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赤毛のアン ヨセフの真実 / 第一部 埋め込まれたブロンテ


序章 〜ようこそDORドロの世界へ〜

1942年4月24日。
"Anne of Green Gables赤毛のアン" の著者、L. M. モンゴメリは67歳で亡くなりました。
その死因については近年、モンゴメリの次男から連なる近親者から「過剰服薬による自殺」だったと告白されています。

最晩年には視力も衰え、手の痛みから文字が書きにくくなっていたことや、まだ終息の見えない第二次世界大戦の渦中であったこと、夫の精神の病が悪化したこと、そして長男の度重なる不祥事に悩まされていたことなどなど、モンゴメリが死に至った理由はさまざまに憶測されています。
私には、なぜモンゴメリが死を選んだのか、そもそも本当に自殺であったのかもわかりません。
けれども、彼女が残したアン・シリーズや日記を丹念に読み解くにつれて、彼女の心の軌跡が浮かび上がってきました。
その軌跡をこれからお示ししたいと思うのですが、厄介なことにそれは大変込み入っています。
「ドゥリィー "dree退屈" 」で「ドゥリィアリィ "drearyうら寂しい" 」な試みだと思われるかもしれませんが、読み終えたときに広がる "Anne of Green Gables赤毛のアン" の新たな風景を楽しみに、ケルト世界のDORドロの沼にハマった気持ちで最後までお付き合いください。

遠い日本まで、そして時代を超えて私たちに届けられたアン・シリーズと、そこに描き出された ”Kindred Spiritsキンドレッド・スピリッツ"という魅惑的なワード。
村岡花子さんによって「同類」と訳出されたこのキンドレッド・スピリッツがどこから来たものであるのか、"Anne of Green Gables赤毛のアン" の創作の源に迫ります。

第1章 シャーロット・ブロンテ マニア

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ブロンテ三姉妹の肖像画:左からアン・ブロンテ、エミリー・ブロンテ、シャーロット。

第1節 "Anne of Green Gables赤毛のアン" とブロンテ作品との符合

モンゴメリはかなりのブロンテ マニアでした。
そのことは、『ブロンテになりたかったモンゴメリ』で示した通り、 "Anne of Green Gables赤毛のアン" とブロンテ姉妹の作品それぞれの登場人物の間に見られる数々の符合から知ることができます。
例えば次のようなものが挙げられます。

【二人のShirleyシャーリー

  • Shirley Keeldarシャーリー・キールダー:シャーロット・ブロンテの作品 "Shirleyシャーリー” の主人公。男の子が生まれるとの期待の中で生まれた女の子。

  • Anne Shirley アン・シャーリー:モンゴメリの作品 "Anne of Green Gables赤毛のアン" の主人公。働き手として男の子を引き取ったはずの初老の兄妹のもとに、手違いで引き取られた女の子。

どちらも男の子の「代わり」の女の子という設定であり、顔色は良くないけれど知的で表情豊かな顔立ちと、夢見心地になりがちでしばしば白昼夢に耽る想像力の持ち主というところも共通しています。

【二人のGilbertギルバート

  • Gilbert Markhamギルバート・マーカム:アン・ブロンテの作品 "The Tenant of Wildfell Hallワイルドフェル・ホールの住人” の語り手であり、主人公の再婚相手。

  • Gilbert Blytheギルバート・ブライス:モンゴメリの作品 "Anne of Green Gables赤毛のアン" の主人公がのちに結婚する男性。

二人とも、ヒロインに向けて芽生えた恋心を無残にも "bud" のうちに摘み取られてしまうという苦悩を抱えています。

2021年7月20日追記:ギルバートの名前については、「赤毛のアンに引用された『マーミオン』〜後編」でも沼考察しています。ご参照ください。

【二人のブライス】

  • David Bryceデイヴィッド・ブライス:シャーロット・ブロンテに求婚して振られた2人目の男性。23歳のシャーロットにプロポーズして振られ、六か月後に、血管破裂で死去。

  • Gilbert Blytheギルバート・ブライス:モンゴメリの作品 "Anne of Green Gables赤毛のアン" の主人公がのちに結婚する男性。22歳のアン・シャーリーに振られた後に、病気になって死の淵をさまよう。

どちらも「活発」「ハンサム」「機知に富む」「才気ある」人物。
(なお "Anne's House of Dreamsアンの夢の家” には、ギルバートの大伯父として "David Blytheデイヴィッド・ブライス " という人物が登場しますが、詳細は第8章をどうぞ。)
 
【二人のDianaダイアナ

  • Diana Riversダイアナ・リバーズ:シャーロット・ブロンテの出世作 "Jane Eyreジェイン・エア” の登場人物。主人公・ジェインが親しみを感じた女性で、じつは「いとこ同士」すなわち「血族関係=kindred」。

  • Diana Barryダイアナ・バーリー:モンゴメリの作品 "Anne of Green Gables赤毛のアン" の主人公・アンが、 "Kindred spirits同類" を感じる腹心の友。

リバーズの「リ」と「バ」をreverse逆転させるとバーリーになっているところは、ユーモアの才気あるモンゴメリならではと言えるでしょう。

さらに「バリー」に注目すると、『ピーターパン』を描いた英国人作家 "James Matthew Barrieジェイムズ・マシュー・バリー" にも因んでいると思われます。
余談ですが、モンゴメリは新婚旅行で英国を巡った際に、この作家の生まれた町、スコットランド・フォーファーシャーのキリミュアを訪ねているほどですから、 "Anne's House of Dreamsアンの夢の家” の中で「わたしの知っている人たちのいちばん立派な二人の紳士の名前」すなわちジム船長やマシュウ・クスバートに因んでいるとアンに語らせている、アンの長男ジェムのジェイムズ・マシュウという名前もジェイムズ・マシュー・バリーと無関係ではないでしょう。

【二人のMatthewマシュウ

  • Matthewson Helstonマシューソン・ヘルストン:シャーロット・ブロンテの作品 "Shirleyシャーリー” の二人の主人公のひとりキャロラインの叔父であり養父。

  • Matthew Cuthbertマシュウ・クスバート:モンゴメリの作品 "Anne of Green Gables赤毛のアン" の主人公・アンを引き取り、妹マリラとともに育てる。

二人とも主人公の養父という点で共通している。

【二人のRachelレイチェル

  • Rachelレイチェル:アン・ブロンテの作品 "The Tenant of Wildfell Hallワイルドフェル・ホールの住人” の中に登場する年配のメイド。

  • Rachel Lyndeレイチェル・リンド:モンゴメリの作品 "Anne of Green Gables赤毛のアン" に登場する婦人。

どちらも世話好きの年配の女性であり、メイドのレイチェルは物語の中でしばしば館のドアを開けて客人を招き入れ、リンド夫人は最初の登場人物として物語の扉を開き、私たちを "Anne of Green Gables赤毛のアン" の世界へと招き入れます。

第2節 黒髪のペア

さて、モンゴメリはアンの最初の "kindred spiritsキンドレッド・スピリッツ" であるダイアナ・バーリーを、シャーロット・ブロンテが描いたダイアナ・リバーズから持ってきていたことは前節に書いた通りです。
ともに主人公から「ダイ」と呼ばれているダイアナは、どちらも黒髪の持ち主。
実はもう一組の黒髪のペアがいます。
それは、 "Anne of Green Gables赤毛のアン" のマリラ・クスバートとシャーロット・ブロンテの "Shirleyシャーリー” のオルタンス・ムア。
50代後半のマリラと違って、オルタンスはまだ30代半ばの女性です。

「彼女はムア氏より少し年上に見えた。おそらく三十五ぐらいで、背が高く【中略】髪は真黒で【中略】気難しいが悪気はなさそうな顔付き」5章より
「いつも息を切らして忙しくしているマドモアゼルは、今日も台所から居間へとせわしく動き回って半日をつぶしていた---【中略】こうした課題を完全にはたしても、オルタンスは決して褒めない。【中略】課題に誤りが見つからぬときには、生徒の立ち居振る舞いなり、態度なり、服装なり、様子なりを正さなければならないことになったのである。」6章より
「もっと堅実で、地味なものの方が「ずっと礼儀にかなっている」はずだと思ったのだ。」6章より
「黒い髪も、その下の多少独断的で強情そうには見えるが、実は情深い顔も【中略】オルタンスは温かさよりも威厳のまさった顔で以前の教え子を迎えた。」17章より

『ブロンテ全集3 シャーリー』シャーロット・ブロンテ著 都留 信夫訳 みすず書房 1995年

こうしたオルタンスの特徴は、

「マリラは背の高い、やせた女で、丸みのない角ばった体つきをしており白髪の見えはじめた黒い髪をいつも後ろで、かたくひっつめにして、二本のかねのピンでぐさっととめていた。」1章より
「マシュウ、だれかがあの子をひきとってものごとを教えてやらなけりゃなりませんよ。まったくあの子は異教徒と紙一重なんですからね。【中略】きっとあの子のしつけがわたしの手いっぱいの仕事になっちまうにきまってますよ。」7章より
「どうしてマリラはいつもアンにあんなにかざりけのない、地味なかっこうをさせておくのだろう?【中略】あんなみじめななりをさせて、それでアンに、へりくだりの気持を持たせようとするつもりらしいが」25章より
「一方マリラの方は猛烈な勢力を出して手当たりしだいに仕事をやり出し、一日じゅうたち働いていたが、ともすれば涙が流れだして、どうにもならないせつない思いがやきつくように胸をかんでいた」34章より

『赤毛のアン』村岡花子訳

という "Anne of Green Gables赤毛のアン" のマリラを彷彿とさせます。

Hortenseオルタンスは、ラテン語Hortensiaのフランス語形で、意味はgarden花園
一方、Marillaマリラはケルト語で「輝く海」というのが今では定説ですが、私はその意味と共に、別のニュアンスを感じています。

第3節 「思い出」の花

私がMarillaマリラに感じる別のニュアンス、それは「私の ”Lilacライラック” 」。
ライラックは春から初夏にかけて花が見頃となる木で、フランス名はLilaリラ
『ライラックの木かげ』をはじめとして、モンゴメリの愛読書だったルイーザ・メイ・オルコットやシャーロット・ブロンテの作品にも描かれており、ハワースのブロンテ一家が住んでいた牧師館の庭には「ライラックの低木」があったことが知られています。
モンゴメリがアン・シリーズの中で描いた「ライラック」を、執筆順にまとめてみましょう。

1)グリーン・ゲイブルスの下手のgardenから「紫色の花をつけたライラックのむせるような甘い匂いが」(4章)
2)アンの想像の中の生家の「前の庭にはライラックが植わって」いる。(5章)
3)薄紫色の石鹸サボン草の「薄紫色」がLilac。(12章)

『赤毛のアン』村岡花子訳

1)トーリー街道の冒険にてダイアナが渡してくれた包装紙の裏にアンが綴ったスケッチの中で、「(拙補足:アンのgardenの)ライラックのしげみの中のカナリア」(18章)

『アンの青春』村岡花子訳

1)アンの生家での描写「門のそばにはほんとうにライラックの木があるわ。」(21章)
2)アンがかつてトーリー街道の冒険時に書いた「しおんとスイートピー、ライラックの花々の茂みにとまる野生のカナリヤと、花園を守護する天使とのあいだの短い問答体」のスケッチを読み返す。(35章)

『アンの愛情』村岡花子訳

"Anne's House of Dreamsアンの夢の家” にはライラックの記述無し。

1)gardenに植えられたライラックについて(29章)

『虹の谷のアン』村岡花子訳

1)「虹の谷は夕日の素晴らしい薄紫色の光を浴びてよこたわっている」の「薄紫色」がLilac。35章のタイトルは”RILLA-MY-RILLA!”(最終章35章)

『アンの娘リラ』村岡花子訳

1)「ライラックの茂みの中」(第一年目13章)
2)「ライラックの茂み」(同14章)
3)「窓の下から漂ってくるライラックの香」(第二年目11章)

『アンの幸福』村岡花子訳

1)へスター・グレイの庭の「ライラックの木」(2章)
2)「ライラックの匂い」(2章)
3)「ギルバートはライラックが大好きなの。」(2章)

その後の章では、ライラックの花が咲く季節の終わり(7月末)にリラ・ブライスが誕生。

『炉辺荘のアン』村岡花子訳

Anne of Avonleaアンの青春” のなかで、アンがトーリー街道の冒険を記した文章にはライラックが描かれていますが、そのスケッチは原文では ”garden idyl花園牧歌" と呼ばれており、次の作品 ”Anne of the Islandアンの愛情” では、大学の卒業試験の勉強中に ”garden idyl” の原稿を見つけたアンが読み耽ります。
アンの想像した生家と実際の生家、そしてへスター・グレイの庭にも、アンの思い出の庭には必ずライラックが描かれていて、gardenオルタンスと対で用いられていることがわかります。

そして、ライラックの花言葉は「思い出」
ブロンテ姉妹が生きたヴィクトリア女王の時代には、

「ヴィクトリア朝時代には、花をはじめとする植物に象徴的な意味を持たせる伝統が確立しており、当時の人々は花言葉をよく使った」

『ブロンテ姉妹の抽斗』デボラ・ラッツ著 松尾恭子訳 柏書房2017年発行

そうですから、シャーロット・ブロンテを投影して "Anne of Green Gables赤毛のアン" を描き始めたモンゴメリは、アンの育ての母のネーミングを決める際には、きっと花言葉由来の意味を込めたはずです。
2歳になる前に母を亡くしてから母方の祖父母に育てられたモンゴメリにとって、母の思い出は「育ての母」である祖母の思い出であり、祖母をモデルとしてアンの養母を描いたことをマリラという名前で暗示したに違いありません。
モンゴメリは後に、 ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” でアンとギルバートの末娘に、アンの生みの母バーサと育ての母マリラの名前を合わせて与えています。
そして、アンの次男坊ウォルターがその妹に付けた愛称は「リラ・マイ私の・リラ」。
つまり「マリラ」はマイ・リラ、まさに「私のライラック =思い出」なのです。

マリラのネーミングについては、さらに沼深い考察を第五部 補章その3「ネルソンとマクニール、そして「マリラ」」で行なっていますので、そちらもどうぞご覧ください。

第4節 "Anne of Green Gables赤毛のアン" とシャーロットの年譜との符合

さて、2008年に出版百周年を迎えた"Anne of Green Gables赤毛のアン" は、1905年に執筆が始まっています。
そのことは、モンゴメリが亡くなる三年前まで書き続けた日記から知ることができます。
いつにも増して長い文章が綴られている1907年8月16日の日記から抜粋してみましょう。

"I have always kept a notebook in which I jotted down, as they occured to me, ideas for plots, incidents, characters and descriptions. Two years ago in the spring of 1905 I was looking over this notebook in search of some suitable idea for a short serial I wanted to write for a certain Sunday School paper and I found a faded entry written ten years before. "
"I began the actual writing of it one evening in May and wrote most of it in the evenings after my regular work was done, through that summer and autumn, finishing it, I think, sometime in January 1906."

”The Selected Journals of L.M.Montgomery VOLUME I: 1889-1910”

ここには、

  • プロットのアイディア、出来事、キャラクター像について、思いついた時にすぐに書き付けられるノートを常に携帯している。

  • 1905年の春にそのノートを見返していたとき、10年前に書き込んでもう消えかかっている書き込みを見つけた。

  • "Anne of Green Gables赤毛のアン" を実際に執筆し始めたのは1905年5月の夕べ、書き終わったのは1906年の1月。

ということが記されています。
なおモンゴメリは、1917年の雑誌連載で執筆した自伝的エッセイの中では、1904年春に書き始めて1905年10月に脱稿としています。
日記の記録よりも1年前倒しとなっているのです。
この謎については後ほど改めて第9章2節で触れますが、まずは日記の日付を正しいものとして、モンゴメリの年譜を整理していきましょう。
モンゴメリの日記から、「1905年の10年前=1895年の書き込み」が "Anne of Green Gables赤毛のアン" の原点となったことがわかります。
そして1905年の5月から "Anne of Green Gables赤毛のアン" を執筆し始め、1906年の1月に原稿を書き上げると、様々な出版社に送付してみたものの、ことごとく拒絶され、とうとうその原稿を古い帽子箱にしまいこんでしまいます。
しかし、1906年の冬に読み返したら面白かったので、今度はページ社という出版社に送付してみたところ、

「(1907年の)4月15日に出版受諾の手紙が届いた」(カッコ内拙補足)

”The Selected Journals of L.M.Montgomery VOLUME I: 1889-1910”

ことが、やはり1907年8月16日の日記に書かれています。
シャーロット・ブロンテの出世作 "Jane Eyreジェイン・エア” が出版された1847年からちょうど60年目には間に合わなかったとはいえ、その区切りの年にブロンテへのオマージュを散りばめた処女作出版の目処がついたというシンクロニシティは、彼女を大いに喜ばせたことでしょう。

そしてまた、ブロンテ マニアであるモンゴメリが、 "Anne of Green Gables赤毛のアン" の構想の元となった書き込みを携帯ノートに記したという年についても、シャーロット・ブロンテが妹のエミリーとアンを説得してペンネームを決め、これまで書き溜めていた3人の詩集の出版に動き出した1845年の50年後であった、というシンクロニシティが起きていたというストーリーを創作したとしても不思議ではありません。
もちろん、 "Anne of Green Gables赤毛のアン" の原点となるアイディア・ノートの書き込みが書かれたのは、本当に「1905年の10年前=1895年」だったかも知れませんし、単に切りの良い期間として10年としたのかも知れません。

しかし、シャーロット・ブロンテが亡くなった1855年から50年後の「1905年」に "Anne of Green Gables赤毛のアン" の執筆を始めた、ということにはモンゴメリの明確な意思が込められていたはずであり、この事を記した日記の日付「8月16日」からも彼女の意思が読み取れるのです。

第2章 アン・シリーズの時間軸タイムライン

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第1節 アンとマシュウの生まれ年

1905年1月2日。
モンゴメリは日記にこう綴っています。

"It is a dreadful thing to lose one's mother in childhood!  I know that from bitter experience."(拙訳:幼少期に母親を失うことは、恐ろしいことだ。私は苦い経験からそのことを知っている。)

”The Selected Journals of L.M.Montgomery VOLUME I: 1889-1910”

この記述は "Anne of Green Gables赤毛のアン" の主人公の人物設定を伺わせるものですが、そこには1歳9ヶ月で母親を亡くしたモンゴメリ自身の経験はもとより、同様の経験を共有しているブロンテ姉妹の心象世界をも投影しようという着想が滲んで見えます。

『ブロンテになりたかったモンゴメリ』で示した通り、モンゴメリはアン・シャーリーの誕生月3月を、シャーロット・ブロンテの命日である3月31日から持ってきています。
これは、霊魂再生説に心惹かれていたモンゴメリが、家庭を築いていく喜びから一転して、永遠の別れという悲しみの淵へと突き落とされたシャーロットの魂を、アン・シャーリーの物語で再生させようとしたことの現れでしょう。
そうであるならば、アンの生まれた年も同様にシャーロットに因んでいるはずです。
Rilla of Inglesideアンの娘リラ” の物語に描かれている世界史的出来事を手がかりに、アン・シャーリーの人生の時間軸タイムラインを辿っていくと、アンは1866年の生まれであることが導き出されます。
この年はまさに、シャーロットの生年である1816年の50年後
なのです。

さらにモンゴメリが "Anne of Green Gables赤毛のアン" という物語が生まれた年、すなわち自身が "Anne of Green Gables赤毛のアン" の執筆を始めた年は1905年だったということを、1907年の「8月16日」の日記で書いたのも、シャーロットの生まれ年「1816年」の「8」と「16」に符合する日を選んだからでしょう。

さて、アンは11歳の6月にグリーン・ゲイブルズに貰われて来ますので、

1866年+11歳=1877年から"Anne of Green Gables赤毛のアン" はスタート

ということになります。
また、アンをグリーン・ゲイブルズに連れてきたマシュウ・クスバートの年齢は、「六十歳の今」(『赤毛のアン』2章)とありますから、マシュウの生まれた年は1817年となります。

1877年 − 60歳=1817年:マシュウ・クスバートの生まれ年

実はこの1817年は、シャーロット・ブロンテの弟パトリック・ブランウェル・ブロンテという人物の誕生年なのです。

第2節 時間軸の初期設定

モンゴメリはアン・シリーズの全体を通して、そこに描かれたエピソードがいつ起きたのかを年月日によって示すことも、現実の出来事とのリンクがはっきりとわかるように描くこともほとんどしていません。
つまり、時間軸タイムラインの設定が不明瞭なのです。
しかし、ある特別なエピソードを手がかりにすることで、アン・シリーズのタイムライン設定を読み解くことができます。
それは「サラエボ事件」です。

1921年に出版された ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” は、

「新報の第一面には大きく黒い見出しでファーディナンド大公とかだれとかがサラジェボという気味の悪い名前の場所で暗殺されたと書いてあった。」 

『アンの娘リラ』村岡花子訳 1章より

というくだりから始まる、第一次世界大戦の勃発から終戦後までの時代を舞台とする物語です。
ここに書かれたファーディナンド大公暗殺とは、世界史的史実であるサラエボ事件のことですから、1914年6月28日日曜日の出来事を報じている記事だとわかります。

Rilla of Inglesideアンの娘リラ” の1章には、リラが「あとひと月」で「十五」歳になることや、ジェムが「二十一歳」であると記述されており、物語の冒頭に1914年6月28日に発生したサラエボ事件が置かれていることから、リラは1899年生まれであること、ジェムは1893年生まれであることがわかります。

1914年ー15歳=1899年:アンの末娘リラの生まれ年
1914年ー21歳=1893年:アンの長男ジェムの生まれ年

6章はその同じ年の8月ですが、ジェムが出征することになり、その前の晩にアンが

「スーザン、私は今日、あの子がいつか私を求めて泣いた晩のことを考えているのよ。まだ生まれて数ヶ月しか経っていなかったわ。【中略】もしも二十一年前のあの晩、あの子が私を求めて泣いた時、行って抱いてやらなかったなら、私はとても明日の朝を迎えることができなかったでしょうよ。」

『アンの娘リラ』村岡花子訳 6章より

と言っているセリフからも、ジェムが1914年8月には21歳であることが確認できます。

一方 ”Rainbow Valley虹の谷のアン” の3章には、 ”thought thirteen-year-old Jem.” とハイフンで繋げた表記で、じきにティーンエイジャーになるのにまだ子供扱いされることを嫌がるジェムの描写があります。
つまり、1893年に生まれたジェムが13歳になる年=1906年が、 ”Rainbow Valley虹の谷のアン” の物語が始まる年ということになります。

1893年+13歳=1906年から ”Rainbow Valley虹の谷のアン”はスタート

そして、そこで描かれている草木の生育の様子から、この3章は5月下旬ごろのことと分かるので、彼の誕生日は5月下旬から1〜2ヶ月の間であると推測されます。
さらに "Anne's House of Dreamsアンの夢の家” 19章では、アンとギルバートの最初の子ですぐに亡くなるジョイスが、 "In early June" にマリラが手伝いに来てから程なく生まれたとしたうえで、34章でジェムが生まれたときにアンが、ジョイスが生きていたら満一歳を越えていると言っていることから、ジェムはおそらく6月下旬から7月の間に生まれていると考えられます。
Rilla of Inglesideアンの娘リラ” の1章でも、1914年6月28日のサラエボ事件を報ずる新聞を読みながらのアンや家政婦スーザンとの会話の中で、Missコーネリアが「ジェムは二十一だし」と言っていることからも、6月28日前後には21歳になっていることがわかります。

さてここからは、このジェムの誕生年である1893年を軸として、アン・シリーズの時間軸タイムラインを遡ります。
"Anne's House of Dreamsアンの夢の家” ではジェムの誕生はアンの結婚から2年後と置かれているので、アンとギルバートの結婚は1891年であることがわかります。

ジェムの誕生 1893年ー2年=1891年:アンとギルバートの結婚式が挙げられた年

"Anne's House of Dreamsアンの夢の家” の2章では、9月に結婚式を挙げるアンは25歳と書かれているので、

アンの結婚 1891年ー25歳=1866年:アン・シャーリーの生まれ年

ということになります。
こうして導き出された主人公の生まれた年をもとに "Anne of Green Gables赤毛のアン" の物語を振り返ると、前述の通り、

1866年+11歳=1877年:アンがグリーン・ゲイブルスに来た年
1877年ー60歳=1817年:マシュウ・クスバートの生まれ年

ということがわかるのです。

では、マリラの誕生年はいつなのでしょうか。
マリラは ”Rainbow Valley虹の谷のアン” の2章で85歳と記述されています。
2章はジェムが13歳になる少し前、1906年の5月下旬のことですから、マリラの誕生日がこの時期よりも前なら彼女の生まれた年は、

1906年ー85歳=1821年

となりますが、この時期よりも後に誕生日を迎えるとしたら1906年のうちに86歳になるので、

1906年ー86歳=1820年

がマリラの生まれた年となります。
マリラの誕生年が1920年だとすれば、現在公表されているアン・ブロンテの誕生年と同じです。
ところが、マリラの生まれた年は1920年で確定かといえば、そうではないのです。
実は、アン・ブロンテの墓碑銘は二つあり、それぞれの書かれ方が異なっています。
ハワースにある壁銘板の碑銘に彫られた享年から考えられる満年齢が28歳であるのに対して、アンが没した地スカーバラに建てられた墓碑に彫られた享年から考えられる満年齢は29歳となっているのです。
これについては第五部 補章その2で考察しますが、いずれにせよモンゴメリはギャスケルの著作物に写し取られたハワースの碑銘から推察されるアン・ブロンテの死亡時の満年齢28歳(この場合の誕生年は1921年)と、後年の研究からわかったアン・ブロンテの誕生年1920年のどちらでも良いように、マリラの年齢を置いたのでしょう。
やはりモンゴメリは、マリラの誕生年もブロンテに因んだ年に設定していた様です。

先にマシュウの生まれ年が1817年と記しましたが、その年はブロンテ姉妹の肖像画を世に残したブロンテ家の長男パトリック・ブランウェル・ブロンテの誕生年と一致していることは既にご紹介しました。
つまり、マリラとマシュウのクスバート兄妹が、アン・ブロンテとブランウェルの兄妹に生誕年で重ねられていたことが推察されます。
アン・シャーリーの生まれ年がシャーロット・ブロンテの誕生年である1816年から50年後の1866年に設定されていることと考え合わせても、これは単なる偶然の一致ではないでしょう。

こうなると、そもそも "Anne of Green Gables赤毛のアン" の物語の始まりが、ブロンテ姉妹の父パトリック・ブロンテが生まれた1777年からちょうど100年後の「1877年」とされていることにも、モンゴメリの意図が込められているように思えてきます。

『ブロンテになりたかったモンゴメリ』でご紹介したように、アン・シャーリーの誕生月である3月はシャーロット・ブロンテの命日3月31日から、エミリー・バード・スターの誕生日である5月19日はアン・ブロンテの命日5月28日とエミリ・ブロンテの命日12月19日を組み合わせたものからである可能性を考え合わせてみても、モンゴメリはシャーロットとその家族の誕生年や没年月日を、アン・シャーリーの物語に色濃く反映させていたのです。

このように、モンゴメリは「実在した人物の年譜を物語に埋め込む」という仕掛けを、アン・シリーズを通して行なっています。
それはブロンテに纏わる人々に限ったことではありません。
それらを読み解くとモンゴメリの「秘密」が浮かび上がってくるのです。

第3節 アン・シャーリーの誕生日

Anne of Windy Willowsアンの幸福” には、「小さなエリザベス」と呼ばれる女の子が登場します。
アンの下宿する柳風荘のお隣の ”Evergreens常磐木荘" に「囚われの身」で住んでいるその女の子は、ミルクを届けるアンと塀の扉越しに出会うことで仲良くなりますが、彼女とアン・シャーリーは同じ誕生日であることが「一年目の11章」に記されています。

そもそもアンの3月生まれという設定は、シャーロット・ブロンテの命日が3月31日であったからと推察されるのですが、だからと言ってアン・シャーリーの誕生日が3月31日という訳ではないでしょう。
エミリー・バード・スターの誕生日が二人のブロンテの命日の組み合わせであったように、アンの誕生日も二人の命日の組み合わせではないかと推察されるからです。(詳細はnote記事『アンの誕生日は なぜ”Middle March”?』をご参照ください。)
そしてブロンテ姉妹には有名な3人の他にも早くに亡くなった二人の姉がいて、それぞれ次のような命日になっています。

マリア(あるいはマライア)・ブロンテの命日 5月6日
エリザベス・ブロンテの命日 6月15日

マリア(あるいはマライア)の「5月」は、アン・ブロンテの命日の「5月」と同じ。
残ったエリザベスの命日「15日」から取られている可能性が大なのは、 ”Anne of Windy Willowsアンの幸福” でアン・シャーリーと誕生日が同じと置かれているのが「小さなエリザベス」だからです。
こうして素直に考えれば、

アン・シャーリーの誕生日は3月15日

ということになります。(「小さなエリザベス」に関しては、第11章1節「夭折した二人のブロンテ姉妹」と、『もう一人の 《小さなエリザベス》〜女王陛下との数奇な巡り合わせ 』、『アンの誕生日はなぜ”Middle March”?』』も合わせてご参照ください。)


これについては、アン・シリーズ3冊目にあたる ”Anne of the Islandアンの愛情” の27章ですでにそれらしい記述があります。
In mid-March3月の半ばごろ” 、パティの家の持ち主から手紙が届き、4月の試験に備えて勉強しているアンたちがその手紙について話すシーンの後、フィリパと二人で散歩に出かけたアンは彼女が婚約したことを聞き、ロイ・ガードナーから届いた誕生日プレゼントに思いを馳せています。

「あたしの誕生日には、すみれの箱に添えて、なんと美しい短詩をおくってくれたことだろう!アンはそれを1行のこさず暗記してしまった。」

『アンの愛情』村岡花子訳 27章より

また、最後に執筆された ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” でも、アンの長男ジェムが母親の誕生日のお祝いにネックレスを贈るエピソードが置かれていますが、その辺りの描写からもアンの誕生日が3月の半ばであることが明示されています。

おそらくモンゴメリがエミリー・シリーズを構想し始めた1911年ごろに、エミリーの誕生日がブロンテ姉妹の二人から取られた際、アン・シャーリーの誕生日もただの「3月」ではなく何月何日であるかの詳細設定がなされたのではないでしょうか。

「第二部 失われた世界への憧憬」へ続く。〜

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