課題でもないですが文章を書きました。


人間の行動心理と戦争

 戦争というものは、いつの時代も残酷である。多くの人間が命を落とし、生産性のない争いが、歴史的に数多く行われて来た。私も歴史の授業等で数々の戦争が行われて来たことを学んだ。こうした教養が施され、人々はやがて戦争によってもたらされる被害や失われた命に重きを置くようになった。そして戦争をしないことによる「平和」が保たれてきた。だが、果たして本当にそれが正しい選択なのか。個人的な見解ではあるが、この問いに対する解答は否であると主張する。私は、戦争をしないことだけが平和であると思い込んでいる人間がどうしても気に食わない。そこで今回、戦争の在り方や、平和の定義を個人的に思考した次第である。これらの理由から、このレポートではタイトルにもなっている人間の行動心理と、戦争について実例を交えながら見て行きたい。
 2022年2月24日。ロシアがウクライナへ宣戦布告したことにより、戦争が始まった。「第三次世界大戦が起こるのではないか」と囁かれるほど大きな戦争が、戦争を悪とする時代に反し、2ヶ月が経とうとしている現在でも続いている。
 ではなぜロシアはウクライナに攻撃したのか。かつてロシアは、ウクライナを含む15の国で構成されていたソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)という国であった。ところが1991年にソ連は崩壊し、同時にウクライナは独立を宣言した。ウクライナはポーランド等の国々とロシアに挟まれる形で存在している。独立宣言後ウクライナ国内では、親ロシア派と親欧米派に別れ、対立を続けてきていた。そんな状況の中2019年、現ウクライナ首相であるゼレンスキー大統領が就任。ゼレンスキー大統領は親欧米派で、脱ロシアの動きを加速させており、北大西洋条約機構(NATO)への加入を目指してきた。NATOとは、1949年アメリカ、イギリスを中心とした国々が旧ソ連(ロシア)に対抗するために生まれた軍事同盟である。もちろんロシア側にとってこの状況は都合が悪く、ウクライナがNATOに入ることを防ぐために仕方なく侵略を始めたという主張をしている。
 NATOへの加入や脱ロシアの動きを見せるウクライナ、それを阻止したいロシア。両国が互いに譲れない理由を持ち、議論で解決することができないため、仕方なく戦争という形になったのだろう。ロシアの発言からも、そのように見て取れる。例えそれが虚言であったとしても、侵攻をするに値する理由となっているのは事実だ。これはこの戦争に限ったことではない。議論で解決しないことがわかった以上、話を前に進めるためには、なにかしらの手段を講じる必要がある。そこで仕方なく、武力行使という形で争いが行われるのである。戦争とは、いわゆる政治の延長行為であり、軍隊という暴力装置を用いた国同士の喧嘩である。勝った者が全てを手にし、負けたものが全てを失う。ある種の経済活動と言ってもいいだろう。言わずもがな、非常に残酷で、生産性の欠片もないものである。しかし、起こっても仕方のないことでもある。もちろん、争いが起こらないに越したことはない。だが、起こったからといって「戦争は悪」という解釈の元非難するのは些か見当違いである。
 さて、ここからは一つ視点を変えて「平和」とはなにかについて考えていきたい。冒頭でも述べた通り「戦争をしないことによる平和」に対する意識は、全世界の国々が持ち合わせているだろう。現にロシアとウクライナの戦争は、多くの国がウクライナに支援、ロシアに制裁を与えている。だが、果たして戦争をしないだけが平和であると言えるのだろうか。そもそもなにを以って「平和」と言うのか。


 これは、「あなたが思う平和とはなんですか?」と1000人に聞いた時に返ってきた回答である。やはり平和と戦争は深い関わりがあり、多くの人間が戦争がなくなることが平和であると答えている。だが、他の意見にも目を向けてみて欲しい。災害や伝染病と言った戦争と関わりのないものから、貧困や飢饉などの間接的に関わりのあるものまで広く意見があり、平和に対する考えは人それぞれであると言える。よく見るとこのグラフの中で、戦争と直接的に関わりがあるものが一つある。それは「核の廃絶」だ。核というのは、原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾等のいわゆる「核爆弾」と呼ばれるものである。核爆弾は人類の技術力を結集させた破壊兵器で、非常に危険なものである。だが果たして、廃絶する事が本当に平和に繋がるような良い判断なのだろうか。
 ここで、人間の行動心理と結びつけていきたい。日本人は、物事を一緒くたにしてしまうことが多いと感じる。例えば、先日起きた吉野家の炎上の件についてである。


このような投稿が世間に広まり、吉野家の幹部の人間が「生娘」や「シャブ漬け」と言った時代にそぐわない発言をしたことが明らかになった。到底、許される発言ではない。しかし、よく見るとこの投稿に「もう吉野家の牛丼は一生食べない」とある。ここで今一度考え直して欲しい。確かに、よくない発言ではあったが、それは個人の発言であって牛丼や企業に罪はない。叩かれるべきは発言者であるのは明確である。日本人の一緒くたにしてしまう特徴が顕著に現れているのがわかる。もちろん「生娘」等の発言をした人間は解雇され、迅速な謝罪対応を見せた。しかし、企業側もこのような発言をしてしまう人間を抑制できていないという欠陥は認めるべきである。だが、その後の謝罪等の対応は賞賛されて然るべきことだと言える。このように、その場の状況における「悪」がなにかを見極める力が、日本人には欠けており、物事の本質をしっかり見れていないと言うことが見て取れる。
 この例を踏まえて、核の話に戻って見て行きたい。日本人は、核を持たないことによって「平和」になると思っている節がある。だが、これは間違いである。核を持たないことと、使わないことには大きな違いがある。「核を持たない国」というのは今となってはマジョリティとなっている。だが、結局「核を持つ国」というのが存在する以上、核を持たない国が劣ってしまうのは明確である。このように核を持つことによって、一定の抑止力としての効果があることは事実である。したがって、核を持つことに対する考え方を改めるべきである。そして、核が危険であることは全世界の人間が認識している。だからこそ、核を持つことに対する抵抗を無くし、使うことに対する否定的な意識を強めるべきであると私は考える。
 いかがだっただろうか。今回は戦争を中心とし、人間の行動心理も絡めて様々な問題を挙げ、私なりの意見をまとめた次第である。これから先の未来で、我々日本人が「戦争」というものと向き合い、軍人となる可能性も無いとは言えない。しかし、政治の延長行為と思うと仕方のない話ではある。思想の違いや、互いに譲れない事情、植民地等の問題など、戦争に発展し得る火種は多く存在する。それは実際、永遠に分かり合うことのできないことである。それが課題としてある限り、争いは無くならないと言える。だが、いざ軍人となって前線に行かされると考えると、たまったものではない。進んで死にたい人間などこの世には存在しないだろう。軍人目線になると、人的資本と物資の無駄であるという考えに陥ってしまう。一つ視点を変えるとそれに伴い、意見も変わるのは非常に面白い。だが、どの視点に立ったとしても、戦争行為に生産性がないことは紛れもない事実だ。結局のところ、戦争は起こらないに越したことはないと改めて感じた。


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