隔を広げたり狭めたりしつつ、前のフレーズと次のフレーズの落差と緊張感をその都度作り出し、そこで露になった断層をアウトラインとして、メロディアスな展開で一気に畳み込む。前述したように、その際には相手の演奏の断片を取り込んで自分流に組み換えたフレーズを立脚点にしている。言うなれば堺原のプレイを「地」に見立てて、そこに「図」を描くわけだ。
 
ここで堺原の手法に一つの問題点があり、異なるコンセプトの演奏と混在すると彼のサウンドは埋没してしまう。人間の耳はメロディやリズムに引き付けられやすく、ノイズの微細な変動に集中するには、他の要素を物理的に排除するか背後に押しやってしまう必要がある。ノイズ・ミュージックが、ソロを別とすれば、他を圧倒するような大音量を前提とするのはそのような事情にもよる。今回はサックスの音量そのものも斉藤の方が大きいため、堺原の音楽はバックグラウンド・ノイズとしてしか響いてこないのだ。
 
後半は堺原がアルトサックスに持ち替え、鳴き喚くようなスクリーミングで迫る。鋭角的なトーンは、バリトンの時に比べノイジーな成分の厚みはないが、音色はより引き締まっている。ここでも斉藤は呼応するサウンドを出しつつも、速やかにそこから離脱し、流れるようなフレーズと間を使った跳躍を対置させる。そのさまは水面に波紋を残して対岸へ渡っていく飛び石のようだ。両者の共演は約一年ぶりというが、音楽の様相を冷徹に見きわめる斉藤の著しい進境ぶりが目立った。50分近くにも及ぶハードな演奏を易々とこなす身体能力と集中力は驚異だ。

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