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お金と知識の正体

毎晩、妻とNetflixのシリーズものを1話見る…というのが日課の坪田です。

昨晩見終わったのが「正体」というKAT-TUNの亀梨和也さん主演のドラマ。

ストーリーをかいつまんでお話しします。
殺人現場に居合わせた亀梨さんが冤罪で死刑を言い渡されます。移送中に脱走する亀梨さん。そこから逃走劇が始まります。色んな場所で日雇いで働いたり、フリーのライターとして働いたりしながら、正体がバレそうになると次の場所へ…と肩身の狭い思いをしながら移住を繰り返します。

亀梨さんはその人柄の良さもあり、各地で人助けをします。最終的に彼は再度捕まるのですが、各地で助けた人たちが彼のことを信じ、冤罪ではないかと働きかける…という話です。

この話を見て思ったことがいくつかあります。

①亀梨和也さん演技上手いな…ということ。
「良い人」であることと「死刑囚でありかつ脱獄囚」であることを内包するのって本当に難しいと思うのですが、それを納得感ある演技で両立していました。素晴らしい。しかも、心の闇も、光もちゃんと表現されていたのが本当にすごかったです。

②人生の成功とか幸せって色々あると思うんですが、結局、「自分のことを大切に扱ってくれる人」がどれだけいるかは、「成功」や「幸せ」に欠かせないということ。

もちろん「お金がある」とか「地位や名誉がある」という人は、いやでも大切にしてくれる人もいるでしょう。

しかし、お金や地位や名誉がなくなったら多くの人が手のひらを返す…というのは寂しいものです。

一方で「善行」はどうでしょうか?
人のために善行を重ねた人は多くの人に大切にされ、お金や地位や名誉より深い絆を得られるのでしょうか?僕はそうとも思いません。

実際、死刑囚になったとしたら、ほとんどの人は手のひらを返すし、離れていくでしょう。というか「近寄らないようにする」というのが多くの人の生存戦略です。

つまり、結局、人というのは、あるいはそもそも生物は「保身」が優先されて、自分に害が生じるかも知れない場合には離れていくものであり、それはもはや「善悪」とかではなく、「それが自然」であるのだと思います。

そんな中でも、「自分を大切にしてくれる」人が周囲にいたとしたらそれは本当に恵まれていることであり、その人の生き方が間違っていなかったと言えます。

そして、その時に大切なのは「自分の行い」だけではなく、「人を見極める力」も求められます。

大谷選手なんて明らかに善行を積み重ねていますが、そういう人ですら、人を見極める力がなければとんでもない「輩たち」に巻き込まれるわけです。

あるいは、もはやそれを「見極める」(つまりその人の性質が変わらない)というより、人というのは、状況次第で行動が変わり、その行動の積み重ねで性質も変わるので、「常に適切に評価する力」もしくは「常に適切にサポートする力」が必要なのかも知れません。

僕の人生における唯一の自慢は、教え子たちが結婚式に呼んでくれることなのですが(というのも、学校の先生や大学の先生を結婚式に呼ぶことはあっても塾の先生を結婚式に呼ぶってなかなかないですよね?それだけ、「人生」に関わってきたからなのかなと思っています)、結婚した相手がとんでもない奴だった…という事例をいくつか知っています。

そう考えると、少し話は逸れるかも知れませんが、僕の2人の娘の「結婚相手」によっては、僕がどれだけ娘たちに愛情を注ぎ、教育に従事したとして「ヤバいやつに絡まれたら終わり」ともいえます。(「マイホームマイヒーロー」という漫画はまさにその話です)

話がそれましたね。

このドラマ「正体」を見ていて思ったのは、「目の前の映像」(血まみれで凶器の包丁を持っていた)を信じて犯人だと思い込み捜査をする警察と、亀梨和也さんの「行動」の連続を信じ、魅了される人たちの対比がうまく表現されていて、僕としては、「こういう世の中であって欲しいな」と思いました。

しかし、これが現実の社会ではありません。

多くの人は「他人のための思考」(他人に寄り添った思考)なんてまずしてくれません。目の前の映像、文字の切り取りを信じて「断罪」します。

それが「消費」であり、「エンターテイメント」なのです。

うまくいかない人生で溜飲を下げるための「素材」でしかない。

だから、多くの人は、目立たぬよう生きていく。
他人の目に怯えながら、後ろ指刺されないように生きていく。

そしてドン詰まったら目の前の金を(善良そうな、舐められる相手の金を)横領する。

そんな生き方をしてしまうのかもしれません。

僕は最後の「刑事」の表情が印象的でした。

現実社会では、多分裁判官が頭を下げることもないし、刑事は目も合わせないでしょう。

「だって、仕方なかったやん。そもそも疑われる奴が悪い。火のないところに煙は立たないっていうでしょ。李下に冠を正さず、だよ」と。

映画ビリギャル は実話をもとにした映画ですが、いくつかフィクションがあります。

そのうちの最たるものは、映画では最後学校の先生が裸になって校庭を10周まわるという「約束」が果たされるのですが、

現実では「無視されます」。

そういうものです。

「半沢直樹」では、「苦しみながら土下座」しますが、現実の社会では誰も間違っていたからなんて土下座しません。

「正体」では、裁判官が整列して頭を下げますが、現実社会では週刊誌なんてどれだけ間違った記事を出して名誉を傷つけてもまともに謝罪することはなく、百万円ほど払って他の人を傷つけ続けます。それが「ジャーナリズム」なのだそうです。

ビリギャル の現実だって、当時は誰もが無理だといって馬鹿にしていたのに、合格したら、「ジアタマが良かった」といわれるのです。

別の子で東大に合格した子は、合格したら、周囲のお母さんが、その子のお母さんに「あの子は元々東大に合格するジアタマがあったのにあんなに成績が悪かったのはあなたの教育が悪かったから」と叱られたそうです。

「わー、すごい!頑張ったんだね!えらいね」なんて言ってくれる人は「そういう立場にいる人だけ」です。

こういう話をすると、教え子はみんな「いやいやそんなことはない。あなたは捻じ曲がっている笑 」というし、テレビやドラマではちゃんと溜飲を下げてくれるから、そういうものだと思っていますが、

現実は、

どれだけ野球に打ち込み、ボランティアをし、多くの子供達の模範になる行動をして、史上最高の評価を受け、とんでもないお金を稼いでも、「数十億信頼してる人に盗み取られる」のです。(もし彼が「英語」という「知識」を身につけていたら防げたことでもあります)

これって、救いようがない世界なのでしょうか?

いや、シンプルに「自然」だと思います。

ちょっとでも気を抜いたら根こそぎ取られる。

それを咎めても、謝ってはくれない。

動物の世界ってそうじゃないですか。

それをベースに考えたら、「ドラマ」は「ドラマ」であり、しかし、それを「理想」として、「教訓」として自分の世界を作っていくことが大切だなと思わされました。

「自分が大切にしたい人やもの」「自分を大切にしてくれる人や動物」その人たちとの「生活」に「幸せ」を見出す。そして、「お金」と「知識」は、それを「守る」ための手段。だからこそ、本当に大切なのだと。

それがこの弱肉強食のカオスな世界で生きていく知恵なのだと思います。



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