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【民俗学漫談】アニミズム

日本は、「八百万(やおよろず)の神」がまします。と言われます。

八百万(やおよろず)は、数字ではありません。ものすごくたくさん、という意味で、日本語では、ものすごく大きい数を八で表したんですね。

日本人は、自然を大切にしてきた。それは自然に魂が宿っているからだ。とか、聞きますね。

自然の物、生き物でも、山川草木(さんせんそうもく)でも霊魂が宿っているという信仰がありますね。別に、日本だけじゃありません。テクノロジーが発達していないところは、たいていそうなります。

アニミズムとは

自然の「物」に霊魂が宿っているとするのがアニミズムです。人と同じように霊魂があるから擬人化できる。精霊信仰とも訳されています。ただ、日本の場合、自然の物に対して宿っているというより、始めから擬人化している気がします。

ちなみに、日本の場合、「自然」の範囲がひろいです。人間が作ったものも自然と見なします。

たとえば、台所道具。釜に椀に箸にまな板。さらに着物や草履。

ただ、この辺は、始めからと言うよりも、霊魂を持つ人間が使っているうちに宿るようになった、と考えられた気がします。

そういうのが、アニミズム。

もう一つ。自然崇拝というスタイルがあります。

こっちはどんなスタイルかと言うと、自然崇拝は、自然そのものを畏敬の対象とする。「なんかすごいな動物は。特に鳥」と言う感じです。

哺乳類、爬虫類は皆、猫背なんですよ。
鳥は猫背ではない。なんか立派だと。

アニミズムだと、動物に意志がある、と言うところまで進みます。「ありゃ何をしているのか」と人と同じ心理で扱います。人間の決して抜けない癖ですね。他人が何をしているのか、探ろうとする癖は。

「自然スゲー」と、「自然にあるものは、何をどうしたいんだろうね。てか、何か下さい」との違いと言えます。

通常の精神であれば、人間は、人はもちろん、動物でも物でも、それが社会的な存在だと思ってしまう。社会的な存在というのは、何かしらの意志があり、その意思を他の存在に向けているということです。

それは「アニミズム」の定義に入るのか知らないけれど、自分の日常の状況を少しでも良くしようと思えば、何であれ、意志を汲もうとする。

それがずれると偶像を崇拝する。

ひとが作ったものに過ぎない物に凄まじい価値を見てしまう。

健全であればね、物を大切にする、動物をかわいがる、自然を壊さない。くらいになるんですが。

アニミズムの心理

アニミズムと言うのは、すべての人にあると思います。人って、「他人がどういうつもりでそういう事をしているのかな」と読む習性があります。その方が適応しやすい、生き残りやすいから。ただその癖で、動物や物も社会的な存在として考えてしまう。

自分がこう反応したら、こう反応するはず。というのが人とのコミュニケーションでありますね。

それで意外な反応をされると驚く。

これと同じ調子で、動物や物にまで対応してしまう。

「私が、こういう事をしたら、こういう反応が返ってきた。という事はこう言う事なんだろう」と考えるわけです。

雨でもそうですよね。「何で、このタイミングで降るの」と怒るのは、雨があたかも自分と相互関係にあるかと思っているわけです。

コンピューターが思うように動かないと、腹が立ちますよね。

「自分がこういう操作をしたらこういう答えを返すはず」と思ってキーをたたいても、反応しない。電化製品も同じですよね。

「その振舞いが理解できない」と、自然や電化製品に向けて言う事は双方向コミュニケーションが成り立つと思っているんですが、これは日常的なことです。

人間は、相手の表情や動きから、今考えている事を読み取るのに長けているんですが、その能力をつい、物にまで向けてしまう。

まず自然崇拝があって、次にアニミズムが生まれた。

それはただ、自然を畏敬していたときから、やがて、自然の行動を読もうとしたことに始まったんだと思います。

人の行為が読めるなら、自然の「行為」も読めるだろう、そういう考え方ですね。

「攻めと受け」の思想

跳躍します。昔、いわゆるBLの編集をしていたことがあります。当時は「やおい」と言いまして、「やおい」というのは、「やまなしおちなしいみなし」の略です。言うほど山も落ちも意味もなくはなかったんですけどね。

内容はラブコメの主人公が男になったものと考えてください。

その「やおい」ですが、一つ特徴的な思想があるんですよ。

それは、「攻めと受け」という思想です。

これは男同士だから、生まれた思想ですね。

歌舞伎の「たち」と「女形」とは、少し違う気がします。

様式の美ではなくて、性質に近い。その性質を漫画ですからね、キャラクターに与える。

意外と男らしい方を受けにして、それが読者に受ける。小さくて、可愛い感じの男の子が実は、「攻め」とかね。

なんで、ここで、こういう話をしたかと言うと、「攻めと受け」が、人にとどまらなくなっていくんですよ。

さらに発展して、というか、特殊な人の頭の中で発展し、その方法物にまで適応しはじめます。

曰く、「机と椅子はどちらが攻めなのか? 意外と椅子の方か?」

さらに、山と川ではどうなのか。

そりゃもう、擬人化を超えてというより、さかのぼってアニミズムですよ。

もともと山を擬人化した時点で新しい思想なんですよ。人間中心で、信仰の薄れの表れですね。

かつて山は、そのもので神であり、そこに人間らしさはなかったはず。

今でも奈良の「大神(おおみわ)神社」は、山そのものを崇拝し、拝殿しかない。本殿がありません。

それが、山を擬人化し、つまり、アニミズムが始まり、何とかのミコトといって、名前をつけた時点で、人間の制御下に置こうとするものになったんてすね。

で、机と椅子とどっちが攻めとか、どうでしたっけ、机が攻めで椅子が受けでしたか。当時は。いや、逆だったっけ?

どっちてもいんですけど、あんまんと肉まんはどっちが「攻め」なのか。とかね。

わけがわからないと思いますが、万物ことごとく「攻めか? 受けか?」

それで決めてしまうんですよね。

これって、完全に、アニミズムの下地がなければ進めない世界ですよね。

偶像崇拝とは全く別の進み方をしています。

物に生命の息吹を吹き込んでいるんですよ。

これは、さすがに日本だけだと思います。

日本の漫画やゲームが、ほとんどなんでも擬人化してしまいます。

そこから、物に対して、「いつくしむ」という感情が出てきます。

「いつくしむ」は、慈しむや、愛しむと書きますが、まあ、慈愛の感情なんですが、慈愛と書くより、いくつしむの方が日本語らしくていいですね。

アニミズム的なものがあって、サブカルチャーの文化がないと、出てこない思想ですからね。

しまいに、漫画のキャラクターや、物だけではなく、現実の人に対しても「攻めか? 受けか?」を決めてきます。

たとえば、「○○さんって、絶対攻めですよね」と、面と向かって、私に。

ここまで来ると、「攻めか受けか」の二元論になります。

進み過ぎです。


余談

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昔のテレビは、木目調でしたね。

少し前にもヒューレットパッカードがラップトップPCで木目調を出していましたが、まだ電化製品が家庭に入ってきたころは、電化製品といえども、室内にあるのなら、木目調にしなくては落ち着かなかったんですね。

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クーラーも同様です。

台所にあるものはいいんですが、かつての庶民の居室にあるものはまず、箪笥とちゃぶ台だったわけですから、木なんですよ。

それで、テレビだろうとクーラーだろうと、『家具調』コタツだろうと、見た目だけでも木にしてしまったんですね。

自然物ではない、変化を全くしない家電製品に慣れるまで時間を要したということです。

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