溺れて死んでみる

抑圧されながら生きてきた幼少時代。
家族に自分の気持ちや意見を言うことなんて許されず、聞いてももらえない。

「何言ってるの?」
「馬鹿じゃない?」
「子供のくせに屁理屈で生意気」

姉の理不尽な態度に対する抗議も、結局私が悪いという結論に至るので諦めた。

元々お喋りな性格ではあるのだが、段々と口数は減り、人と話すのが苦手な子供となってしまった。

悩みがあれば自問自答し、誰かに助言を求めることもせず、そうやって生きていくと『人に頼らないしっかり者』に成長していくことを身をもって知ることになる。

他人から見れば私は強く、周りがそう言うのであれば私はそうなのだろうと。

うちに秘めた心の声は、自分ですら耳を傾けることはなくなった。

それは本当の意味での強さではなく虚勢であり、弱いだけの自分を認めることができず、現実との乖離を起こす。

虚勢を張る自分が真の自分だと思い込み、だが弱い自分の心の声が時折聞こえてくる。

「本当は嫌なのに」

そんな声はいつものように聞こえないフリをし、ニコニコと愛想を振り撒き、私を慕ってくれる人も増えた。

しかし、違和感を覚える弱い自分がまた囁く。

「本当に仲良いと思ってる?」

これまた無視をする。
みんなが楽しければそれでいいのだと。

そうやって作り上げられた私には、私という中身がすっかり鳴りを潜めてしまった。

話は変わり。
およそ30年生きてきている私にも、それなりに恋愛感情を抱く人もいたりして。

その深さに程度の差はあり、浅ければ浅いほど簡単に忘れてしまう。
足首すらも浸かることはなく、「なんか足濡れてるけどまぁいっか」で済ませてしまう。

深ければ深いほど、いつまでも夢に出てきて。
底が見えないほどに深く、泳げない私は呼吸ができずにもがく。

普段から虚像で生きてきた私にとって、不覚にも溺れてしまうのは予想だにせず、元々生まれ持った本来の私がここぞとばかりに強く出てくる。

「私はこの人が好き」だと。

時たま何とか息づきをする度に、虚像の私は「好きじゃないから」と応戦する。

何のための応戦なのか分からないが、虚像の私にとって恋とは、許してはいけない感情なのかもしれない。

「誰かを好きになってどうする」
「私は今まで自分の気持ちを否定されてきたのよ」

虚像の私は諦めるための言い訳を必死に集める。
しかしそんなもがきは体力を奪っていき、心身共に疲弊させていく。

誰かを愛おしく思う時間が甘いのはいつも一瞬だけで、痛みで泣くことばかりだ。
だから忘れてしまいたいと虚像の私は願う。

触れたい。触れられない。
愛したい。愛したくない。

恋愛とは違う誰かがいて成り立つものだが、闘いの相手は自分である。

肝心の相手にちゃんと向き合いもせず、エゴとエゴがぶつかってばかりで、何の意味もなさない。

そこにふと、その相手から連絡がきてしまえば、あっさりと本来の自分が勝つ。
嬉しさでいっぱいになり、心が浮き足立つ。
「ほらね」とドヤ顔で、虚像の私に勝ち誇ってみせる。

こうやって文章にしてみると、肝心の相手とちゃんと向き合っているのは、本来の私なのかもしれない。

諦めるのはいつも虚像の自分のため。
傷つきたくない。苦しみたくない。

「でも好きな人の幸せも願ってるでしょ?」

本来の私が上から目線で問いかけてくる。

「じゃあそれでいいじゃん」

本来の私に全てを委ねることにした虚像の私は、もがくのをやめてそのまま溺れてみる。

呼吸ができなくてやっぱり死にそうになるし、どんどん沈んでいく。

理性や思考を手放すと、それが心地よいことを知る。

「このままじゃ死ぬけど」

一応、本来の私に聞いてみる。

「いいじゃん、死んだって」

そう答えが返ってきた。

そっか、いいのか。

そうやって虚像の私が死んだ時、きっと私は誰かを心から愛する。

ひとまず、長い眠りに就こう。
おやすみなさい。




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