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赤毛のアン ヨセフの真実 / 第四部 秘密の時間軸

第9章 操作された時間軸タイムライン

第1節 スペイン風邪がさせた決心

1913年7月末にシャーロット・ブロンテの禁断の恋文のニュースを知った後、モンゴメリは ”Anne of the Islandアンの愛情” 、 ”Anne's House of Dreamsアンの夢の家” 、 ”Rainbow Valley虹の谷のアン” 、そして ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” の4作品をほぼ2年おきに世に出します。
アンとギルバートが婚約する ”Anne of the Islandアンの愛情” から始まり、第一次世界大戦が終結して恋人のケネスがリラのもとに帰ってくる ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” で終わるこの4作品を生み出したのは、シャーロット・ブロンテのエジェ教授への手紙であったことは間違いないでしょう。(本稿第7章1節を参照。)
モンゴメリは、彼女が22歳の時にインフルエンザで亡くしたウィルへの思慕を、物語の中でアンがギルバートと結ばれることで成就させているのです。
アンとギルバートの結婚が1891年、すなわちウィルから告白された年に設定されたことも当然のことと言えます。(詳細は第8章を参照のこと。)

しかしモンゴメリは、シャーロット・ブロンテが主人公シャーリーとルイ・ムア、もう一人の主人公キャロラインとロバート・ムアの二組の合同結婚式をラストに描いた "Shirleyシャーリー” へのオマージュとして、メレディス牧師とローズマリー、ノーマン=ダグラスとエレンの二組の合同結婚式で締めくくった ”Rainbow Valley虹の谷のアン” を書き終える頃までは、アンの結婚の年を明確化することを避けていました。
それどころか、誤誘導のための仕掛けさえ置いています。
Anne's House of Dreamsアンの夢の家” のなかで、アンとギルバートの結婚から1年後に生まれたジョイスはその日の夜に亡くなってしまい、その1年後つまり二人の結婚から2年後にジェムを誕生させているモンゴメリは、ジェムの生まれた年にカナダ自由党の18年ぶりの政権奪還というちょっとした「史実」を置いています。
このカナダ自由党の大勝は1896年に実際にあった出来事であり、この年にジェムが生まれたと読者が受け取ることで、アンとギルバートの結婚をその2年前の1894年と計算できるように誤誘導したのです。
自分の日記は必ず世に出ると信じていたモンゴメリは、そこに綴られたウィルとの思い出がアンの物語の時間軸と符合することに気づかれないよう、このような工夫を施したと思われます。

しかしその後、ある悲劇が彼女の気持ちを変えました。
Rainbow Valley虹の谷のアン” を書き終えてほどなくして、世界的に猛威をふるったスペイン風邪(インフルエンザ)のために、親友ともいえる間柄であった9歳年下の従姉妹、フレデリカ・キャンベルが亡くなります。
1919年1月末のことでした。
またしても大切な人をインフルエンザに奪われたモンゴメリは、アンとギルバートの物語に託したものが何であるのかを、もはや隠して置きたくない心境になったのでしょう。
1921年に出版された ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” を、モンゴメリは1914年6月28日日曜日に発生したサラエボ事件を報じる新聞記事から始めました。
そこにジェムとリラの年齢を明記することで、この世界史の重大事件があった年月日を基準としてアン・シリーズを流れる時間を逆算すれば、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” から始まり ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” に至るまでの物語を形作る、様々な出来事がいつのことであったのかを知ることができるようにしたのです。(本稿第2章2節を参照。)

Rilla of Inglesideアンの娘リラ” で初めて世界史レベルの史実とリンクした時間軸を挿入したことで、Rilla of Inglesideアンの娘リラ” までのタイムラインが明確化し、またそれによって Anne's House of Dreamsアンの夢の家” に埋め込まれたウィルとの思い出の年代を確定したモンゴメリ。
彼女にそう決心させた従姉妹のフリード(フレデリカ)・キャンベルに、
  ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” は献呈されています。

第2節 ”Anne of Windy Willowsアンの幸福” で失われたもの

Rilla of Inglesideアンの娘リラ” で一旦アン・シリーズを描き終えたモンゴメリは、1921年8月にエミリー・バード・スターの物語を執筆し始めます。
エミリーについては10年前から構想していたことが、当時の日記に書かれています。

”my heroine is Emily, just as Anne was Anne.  She has been 'Emily' for the past ten years during which time I have been carrying her in my mind, waiting for the time when I could put her into a book.”(拙訳:アンがアンであったように、新しいヒロインはエミリーである。彼女はこの十年間、私の心の中で育まれ、本になる時を待っていた。)

”The Selected Journals of L.M.Montgomery VOLUME III: 1921-1929” p. 6

1921年の10年前といえば ”Anne of Avonleaアンの青春” を描き終えてしばらくたった頃。
Anne of Avonleaアンの青春” の後1915年に出版される ”Anne of the Islandアンの愛情” までの間、モンゴメリはアンのその後の物語とエミリーの新しい物語を同時に練っていたのかも知れませんし、アンのお話に終止符を打ったつもりだったかも知れません。

1921年の10年前は1911年。
その年の7月に結婚したモンゴメリが日記に綴った新婚旅行の記述からは、それがシャーロット・ブロンテの感性への共感だけでなく、自分とは異なる点を確かめる旅であったことが伺われます。
例えばウォルター・スコット邸への道中の景色に魅了された一方で、シャーロットがとても喜んでいたエディンバラの都市にはその陰鬱さにうんざりしたことや、アーガイル地方の美しさやキリミュアの田舎の光景に感動や親しみを覚えるものの、プリンス・エドワード島の風景の方がずっと好みであったことが、文章の合間から伺われます。
そしてエミリー・シリーズの構想が前述したように1911年に始まっているのは、新婚旅行を境にして、シャーロットを模したアン・シャーリーの造形をこれ以上描くよりも、田舎を好むなど多くの面で自分と似ているエミリー・ブロンテをモデルにした物語を描きたいと思い始めたからかもしれません。

いずれにせよ、1913年にシャーロット・ブロンテの手紙のニュースを知った後でモンゴメリが綴り始めたのは、エミリーではなくアンの物語でした。
Anne of the Islandアンの愛情” 、 ”Anne's House of Dreamsアンの夢の家” 、 ”Rainbow Valley虹の谷のアン” 、”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” の4作をほぼ2年おきに描いた彼女は、 ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” でアン・シリーズにひと区切りを付けた後で、エミリー・シリーズ3作や『銀の森のパット』シリーズ2作など、シャーロット以外のブロンテからネーミングされたシリーズ物を描きます。
ところが ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” から15年後、なぜか再びモンゴメリはアン・シリーズに戻っているのです。
それも、時間を巻き戻す形で。

モンゴメリがアン・シリーズを再開した作品 "Anne of Windy Willowsアンの幸福” には、アン・シャーリーがギルバートと婚約してから結婚するまでの3年間の文通が描かれています。
書簡形式で進むその物語の書き出しは「九月十二日月曜日」。
アン・シリーズの中で日付と曜日の記述があるのはこの箇所だけです。
実はこの日付と曜日から、アンの物語の中に埋め込んだモンゴメリの「もうひとつの秘密」を知ることができるのです。

これまでの説明でお分かりの通り、アンの結婚は1891年の出来事です。
ところがその3年前の1888年のカレンダーを調べてみると、その年の「9月12日」は「水曜日」。
"Anne of Windy Willowsアンの幸福” の書き出しにある「月曜日」ではありません。
それではと、その前後の年のカレンダーをみると1887年の9月12日が月曜日だったのです。
この一年のズレはなぜ生じたのでしょうか。
モンゴメリが適当に設定した「九月十二日月曜日」が、たまたま一年前に実際に存在していたのでしょうか?
そうだとしたらなぜモンゴメリは、この日だけにわざわざ曜日を付したのでしょうか?
私の推理はこうです。

*モンゴメリは、アンを53歳まで歳を重ねさせて一旦書き終えたアン・シリーズを、ある意図を持って再開した。
*再開する物語の始まりを、現実に存在した1887年9月12日月曜日とし、それがアンとギルバートの結婚の3年前であると設定することで、既に世に出ているアン・シリーズの時間軸を修正しようとした。
*そうすることで19年前に執筆した 
Anne's House of Dreamsアンの夢の家” に埋め込んだ、ウィルとの恋の思い出を隠蔽しようとした。

つまり、アンの結婚の年を1891年ではなく1年前倒しの1890年となるように、誤誘導の操作をしたと考えられるのです。

例えば、"Anne of Windy Willowsアンの幸福” の次に書かれた ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” のラストでは、「結婚15周年」を迎えたアンとギルバートが翌年の2月にロンドンで開かれる大医学会議に合わせて、ヨーロッパへ第二の新婚旅行に出かける計画を立てるというエピソードが描かれています。
これは、モンゴメリが20年前に書き終えている ”Rainbow Valley虹の谷のアン” の物語の冒頭の、5月に夫妻が3ヶ月に及ぶヨーロッパ旅行から戻ってきたところへと途切れることなく繋げるためのもの。
しかし ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” までのタイムラインを丁寧に辿れば、 ”Rainbow Valley虹の谷のアン” でアンとギルバート夫妻がヨーロッパ旅行から帰還するのは1906年の5月。(本稿第2章2節参照。)
アンが結婚した年月は1891年9月なので、「結婚15周年」を迎えるのは1906年の9月、つまりアン夫妻がヨーロッパから戻ってきた後であるはずなのに、 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” のラストの1905年の秋に置かれてしまいました。(本稿第11章1節のエピソード表を参照。)
そもそも ”Rainbow Valley虹の谷のアン” のどこにも「結婚15周年」を伺わせるエピソードは描かれていませんが、そのことを利用して、アン・シリーズの年代操作を行ったのでしょう。

アン・シリーズのタイムラインを1年前倒しさせるための辻褄合わせとその綻びは、ジェムの年齢を通して見ることができます。
Rilla of Inglesideアンの娘リラ” までのタイムラインでは1893年生まれであるはずのジェムの年齢が、 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” では1892年生まれとなるように置かれています。
具体的には、リラが生まれた年にジェムは7歳になったと記述しているのです。
本稿第2章2節にある通り、 ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” にはサラエボ事件があった1914年6月末にジェムが21歳になっていることと、その一月後にリラが15歳になることが描かれています。
つまり、ジェムとリラは6歳違い(ジェムの誕生日からリラの誕生日の間だけ7歳違い)の兄妹なのですが、 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” では7歳違い(上記の間だけ8歳違い)となっているのです。
これは、"Anne of Windy Willowsアンの幸福” の冒頭の日付と曜日の記述から導き出されるアン・シャーリーの結婚年が1891年ではなく1890年と1年前倒しになるために、ジェムの生まれた年も1年早まってしまった結果です。

こうした強引なタイムラインの操作の結果、シャーロット・ブロンテやその家族の誕生年との符合がアンの物語から失われてしまいました。
シャーロット・ブロンテへのオマージュを彼女の年譜ごと物語に織り込み、アンの「1891年9月の結婚」というパラレルワールドに「1891年8月26日のウィルの告白」を密かに埋め込み現実を塗り替えたモンゴメリが、晩年になってその大切な時間軸を壊したのは何故か。

その理由を知る重要な手掛かりは1935年にあります。
この年、モンゴメリは英国から大英勲章を授与されているのです。
勲章の知らせが同年の5月23日に届き、9月の初めに授与式が執り行われたことが日記に綴られているのですが、"Anne of Windy Willowsアンの幸福” が描き始められたのは授与式前月の8月12日でした。
(*2021年4月3日追記:1935年3月9日のモンゴメリの日記には ”Today I started in to do spade work on a new Anne book” との記述が見られるが、”spade work” は下準備作業のことであり、新たに書くアンブックスの構想段階。"Anne of Windy Willowsアンの幸福” の執筆は、1935年8月12日の日記に ”Today I began to write Anne of Windy Willows” とある。本稿第11章2節「Lucyという名の系譜」の当該日記を参照。)

大英勲章という名誉は、モンゴメリにとって何ものにも変えられない喜びであったであろうことは想像に難くありません。
しかしそれ以上に、今やカナダはおろか心の祖国である英国を代表する作家となったモンゴメリは、夫とは違う男性への思いを物語の中に埋め込んだことに気づいた世間から、「不実を働いた」とゴシップネタにされるのではないかという怖れを抱いたのではないでしょうか。
もちろんその証拠は日記の中にしかなく、それを焼いてしまえば永久に気づかれることはありません。
しかし、日記が消滅することは自らが殺されるに等しい、そう日記に綴っていたモンゴメリ。
いづれ日記が公開されることを望んでいた亡き母の意向を汲み、次男スチュアートが1981年にゲルフ大学に寄贈しています。
そんな彼女だからこそ、1913年に公開されたシャーロット・ブロンテのエジェ教授への手紙が、世間からどのように受け止められたのかを思い起こし、アン・シリーズの時間軸の改竄を思いついたと考えられるのです。

実はモンゴメリの改竄は、これが初めてではありません。
Anne's House of Dreamsアンの夢の家” の執筆が終わった後の時期である1917年の6月〜11月に、トロントの ”Everywoman's World” という雑誌に自伝的連載エッセイを寄稿しているのですが、そこでは ”Anne of Green Gables赤毛のアン” を1904年の春に描き始め、描き終えたのは1905年の10月と書いています。
その一方で日記には、創作ノートに ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の原点となった書き込みをしたのが1895年、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の執筆を始めたのが1905年5月と書かれてあり、モンゴメリが自身の創作活動をシャーロット・ブロンテの創作活動の流れになぞらえて進めていたことは第1章4節に書いた通りです。
日記に書いてある時間の流れを1年前倒しにしてエッセイを綴ったのは、ブロンテを意識していたことを伏せて、 ”Anne of Green Gables赤毛のアン” のオリジナリティを強調したかったからかも知れません。
ところがそんなエッセイの後に描いた2作品、 ”Rainbow Valley虹の谷のアン” 、 ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” でもシャーロット・ブロンテへのオマージュは続いています。

1935年の大英勲章の受賞が引き金となったアン・シリーズの時間軸の改竄は、”Anne's House of Dreamsアンの夢の家” に埋め込んだウィルの思い出の年代的符合を無かったことにする試みであったと推察されますが、それは同時にアン・シリーズの細部に埋め込まれたシャーロット・ブロンテやその家族の誕生年との符合を無くすためでもあったでしょう。
Anne of Green Gables赤毛のアン” とそのシリーズは何者にも依らず自分自身で創造した産物である、との強烈な自負心から、心の底から湧き上がる創作の動機そのものを抹消してしまったモンゴメリ。
これも、勲章という名誉がもたらした功罪だったのかもしれません。

モンゴメリの連載エッセイは、”The Alpine Path: The Story of My Career(邦題『険しい道』)” という自伝本として彼女の死後、1974年に出版されています。

*なお、英語版ウィキペディアでは実際に "Anne of Windy Willowsアンの幸福” の誤誘導に基づいた算出が行われてしまっているため、アンが最初に物語に登場してから結婚するまでのタイムラインが1年前倒しになっています。(〜2021年3月現在。)
ブロンテとアン・シリーズの名前やエピソードの符合については近年ようやく注目され始めているようですが(2017年のNetflixのドラマ『アンという名の少女』など)、両者の年代の符合については、まだ英語圏では気づいていないようです。

*英語版Wikipedia についての追記:
2021年10月12日、 ”Anne of Green Gables" の当該サイトを確認した所、Lucy Maud Montgomery's books on Anne Shirleyという一覧表に、2021年3月にはあったある項目が無くなっていることに気が付きました。

  1. 2021年3月まではあった、アン・シリーズの “Date published出版年” や “Anne Shirley's ageアンの年齢” 、 ”Timeline year物語の年代” の3項目が、 “Date published出版年” と ”Timeline year物語の年代” の2項目だけになった。

  2. このうち、”Timeline year物語の年代”の内容が、3月まであった “Anne Shirley's ageアンの年齢” として整理されていたものに置き換わった。つまり、3月まで”Timeline year物語の年代”という項目で書かれていた内容が消去されている。

  3. その他のアン・シリーズに関するWikipediaサイト内の一覧表  Lucy Maud Montgomery's books on Anne Shirleyでは、上記の “Date published出版年” と”Timeline year物語の年代” の内容が、“Date published出版年" と “Anne Shirley's ageアンの年齢” として整理されている。

この「変化」により、英語版Wikipediaを参考にしようとすると、かえって混乱をきたすという状況になっているため、改めて次のような説明を付け加えておきます。

  1. 2021年10月12日現在、英語版Wikipedia ”Anne of Green Gables" の一覧表にある ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” の「アンの年齢」は「49歳−53歳」となっています。
    しかし、同表の ”Anne's House of Dreamsアンの夢の家” にも「25歳−27歳」とある通り、アンが27歳の年に長男ジェムが生まれています。
    そしてジェムが21歳になる年に、第一次世界大戦が始まり、アンはその時「27歳+21年=48歳」です。
    従って、第一次世界大戦の年からスタートするRilla of Inglesideアンの娘リラ” の「アンの年齢」は「48歳−53歳」(「物語の年代」としては1914年〜1919年の6年間)となります

  2. 物語にある通り、 ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” のスタートする1914年の15年前に、末娘のリラが生まれています。
    従って、リラの誕生が描かれる “Anne of Ingleside炉辺荘のアン" の最初の年の、「アンの年齢」は「48歳−15年=33歳」。
    つまり、 “Anne of Ingleside炉辺荘のアン” の「アンの年齢」は「33歳−39歳」(1899年〜1905年の7年間)となります。( “Anne of Ingleside炉辺荘のアン” の年代考察の詳細は11章1節をご参照ください。)
    しかしながら、英語版では当該箇所が「34歳−40歳」となってしまっているのは、“Anne of Ingleside炉辺荘のアン” のラストに描かれたアン夫妻の「結婚15周年」の描写から、ラスト時点の「アンの年齢」を「25歳+15年=40歳」と単純計算したものと考えられます。
    そして、“Anne of Ingleside炉辺荘のアン” の7年間の始まりの年にリラの誕生が描かれているので、アンの年齢を逆算して物語のスタート時点では34歳であるとしてしまったのでしょう。
    また、リラが15歳になる年に第一次世界大戦が始まることから、その時の「アンの年齢」は「34歳+15年=49歳」となってしまったようです。

本稿第9章2節でご説明した通り、モンゴメリが晩年に仕掛けた「誤誘導」に気づくことができなければ、このような間違った「アンの年齢」が導き出されます。
英語版Wikipediaの ”Anne of Green Gables" とそのシリーズのサイトでは、アンとリラの年齢のみでシリーズ全体の「アンの年齢」の算出が行われており、各物語における「ジェムの誕生年のズレ」が全く考慮されていません。
そのため、「結婚15周年のズレ」にも気付けないのです。
あるいはこう考えることも可能です。
つまり、英語圏でも「結婚15周年」にズレがあることに気付いた。
だから当初あった ”Timeline year物語の年代” の項目内容を表から消去し、「わかりやすいところだけを残した」ということかもしれません。

第10章 それでも見つけてほしいもの

柳暗めモリス
ウィリアム・モリス ”柳の枝”

第1節 WillowとWill

時間軸の操作が行われている『アンの幸福』の原題は ”Anne of Windy Willows"。
米国では ”Anne of Windy Poplars"(Poplars=ポプラ)に変更されました。
この経緯について、モンゴメリはペンフレンドのマクミランにこう綴っています。

「わたし自身がつけた題は『風そよぐ柳荘のアン』というものでした。でもストークス社側は、この題ではすぐさまケネス・グレアムの動物童話『風そよぐ柳の木立』を連想してしまうという考えでした(ある年のクリスマスにあなたが送って下さったこの本を、わたしは再三再四読み返し、そのたびごとに前回にも増して楽しんだものでした)。そんな考えは全くのこじつけにすぎないと思いましたが、《柳》のかわりに、《ポプラ》にしたらどうでしょう、と提案いたしました。でも、ハラップ社側はこの意見をきっぱりと拒絶し、《柳》のままでいいと言い張りました。ハラップ氏の言うところでは、英国人はポプラについてほとんど何も知らないが、柳のことは知り尽くしている、というわけです!! それで一件落着。」 

『モンゴメリ書簡集I G.B. マクミランへの手紙』 宮武潤三・順子訳 p.222~223  篠崎書林 

英国でハラップ社から出版された ”Anne of Windy Willows" と、米国でストークス社から出版された ”Anne of Windy Poplars" は、題名だけでなく内容にも異なる箇所があります。
このあたりの事情についても、マクミラン宛の手紙から引いてみましょう。

「ストークス社の出版顧問は、アンが墓地を散歩するシーンと、後にアンが《トムギャロン館》を訪問するシーンとにでてくるエピソードのいくつかが「あまりにも無気味」だから、削除したほうがよいと言ってきました。で、その意見に従って削除したわけです。英国版はいつもアメリカ版をもとにして印刷されていましたので、この本もそうなるだろうと思い、削除したことをハラップ社に伝える必要はないと思っていました。ところが、ハラップ社は初めて独自に活字を組んだのでした。というわけで、英国版ではその「無気味なもの」がそっくりそのままはいっているわけですが、それでは具合が悪いと思った人はいないようなのです。それどころか、滑稽なことに、その断片のひとつが『ニューズエージェント』紙の記事に引用されていて、この本における面白い点のひとつだというのです!!!」 

『モンゴメリ書簡集I  G.B. マクミランへの手紙』  宮武潤三・順子訳 p.222    篠崎書林

村岡花子さん訳の "Anne of Windy Willowsアンの幸福” は英国版を元にしているので、米国版で削除されたお墓や死、闇といった情景が描かれた箇所を読むことができます。
そこには恐怖や怪奇といった印象は全くなく、「この世界と向こうの世界」の境を越えた交信に憧れるモンゴメリの心象世界が垣間見られます。
アンからギルバートへの手紙だけで綴られ、ギルバートからの返信は一切描かれていない "Anne of Windy Willowsアンの幸福” は、まさにモンゴメリからウィルへの手紙そのもの。
もちろんそれは、一方通行ということではありません。
読者には示されていないけれど、ギルバートからの返事は確かにアンのもとに届いていたのであり、だからこそ二人は後に結婚して幸せな家庭を築くのです。
そしてモンゴメリもきっと、彼女にしかわからないウィルからの返信を受け取っていたに違いありません。
柳の枝を静かに揺らす風のようなウィル=" Windy Will "の気配に包まれて、モンゴメリは "Anne of Windy Willowsアンの幸福” を綴ったのでしょう。
向こうの世界への想いを一層募らせていった彼女が、ウィルへの想いを昇華させるためにアン・シリーズを描き続けたという事実を世間の目から隠すために時間軸の操作を仕掛けた "Anne of Windy Willowsアンの幸福” 。
Wikipediaの「アンの幸福」の記事にも、

原題にある「Willow」は柳という以外にも未亡人という意味があり(恋人を弔うの意味であるwear the willowという成句がある)、作中には多くの未亡人が登場する。

ウィキペディア「アンの幸福」の「概要」の項参照

とあるように、”Anne of Windy Willows" には二重三重の意味があることは間違いないでしょう。

こうしてみると、”Anne of Green Gables赤毛のアン” でアンがネーミングした湖ウィローミアも「ウィルの湖」であったことに気づきます。("mere"は詩語で「湖、池」の意味。)
モンゴメリは1917年に連載された自伝エッセイを書く際に、”willowmere” を "Wiltonmere “と誤記していることが自伝の邦訳者によって指摘されていますが、これも ”Anne of Green Gables赤毛のアン” を執筆し始めた時期を同エッセイで1年前倒しにしたことと同様、意図的な誤りであったと思われます。

第2節 三年間の幸福

ウィルへの想いで満たされた "Anne of Windy Willowsアンの幸福” にも、シャーロット・ブロンテの "Villetteヴィレット" へのオマージュが散りばめられています。
この作品では、アンとギルバートが婚約してから結婚するまでの3年間の、アンからギルバートへの手紙を軸に、アンが中学校の校長職に就くため赴任したサマーサイドの街で出会った人たちとの交流が描かれています。
この構図はそのまま、 "Villetteヴィレット" のラストシーンにあるのです。
"Villetteヴィレット" の主人公ルーシー・スノウも、西インド諸島に赴いたポール・エマニュエルと3年間の文通をします。
ポールが用意してくれていたヴィレット郊外のコテージで、小さな学校を慎ましやかに開いたルーシー。
その後、ポール・エマニュエルを海難事故で失うルーシーは、

"M. Emanuel was away three years.  Reader, they were the three happiest years of my life.  ”(ムッシュ・エマニュエルは三年間いなかった。読者よ、それは私の人生でもっとも幸せな三年間だった。)

『ヴィレット』青山誠子訳 第42章より

と述懐します。
この「ルーシーの3年間の文通」が、モンゴメリの『アンの幸福』では「アンの3年間の文通」という形でオマージュされており、またルーシーのセリフにある「もっとも幸せな三年間」が、ブロンテに造詣の深い村岡花子さんによって "Anne of Windy Willowsアンの幸福” というタイトルになったに違いありません。

もっとも、ロマンスよりもユーモアの小悪魔が心に住み着いているとの自覚を持つモンゴメリは、"Villetteヴィレット" ルーシーの真面目な述懐を、面白エピソードにしてしまっています。
例えば上記ルーシーのセリフは、ルーシー自身が「その矛盾した言葉」と評していますが、愛するポールがそばにいないのに幸福であるという、そのわけは次のようなものでした。
船の便があるたびに、ポールからの長文の手紙がルーシーの元へ届けられることで、「愛のエネルギーが供給」され続け、ルーシーは小さな学校の校長としてやっていくことができたのだと。
そこをモンゴメリは、次のように変換します。

「(柳風荘の持ち主である船長は)自分じゃ家にいることは滅多になかったし、長く逗留することなんか一度もありませんでしたがね。ケイトおばさんはその点が不満だと、いつも言い言いしたものでしたよ。けれども、私たちにゃ、船長がそんなにわずかしか家にいられないのが不満だと言っているのか、それとも帰ってくること自体が面倒だと言うのか、どうも分かりませんでしたがね。」

『アンの幸福』村岡花子訳 一年目1章より

これは、アンが下宿先を見つける際に知り合った近所のおばさんのセリフとして置かれているのですが、そのおばさんは次のようなことも言うのです。

「ケイトとチャティはあなたがいない間にあなたの持ち物を掻き回しなどしませんよ。たいへん良心的な人たちですからね。レベッカ・デューはやりかねないけれど、でもあなたの告げ口などしませんよ。」

『アンの幸福』村岡花子訳 一年目1章より

この「あなたがいない間にあなたの持ち物を掻き回す」だの、あらぬ「告げ口」をするだのと言うのは、"Villetteヴィレット" に登場するマダム・ベックという寄宿学校の女性校長の描写と同じであり、モンゴメリはそのような人物を揶揄しているのでしょう。
マダム・ベックは、シャーロットとエミリ・ブロンテが留学したブリュッセルの寄宿学校の校長で、エジェ教授の奥方であるエジェ夫人がモデルと言われています。
シャーロットが何通か送った恋文を、返事を書かずにゴミ箱に破り捨てたエジェ教授。
そのゴミ箱から恋文を拾い上げて貼り合わせ、取っておいたエジェ夫人。
シャーロットが描写したマダム・ベックの驚きの生態も、あながち誇張されたものではないと、モンゴメリは感じたのかもしれません。

第3節 二人のキャサリンと「6月28日」

ところで、先ほど引用したセリフにあるケイト "Kate" とチャティ "chatty" は、柳風荘の持ち主である船長の未亡人とその妹ですが、Kateはキャサリンの、Chattyはシャーロットの愛称です。
つまり、Kateはエミリ・ブロンテが著した『嵐が丘』のヒロインCatherine(キャサリン)に、Chattyはシャーロット・ブロンテに対応させていることがわかります。
キャサリンといえば、この "Anne of Windy Willowsアンの幸福” にはもう一人の「キャサリン」が登場します。
それはアンより少し年上のKatherine 副校長(村岡花子さん訳では「キャザリン」)。
頭が良いけれど皮肉屋で、生徒を恐怖で統率する女性です。
ある時アンが、

「あなたの名前がKで始まっていてよかったと思うわ。KATHERINEのほうがCで始まるCATHERINEよりもずっと魅力的よ。Kという字はきざなCより、はるかにジプシー的*ね」
*拙注:「ジプシー的」とはロマンティックの意味。ウォルター・スコットの小説は「ジプシー小説」と呼ばれており、そこから転じた。

『アンの幸福』村岡花子訳 1年目2章より

と伝えると、次によこした手紙にはCATHERINE BROOKEと署名してくるなど、何かと校長のアンに歯向かってきた手強い女性でしたが、やがてアンに心を開くようになり、教えるのが嫌いだったことに気づいた彼女はレドモンド大学の秘書科に入学するため中学の職を辞めて、最後には「世界一周の旅に出る議員の秘書」になります。
「世界一周家」となったキャザリンは世界を風のように飛び回るわけですが、これが『嵐が丘』で亡くなったキャサリン・アーンショーが風になってヒースの丘を飛び回っている情景と重なるのです。
アン・シリーズでは一貫してシャーロット・ブロンテとその作品から、たまにアン・ブロンテとその作品からモチーフを得ていたモンゴメリですが、エミリー・シリーズが頓挫したのちに描かれた "Anne of Windy Willowsアンの幸福” では、このようなエミリ・ブロンテ作品へのオマージュが見られます

さて、"Anne of Windy Willowsアンの幸福” の最初の章で柳風荘の家政を担うレベッカ・デューの年齢が「まだやっと四十五ですから」と書かれています。

1887年ー45歳=1842年:レベッカ・デューの生まれ年

というように、これまたシャーロットの「ブリュッセル体験」に重ねられた時間軸になっていることがわかります。
ただし、ここで用いた「1887年」は第9章2節で書いた通り、本来のアン・シリーズのタイムラインである1888年から1年前倒しになっているものです。
"Anne of Windy Willowsアンの幸福” の終わりから二つ目の章の書き出しには「六月二十七日」という日付でギルバートへのラストレターが置かれており、最終章ではその「あくる日」にアンが柳風荘を去ります。
レベッカ・デューはアンが暮らした塔の窓から大きな白い湯上りタオルを「狂気のように」打ち振るのですが、そうしたレベッカ・デューの「最後のメッセージ」をアンが受けたのは「六月二十七日」の「あくる日」である6月28日です。
父のいるプリンス・アルバートを離れることになった16歳のモンゴメリが、愛の告白が認められた手紙をウィルからもらったのが8月26日
「最後のメッセージ」を受け取る日付が対称的な数字で置かれていることがわかります。
晩年になって、アン・シリーズに埋め込まれているウィルとの思い出の時間軸を隠蔽しようと描き足された "Anne of Windy Willowsアンの幸福” でしたが、そのお話の最後には、やはり大切な数字を埋め込んでしまっているモンゴメリなのでした。

第11章 最後の二作で叶えたもの

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第1節 夭折した二人のブロンテ姉妹

"Anne of Windy Willowsアンの幸福” から3年後に出版されたアン・シリーズ最後の作品 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” では、アンの末娘リラが生まれるあたりの顛末や、長男ジェムが母の誕生日に自分で稼いだお金でプレゼントを贈ろうと奮闘する様子など、炉辺荘に移り住んだアン夫妻と住み込み家政婦のスーザン、そして6人になった子供達の七年間の物語が描かれています。
七年間の主なエピソードはこちら。

1年目:1899年7月 月末にリラが生まれ、このときジェムは7歳。
2年目:1900年4月 マライアおばさんは55歳の誕生日に激怒して立去る。
3年目:1901年3月 母・アンの誕生日に、ジェムがプレゼントを贈る。6月生まれのジェムはまだ8歳。
4年目:1902年夏  10歳になったジェムは犬のブルーノと出会うが、ブルーノは元の飼い主のところへ。
5年目:1903年春   前年に助けられたコマドリのクックロビン、花嫁を連れて戻る。
6年目:1904年夏   ジェム12歳、入試の話もすでに始まっている。
7年目:1905年7月 月末リラ6歳、1898年に拾われた猫のシュリンプも7歳になっている。

前作で1年前倒しという操作がなされたタイムラインに沿って時間は流れ、7歳、8歳、10歳、12歳の計4回ほど記述されているジェムの年齢の全てが、生まれ年を1892年として数えられています。
物語の結末でアンとギルバートは「結婚15周年」を迎えますが、本来のアン・シリーズの時間軸では二人の結婚は1891年の9月ですから、1905年の秋はまだ14周年であることは第9章で書いた通りです。

さて、モンゴメリが最後に描いたアンの物語 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” でも、シャーロット・ブロンテへのオマージュが随所に見られます。
この物語にはシャーロット・ブロンテの一番上の姉、Maria Bronte(マライア・ブロンテ)と同じマライアという名の女性が登場しますが、それがアンの家庭を引っ掻き回すギルバートの父のいとこ、Mary Maria Blythe(メアリー・マライア・ブライス)です。
マライヤおばさんは、マライア・ブロンテの誕生月と同じ4月生まれと設定されている一方で、シャーロットが "Jane Eyreジェイン・エア” で描き出したヘレン・バーンズ(マライア・ブロンテがモデルと言われている)とは「真逆」の、本当に嫌な女性として描かれており、ここでもモンゴメリお得意の反転対称がおこなわれています。

また、次男坊のウォルターにはこんなエピソードが。
アンがリラを産むとき、ギルバートが運転する車に乗せられてグレン・セント・メアリから6マイル離れたローブリッジの知り合いの医者の家に預けられたウォルターは、その家の腕白小僧達にアンが病気だと聞かされて、心配のあまり遠い道のりを徒歩で炉辺荘に戻るのです。
ウォルターが預けられた先の地名"Lowbridgeローブリッジ” は、シャーロット・ブロンテの "Jane Eyreジェイン・エア” に出てくる "Lowoodローウッド” 女学院の ”Lowロー” と、その女学院のモデルで実在の学校である "Cowan Bridgeカウアン・ブリッジ” の "Bridgeブリッジ" を合わせたネーミングでしょう。
"Cowan Bridgeカウアン・ブリッジ” は、シャーロットが姉二人に続いて入学し、すぐ後に妹エミリも入った寄宿学校です。
そこは衛生状態が悪く、マライアとエリザベスの二人の姉は栄養失調から結核になり、亡くなります。
その経緯をシャーロットは "Jane Eyreジェイン・エア” で、 "Lowoodローウッド” 女学院と名を変え克明に描写しました。
Anne of Ingleside炉辺荘のアン”  でウォルターが預けられた先 "Lowbridgeローブリッジ” と 、実在した "Cowan Bridgeカウアン・ブリッジ” がモデルとなった "Jane Eyreジェイン・エア” の "Lowoodローウッド” は、どちらもひどい目に遭う場所として重なるのです。

若くして亡くなったウィルへの想いを、アンとギルバートの物語に編み込んだモンゴメリが、今度はそのことを隠蔽するために晩年に追加した "Anne of Windy Willowsアンの幸福” と ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” 。
そこには、共にわずか10歳前後で夭折した「エリザベス」と「マライア」というブロンテ姉妹の二人の姉が、「小さなエリザベス」(第2章3節参照)と「マライアおばさん」という物語の重要なモチーフとして登場していることがわかります。

第2節 Lucyルーシー という名の系譜

モンゴメリの育ての母である祖母は1836年、12歳の時に英国イングランドの東海岸の村 Dunwichからプリンス・エドワード島に家族と渡ってきました。
モンゴメリは新婚旅行でシャーロット・ブロンテの面影を追って、その頃まだ交通の便が甚だしく不便だったハワースの牧師館も訪れていますが、それだけでなく、この祖母の故郷も旅の最後に訪れています。
そしてその「故郷」で「1812年」に16歳で亡くなったことが彫られている ”Lucy Ann Woolner”という女性の墓参りをしているのです。
1812年と言えばモンゴメリの新婚旅行からほぼ100年前に当たります。
また、 ”Lucy Ann Woolnerルーシー・アン・ウールナー” という名前はモンゴメリの祖母の旧姓と全く同じであり、16歳で夭折した彼女は祖母の父の妹であったことから、祖母のLucyルーシーという名前(その後、モンゴメリへと受け継がれる)はこの女性から受け継がれたものとモンゴメリが日記で思いを巡らせています。

実はこの「1812年」が、最晩年に執筆された "Anne of Windy Willowsアンの幸福” と ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” のなかで、3回ほど暗示されています。
1つ目は "Anne of Windy Willowsアンの幸福” の「第二年目の1章」で「千八百十二年の戦争」という記述。
2つ目は ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” の4章に、マライアおばさんの母の誕生年として。
これまでに述べた通り ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” は "Anne of Windy Willowsアンの幸福” と同様、アン・シリーズの本来の時間軸よりも1年前倒しになっていることに注意して、マライアおばさんの母の誕生年を計算してみましょう。
アンの長男ジェムの本来の誕生年は本稿第2章にあるように1893年ですが、 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” ではそれが1年前倒しされた1892年となり、物語の冒頭でジェムは7歳になっているとの描写があることから、

1892年+7歳=1899年から ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” はスタート

する物語ということになります。
そして、

「(拙注:メアリー・マライアおばさんは)二年前にお母さんを亡くしなすったでしょう・・・・八十五でしたって」

『炉辺荘のアン』村岡花子訳 4章より

と書かれていることから、

1899年ー2年ー85歳=1812年がメアリー・マライアおばさんの母の生まれ年

となることがわかります。
3つ目はリラ・ブライスの誕生にまつわる記述が、 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” 8章で

「この海岸地方では八十七年ぶりという寒い七月の夜」

『炉辺荘のアン』村岡花子訳 8章より

と置かれていることから、その87年前の寒い夜が

1899年ー87年=1812年

であることがわかります。

最後の二冊に隠すように置かれた「1812年」。
それは母方の祖母の旧姓と同じ名を持つ血縁女性が亡くなった年であると同時に、ブロンテ姉妹の父母が結婚した年でもありました。

その後、ブロンテ夫妻がシャーロットを始めとする6人姉弟妹を授かったことと重ねるように、アンとギルバートも長男ジェムから末娘リラまで6人の子供たちを育てます。
やがて成長したブロンテ姉妹が多感な時期を迎えていた頃、そしてモンゴメリの祖母が12歳でプリンスエドワード島に渡ってきた頃、英国はハノーバー朝の黄金時代を迎えますが、「ヴィクトリア朝」(1837年〜1901年)と特別に称されるこの時代が終わる頃、物語の中ではアンの末娘リラが生まれています。
モンゴメリの中に溢れるこの時代への憧憬が、アン・シャーリーの物語のもう一つの源泉であるといえましょう。

モンゴメリは "Anne of Windy Willowsアンの幸福” の執筆を始めたことを1935年の「8月12日」の日記に書いているのですが、それはブロンテ姉妹の両親が結婚した年である「1812年」の「8」と「12」に符合する日を選んだと思われます。

Monday, Aug.12, 1935
Today I began to write Anne of Windy Willows----wrote fifteen pages and to my relief enjoyed it.  As soon as I give my characters their names they come alive for me and I am interested in their doings and sayings. (拙訳:1935年8月12日月曜日 今日、『アンの幸福』を書き始めた----15ページを楽しく書き綴ることができてホッとしている。登場人物たちは名前を付けた途端に生き生きと動き始め、私は彼らの話す言葉や振る舞いに引き込まれていた。)

The Selected Journals of L.M. Montgomery VOLUME Ⅴ: 1935-1942"
Mary Rubio & Elizabeth Waterston 編 Oxford University Press 2004年

「1812年」と同様に、"Anne of Windy Willowsアンの幸福” と ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” にはもう一つの暗示された年代があります。
それは「1812年」の100年後である「1912年」。
"Anne of Windy Willowsアンの幸福” の物語は「九月十二日月曜日」という日から始まっていますし、 ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” の執筆が開始されたことが綴られた日記の日付は1938年の「9月12日」。
「1812年」の100年後である「1912年」の「9」と「12」に符合する日を選んで記されたと思われます。

Friday, Sept. 9, 1938
I did spade work all the forenoon on some short stories but I have decided that on Monday I will begin writing A. of I. (拙訳:1938年9月9日金曜日 午前中いっぱいかけて『炉辺荘のアン』のエピソードをいくつか下書きし、来週の月曜日には執筆を始めようと決めた。)

"The Selected Journals of L.M. Montgomery VOLUME Ⅴ: 1935-1942"
Mary Rubio & Elizabeth Waterston 編 Oxford University Press 2004年

Monday, Sept. 12, 1938
On this hot dark muggy day I sat me down and began to write Anne of Ingleside.  It is a year and nine months since I wrote a single line of creative work.  But I can still write.  I wrote a chapter.  A burden rolled from my spirit. And I was suddenly back in my own world with all my dear Avonlea and Glen folks again. I was like going home. But my eyes bothered me a good deal while writing. And Evan has a bad head again. (拙訳:1938年9月12日月曜日 こんなどんよりとして蒸し暑い日に、私は腰を据えて『炉辺荘のアン』を書き始めた。あの1行を綴ってから1年と9ヶ月も過ぎている。でも私はまだ書ける。一章を書いた。鬱いでいた心も晴れた。気がつくと私は、愛するアヴォンリーとグレンの人々のいる私の世界へと舞い戻っていた。まるで我が家に帰ったように。しかし、執筆中ずっと目の衰えに煩わされる。ユーアンも、また頭痛に悩まされている。)

"The Selected Journals of L.M. Montgomery VOLUME Ⅴ: 1935-1942"
Mary Rubio & Elizabeth Waterston 編 Oxford University Press 2004年

振り返れば、1911年の祖母との死別とそれに続く結婚と新婚旅行という人生の一大イベントについて、その翌年1912年の1月になって初めて日記に綴っていたモンゴメリ。
これらの事実から「1912年」は、「1812年」と同様モンゴメリにとってとても大切な節目であったことは間違いないでしょう。

モンゴメリが ”Anne of Green Gables赤毛のアン” の執筆を始めた年は1905年だったということを1907年の「8月16日」の日記で書いたのは、シャーロット・ブロンテの生まれ年である「1816年」の「8」と「16」に符合する日を選んだからである、と第2章1節で書きましたが、それと同様のことをアン・シリーズのラスト2作でも行なっていたのです。

第3節 早世した魂の救済

さて、これまで見てきたブロンテとの連関を簡単にまとめて見ましょう。

* ”Anne of Green Gables赤毛のアン” は、シャーロット・ブロンテとその家族、そしてシャーロット作 "Jane Eyreジェイン・エア” と "Shirleyシャーリー” からのモチーフ
* ”Anne of Avonleaアンの青春” はアン・ブロンテと、彼女作 ”Agnes Greyアグネス・グレイ" と "The Tenant of Wildfell Hallワイルドフェル・ホールの住人” 、そしてシャーロット・ブロンテ作" Shirleyシャーリー” と "Villetteヴィレット" からのモチーフ
* ”Anne of the Islandアンの愛情” はシャーロット作 "Jane Eyreジェイン・エア” と "Shirleyシャーリー” 、 "Villetteヴィレット" からのモチーフ
* ”Anne's House of Dreamsアンの夢の家” はシャーロットが袖にした3人の男性と、シャーロット作 "Villetteヴィレット" からのモチーフ
* ”Rainbow Valley虹の谷のアン” はシャーロット作 "Shirleyシャーリー” からのモチーフ
* ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” はシャーロット作 "Villetteヴィレット" からのモチーフ
* "Anne of Windy Willowsアンの幸福” はブロンテ姉妹の夭折した次女と、エミリー・ブロンテ作『嵐が丘』、シャーロット作 "Villetteヴィレット" からのモチーフ
* ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” は、ブロンテ姉妹の夭折した長女と、シャーロット作 "Jane Eyreジェイン・エア” からのモチーフ

Anne of Green Gables赤毛のアン” から始まるアン・シャーリーの物語は、ウィルとシャーロット・ブロンテという二人のkindred spritsへの思いを散りばめながら、 ”Rilla of Inglesideアンの娘リラ” でアンの次男ウォルターの戦死という「悲しみ」と末娘リラの結婚という「希望」で幕を閉じます。

一方、ウィルとシャーロット・ブロンテという二人のkindred spritsとの関係性を示す時間軸上の手がかりを無くすために付け加えた "Anne of Windy Willowsアンの幸福” や、それにつづく ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” でも、モンゴメリは二人のkindred spritsへのメッセージを込めながらアンとギルバートの「結婚15周年(本当は14周年)」という区切りでアン・シリーズを締め括りました。

時間を巻き戻す形で後から追加された "Anne of Windy Willowsアンの幸福” と ”Anne of Ingleside炉辺荘のアン” 。
そこに、若くして亡くなったウィルと二人で叶えたかったこと、結婚して一年も経たぬうちにお腹の中の赤ちゃんと共に他界したシャーロット・ブロンテが叶えたかったであろうことを、アン・シャーリーが幸せな婚約時代を送り、やがて穏やかな家庭を築いていくかけがえのない日常を綴ることで、創作の始めに確かにあった鮮やかなイメージを今一度嚙みしめていたように思われます。

最終章 ヨセフになったモンゴメリ

柳モリス
ウィリアム・モリス “柳の枝”

第1節 ヨセフは「取り去られた者」

若くして亡くなった人の面影、遥か昔にあった王国の遺構、絶えた王家とその臣下の記章。
モンゴメリは、彼女の生きる時代の表舞台から失われたものへ思いを馳せ、それらにちなんだ事柄をアン・シリーズのなかに登場する人や土地に与えるということをよくしていることは、これまで述べてきた通りです。
このことを知った上で、モンゴメリが kindred spiritsキンドレッド・スピリッツ に新たに付けた名前、”the race that knows Joseph"(ヨセフを知っている一族) の由来を改めて考えると、彼女がkindred spiritsキンドレッド・スピリッツ をどのようなものと考えていたのかをはっきりと知ることができます。
本稿第8章4節で、ヨセフとは旧約聖書の「創世記」に登場する「主の恵みと共におる者」であり、西欧社会では「貞節を守る」象徴として知られる人物だけれど、その人となりに共通する者が「ヨセフを知っている一族」ということではないであろうとも書きました。
では、このヨセフのどんな側面を知っている人が kindred spiritsキンドレッド・スピリッツ なのでしょうか。
Wikipediaのヨセフの項にはこう書かれています。

ヨセフ(יוסף:Joseph)の名は、ユダヤ教モーセ五書に記されたヘブライ語の名である。ユダヤ教モーセ五書におけるヨセフの名の由来は、神が初産のラケルの恥を「すすいでくださった(אסף:has taken)」ことにあやかったもの。

ウィキペディア「ヨセフ」の「ヨセフの名の由来」の項参照

モンゴメリがちなんだのがこのヨセフの名の由来であったなら、「ヨセフを知っている一族」とは「 ”has taken” =取り去られたもの」を知っている一族ということになります。
つまり、ウィルを始め夭折した人々や、ノーサンブリア王国や古メルローズ、スチュアート朝とジャコバイトはもちろん、シャーロット・ブロンテに振られて彼女の人生の舞台から除かれた3人の男性さえも、そこにいる(ある)かのような時空を超えたヴィジョンとして直感する人たちが kindred spiritsキンドレッド・スピリッツ である、そうモンゴメリは考えていたのではないでしょうか。

第2節 DORドロ の物語

1942年4月24日。
モンゴメリはこの世を去りました。
1942年はシャーロットの「ブリュッセル体験」の1842年からちょうど100年後。
4月はモンゴメリが愛していた詩人ルパート・ブルックの亡くなった月であり、ギルバートのモデルであるウィルが亡くなった月です。(拙注: ”Anne's House of Dreamsアンの夢の家” の扉(トビラ)にルパート・ブルックの詩が引用されている。詳細については『もっと「赤毛のアン」を描きたかったモンゴメリ』番外その4を参照。)
そして、24日は1848年9月に亡くなったパトリック・ブランウェル・ブロンテの月命日。

モンゴメリの死が病死や事故であれば、これらの符合は全て偶然のことと言えるでしょう。
でも、そうではなかったとしたら。
もし、彼女がこの日を選んだとしたら。
数字にかなりのこだわりを持って創作活動をしてきたモンゴメリは、一番のお気に入りである Anne's House of Dreamsアンの夢の家” は1916年6月16日に執筆を始めた、と日記に書いています。(*2021年4月3日の追記参照)
シャーロット・ブロンテの生まれた1816年から100年後の、1と6が繰り返し現れる年月日に。
では、4と2が繰り返し現れる「1942年4月24日」は?

大好きなシャーロット・ブロンテとその作品からアン・シリーズを紡ぎだし、そこに想い人ウィルとの思い出を埋め込んだモンゴメリ。
しかしその後、そのことを世間の目から隠そうとしたモンゴメリ。
最晩年は手の痛みで字が書けなくなってしまったことに加え、長男の度重なる不始末や第二次世界大戦という再びの悪夢に、日記を書く意欲さえ失って亡くなったモンゴメリ。
"Anne of Windy Willowsアンの幸福” 以降の彼女には、どことなくパトリック・ブランウェルと重なるものがあります。

画像4
ブロンテ姉妹と消されたブランウェルの肖像画

幼少からブロンテ三姉妹の創作活動を導き、プロ並みの画力で彼女たちの肖像画を描いて、そこに自らの姿も描いておきながら後に塗りつぶしてしまったパトリック・ブランウェル
想い人のロビンソン夫人に捨てられたことで創作意欲を失い、最後には酒と薬物に溺れ死んでしまったパトリック・ブランウェル。

親族には自殺と受け止められているモンゴメリの死は、その原因を特定することは永遠に出来ないでしょう。
しかし、彼女のシャーロット・ブロンテ マニアぶりやアン・シリーズの時間軸の秘密など、複雑で混み入った事柄を解きほぐすことで見えてきた時間と空間、現実と空想、こちら側の世界と向こう側の世界の境を超えたモンゴメリの心象世界には、いつもウィルがいたことは間違いないように思います。
ウィルと離れ離れになったことを記したモンゴメリの日記の日付は8月最後の水曜日、1891年8月26日となっています。
そして、アン・シリーズ2作目の ”Anne of Avonleaアンの青春” は、頑なに独身を貫くオールド・ミスのMissラヴェンダーが、思いがけず再会した25年前の婚約者と「八月の最後の水曜日」に結婚式を挙げるというエピソードでハッピーエンドを迎えます。
その後、30年にわたりアンの物語を書き続けるなかで、葛藤と昇華を繰り返したモンゴメリの心は、大英勲章という栄誉に浴したことで、こちら側の世界と向こう側の世界の狭間に落ち込んでしまったよう。
そんな彼女が、夫ユーアンの心の病の悪化や長男の度重なる不祥事、再びの世界戦争、自身の老化という暗く重い耳鳴りの中に閉じ込められていく中で、”for two4 2” という穏やかなリフレインが誘う向こう側の世界へと旅立ったとしても不思議ではありません。

2021年4月3日追記:正確には、1916年6月17日のモンゴメリの日記に、「昨日 ”Anne's House of Dreamsアンの夢の家” を描き始めた。」との記述あり。それはモンゴメリの癖で、大切な日付はストレートに書き記さず、常に暗示にとどめている。"Anne of Windy Willowsアンの幸福” でも、最終章の日付が明記されておらず、その代わりに一つ前の章に記された「六月二十七日」の「あくる日」となっていたことは第10章で述べた通り。レベッカ・デューのラストメッセージをアンが目にしたのは6月28日でしたが、ウィルから愛の告白メッセージをもらった8月26日と対称的に置かれた数字になっている。

ここまで読んでくださったあなたは、モンゴメリの泥沼話だと思われたでしょうか。
私はこの本の序章のタイトルを〜ようこそDORドロの世界へ〜としましたが、そのDORドロは泥ではありません。
モンゴメリはスコットランド地方の方言である ”doricドーリック” の響きが好きだと文通相手に書き送っています。
Druidドルイド” や ”Dryadドライアド” 、”dreamドリーム" と同様、”doricドーリック”もDOとRの音を持ちますが、それらは全て ”tree” や ”wood” を意味する ”deru-” を語源に持つ言葉です。
第6章でも触れたトーリー党の "Toryトーリー” も ”deru-”から派生したワードであり「木」を意味することは、トーリー党の紋章に一本の木が描かれていることからも分かります。
モンゴメリやブロンテ姉妹が描き出した "kindredキンドレッドという言葉にもDORの音が含まれており、木を神聖視したケルトの人々の感性から生まれたワードではないかと思われます。

本稿の序章にある「ドゥリィーdree 退屈」で「ドゥリィアリィdrearyうら寂しい」という言葉にも、DOとRの音があります。
ブロンテ姉妹が彼女たちの小説で繰り返し用いたそれらワードの、「退屈」とか「うら寂しい」という訳は現代語としては正しいのです。
しかし少なくとも ”dree”に関しては、スコットランドの古語で「(悲しみなどに)耐える」という意味であったことがわかっています。
歴史的勝者であるイングランドの言葉となった時に、本来の意味が変わってしまったのでしょう。
かつて文通相手のマクミランに、

「わたしは《恋人の小径》を通り抜けました---娘らしい愛らしさをたたえた、六月の《恋人の小径》ではなく、つらい涙を流しては齢を重ね、賞賛という衣をまとうように悲しみで全身をおおった婦人の美しさを持つ《恋人の小径》を。」

『モンゴメリ書簡集I  G.B.マクミランへの手紙』ボールジャー、エパリー編   
宮武 潤三、宮武 順子共訳 篠崎書林 1904年11月9日の手紙より抜粋

と綴っていたモンゴメリにとって、"dreeドゥリィー"というDOとRの音からなる言葉にマイナスイメージはなかったと思われます。

シャーロットの "Villetteヴィレット" に描かれた、なんでも上手にこなす理想的な美少女ポリーに自分を重ねていた若き日のモンゴメリ。
そんな彼女が実はやっぱり、世知辛い世の中で孤立感を覚えそこから飛翔しようとした主人公ルーシー・スノウであったことを人生の最後で実感した末の旅立ちであったとしたら。
シャーロットにとってのキンドレッドはエジェ教授であり、彼こそが「失われた王国」だったのですが、その関係性にモンゴメリが憧れていたことに、晩年ようやく気づいたのかもしれません。
そして、モンゴメリの「木を愛したケルト的感性」の詳細を記すという意味で、本稿の序章のタイトルを「DORドロの世界」とした次第です。

私たちにアン・シリーズという喜びの風景を残したモンゴメリ。
そのヴィジョンの中に密かに埋め込まれ後に隠蔽されたウィルとの思い出の時間軸や、シャーロットを始めとするブロンテ姉妹への心の絆を知ることで、モンゴメリの魂は自由になる、そう信じて筆を置きたいと思います。


「第五部 補章編 アヴォンリーとマリラの名前」へ続く。〜

*ギルバートの名前の由来を考察しました。新記事「『赤毛のアン』と『マーミオン』〜後編」もどうぞご覧ください。

♪拙記事のアイディアを参考にされる場合は、参照元のご明記を・・・♪

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