心の準備ができないまま、光村龍哉の路上ライブを見た

2019年11月15日にNICOの活動終了が発表されてから2ヶ月後。
突如「準備運動」と称してみっちゃんが路上ライブを始めた、という話を聞いたとき、私は素直に喜べなかった側の人間だ。
というより、音楽を続けていると分かったことは素直にうれしかった。でも、ファンが来られる状況にして、さらにNICOの曲をやっていることに「?」という気持ちだった。

もちろんみっちゃんが作った曲が大半だし、あの歌を歌えるのはみっちゃんしかいないということは分かっている。でもそれは同時に、NICOの曲のギターは古くんで、ベースは坂倉さんで、ドラムは対馬さんだという気持ちに繋がる。
弾き語りできるとはいえ、この3人と別の道を行くことを決めたのなら、NICOとしての歩みを止めた覚悟が見たかった。それが私の本音だった。(あとゼンリーを使いたくない、というのもわりと大きな理由だったりする。)

私は、みっちゃんの歌が好きだ。NICOをやめても音楽を続けてほしいと思う気持ちに嘘はないし、新しい音楽を始めるなら聴きたいと思っている。でも今の私は、彼の歌を聴いてちゃんと喜べるのだろうか。嬉しいと思えるのだろうか。モヤモヤして嫌な気持ちになったりしないだろうか。

そんな心配が、路上ライブに対する私の気持ちを重くしていた。

そんな私が「路上ライブを見てもいいのかな」と思ったきっかけはNICOのラストライブ(2019年のラブシャ)の映像だ。

ラストライブを改めて見て、ただただ未来が楽しみなバンドだと思った。こんなにも先が待ち遠しいバンドは、進化が楽しみなバンドは他にいなかった。
その歩みを彼らはもう止めてしまった。もっともっと、聴きたかった。違う形だとしても、本当にいつかまた会える日はくるのかな。この人たちの未来を、目撃できるのかな。

そんな風に思ったら、ちょっとだけ過去がフラッシュバックした。

「明日までに準備万端にして、それで会いにいくから」と頑張ったのに、その明日が来なかったことがあった。準備なんてしなくて良かったのに。とにかく行けば良かったのに。行けば会えたのに。
そんな暗い話と重ねる必要はないのかもしれないが、でも「準備なんてどうでもよかったのに」という気持ちが思い出された。

自分の気持ちが整うのっていつだろう。NICOはもういないのに、整う日なんて来るんだろうか?そんな日を待っていたら、「いつか」は来ないかもしれないのに。

そう思ったら、モヤモヤしてもいいから、悲しいと思ってもいいから、行けるならみっちゃんの歌を聴きに行こうと思った。

そんな気持ちの変化があって、ゼンリーをインストールしたのが日曜日。2日後の2月4日火曜日に申請が承認されたみたいだな〜と思ってアプリを開いていたら、私の自宅の方面へみっちゃんが向かってきていて思わず笑ってしまった。

軽くパニックになりながら、友人と連絡をとったり、やっていた仕事を片付け、準備をした。心の準備なんて全くできてないけど、足が勝手に電車に乗った。

久しぶりに走った。走らなくてもいいんじゃないか?と思っているのに、走っていた。

みっちゃんがいるらしい鶴舞公園についたけれど、人があまり見当たらない。どこにいるんだろう?そう思ったときに、どこからかよく知った歌声でスピッツのロビンソンが聴こえてきた。視線を向けた先に、光村龍哉がいた。

すでに10人ほどの観客が集まっていた。ロビンソンを歌い終わると、「この曲がなければ、僕はこうしてここにいなかった。大切な曲です。」そう言った。

そこからは集まったお客さんからのリクエストに応えたり、みっちゃんの友達(けいちゃんと紹介された)からのリクエストや、2人がやりたい曲をやったり。NICOの楽曲は全てリクエストに応えたものだった。
とにかく自由だった。音楽で遊ぶ光村龍哉が、目の前にいた。

準備運動と称するだけあって、普段のステージとは違う顔のみっちゃんがそこにいるようにみえた。プロミュージシャンとしてステージに立つ光村龍哉というより、リラックスして友達との演奏を楽しむ音楽が好きなみっちゃんがそこにいる、そんな感じだ。よく笑うのだ。

演奏された曲の中には「私はまだこの曲を聴くのはちょっと…」と辛い気持ちになってしまうものもいくつかあった。それでも彼の音楽の中にいる時間は、これまで自分が不安に思っていたモヤモヤも何もかも、どうでもよくなってしまった。音楽に逆らうことができなかった。

お客さんと、友人けいちゃんと、目を合わせながら楽しそうに演奏する。こんなに楽しそうに歌われては、今の彼の生活を否定なんてできない。

路上ライブを見たからといって、なぜ活動終了したのかはやっぱり分からないし、NICOがいない寂しさも消えない。モヤモヤした気持ちがなくなったわけでもないし、みっちゃんが今後何をやりたいのかも憶測でしか考えられない。

ただ、行って良かったと思った。私はやっぱり彼の歌が一番好きなのだと再確認した。NICOを失って空いた穴は誰にも(たとえ光村龍哉でも)埋められないけれど、それはきっとそのままでいいんだと思う。
少なくとも今回の路上ライブを見たことで、NICOの活動終了のコメントだけでは宙ぶらりんだった私の心が、「NICOは本当に終わったのだ」とストンと収まることができた。そして、みっちゃんが歩みを止めていないことをこの目で確認できた。今の私は、それでほんの少しだけ救われた。

だから、今後また路上ライブが近くで行われることがあっても、私はもう行く必要はないのかもしれない。NICOの残像を追いかけるのではなく、次は準備運動を終えて全く新しい音楽をスタートさせた光村龍哉を楽しみにしていたいなと思う。

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