見出し画像

The Miracle of Teddy Bear 感想

あらすじ

クマのぬいぐるみだったはずのタオフーは、ある日突然人間になってしまった。
可愛がってくれていた持ち主のナット君は警戒心を剥き出しにして、ちっともタオフーに優しくない。そればかりか、時にタオフーが発した何気ない言葉に激高してしまう。
タオフーは戸惑いながらも、持ち主であるナット君が大好きなままだ。
ナット君と母親・マタナーさんとの奇妙な三人での生活に、家の「物」達は心配と少しの好奇心で、人間になりたてのタオフーに色々と助言する。
ナット君とずっと一緒に居たいタオフーは、何故自分が人間になれたのかを思案する。
時に眠ってしまう「物」達の様に、いつか自分も眠ってしまうのではないか、ぬいぐるみに戻ってしまうのではないか…。
タオフーはこの不思議な「miracle」を解き明かすべく、自分の出自を調べ始める…。

ネタバレ感想

上巻はゆっくりペースで読み始めました。
家の物達、 ―例えば携帯電話さんや抱き枕さん、ノートのおじさんなど― が喋り出し、一気に賑やかになった空間はさながらディズニー映画の様だなと。
シリアスで伏線ゴリゴリだと言う前情報は聴いていたので警戒していましたが、前半を読む内はまだタオフー・ナット君・マタナーさん、三者三様の秘密がゆっくりとなぞられてゆく感覚に心地よささえも感じました。
お話は終始フワフワした感じで進んでいくのに、タイトルが非常に物騒なので読者の警戒心は消えません。

タオフーが身に付けた人間らしさ

上巻後半(370P)でタオフーがマタナーさんに優しい嘘をつくシーンがあります。ぬいぐるみだったときは愛玩道具としてさえいれば良かったタオフーが、大好きな持ち主のお母さんを悲しませない為に、息子の日記の内容を一部改変して伝えるシーンです。
嘘の本質とは決して人を傷つける物ではなく、何かを「偽る」「欺く」行為が定義に入るのでしょう。その結果人は傷付くかもしれないけれど、種類によっては傷付かないかもしれない。
タオフーがついた嘘はタオフーらしい優しさに溢れており、かつ人間としての思いやりが備わっていて、きっと人間になったその日の内のタオフーにはつけない嘘だっただろうなと思うと、この描写はタオフーの人間としての複雑な心境の枝葉が生え始めた象徴的なシーンなのだと感じました。

ナット君の荒々しさ

描かれているナット君は時に荒々しく、女子を萎えさせる描写もあり(髭が生えているとか、肉付きが…とか)、受け(BOTM)でありながらナット君自身の性欲がリアルかつ積極的に描かれている点が、通常のBLとは一線を画すのではないでしょうか。
究極的に言えばこの本の濡れシーンはそれほどねっとりとはしていません。サラッと流す程度です。なので、お話の軸と並行してNCシーンも楽しみたい方には肩透かしかもしれません。
そんな中でも、ナット君が自身の性欲に言及するシーンが二か所あったように記憶しています。
これは作者のプラープ氏が、BLと言うコンテンツの持つ特異性や様式美に一石を投じたのであろうなと勝手に推測しております。

反論したい点

下巻序盤では謎が深まり、その糸口を探るべく登場人物たちは右往左往しながらも、次第にそれぞれの真実へとたどり着きます。
物語後半にかけて、伏線を回収していくテンポが少しだけ早かったと個人的には感じますが、当初の謎からは思いも寄らない方向に進んでいくのはいい意味で期待が裏切られます。
BLを読んでいたはずが、まさか最後はサスペンスの様相を呈してきたので手に汗握ります。
そんな中、96頁のシーンでナット君がマタナーさんに宛擦る発言を繰り返すシーンで言った一つの台詞には、個人的に思う所があります。

「ゲイのユートピアみたいなドラマは書かない。世界の全てがパステルカラーで…」

この点はナット君と言うキャラがナット君として生きる上で必要な矜持であり、ナット君足り得る主張なのだと思います。
また、作者プラープ氏がこの過熱するタイBL市場とその欺瞞に一石を投じるべく、今回この物語を執筆したのだろうなと個人的には思っております。
この物語の軸はまさにここなのだと一読者の私は感じておりますが、いかがでしょうか。
ただ、長年BLを愛好している身として、またタイ沼にハマった身として思うのは、タイBLドラマが示したゲイのユートピア、パステルカラーの世界こそが真に求める優しい世界なのではないか!
…と言うと、言葉が強いので誤解がありますが…。
何が言いたいかと言うと、私は「2Gether」を初めて視聴した際、こんなBLがあるのかと目から鱗でした。

友人達の視線がゲイに厳しくない世界。
ゲイカップルが受け入れられる世界。

あぁ、こんな世界なら、きっと生きやすいのだろう。そう感じました。
私自身のセクシャリティはLGBTQに該当しません。
ただの往年の腐女子です。
20年近くBLを読み漁り、私がBLのどこに魅力を感じているかを一言で説明すると、日本BL独特の「儚さ」でした。
儚さの内訳は、ゲイに否定的な日本社会の中で、懸命に互いの手を取り合う尊さ。けれど一度バレてしまえば一緒にはいられないかもしれないという禁断の愛に惹かれました。
そう、タイBLに出会う迄、私の中でBLは「禁断の愛」の要素が強かったのです。(こだか和真氏が愛読書の平成オタクなのでご容赦ください)
けれどタイBLは私に新たな価値観を与えてくれたのです。
それはつまりナット君がいう所の「ゲイのユートピア」であり、「パステルカラーの世界」なのですが、その世界に生きる登場人物たちの苦悩は決して「禁断」「死」「息を潜めて生きる」などの重たいものでは無く、10代20代の男女がするような当たり前の駆け引きや嫉妬だったのです。
こんな世界を目指せば良いじゃないかと思いました。
私の娘や息子がLGBTQのいずれかに該当するセクシャリティで生きて行くかもしれない時、こんな優しい世界がこれからの彼らを包んで欲しいなと明確に思いました。
ナット君は昨今のBL業界に納得がいっていない様でしたが、理想のお手本と新たな価値観を与えてくれたタイBLに感謝している人間がここに一人居る事だけは伝えておきたいと思います。

この作品はBLか、否か。

否、と言うのが私の意見です。
「ゲイとBLは違う」と作中でナット君も言う様に、BLはフィクションであり、ゲイはリアルです。
この作品は表紙の可愛い絵に騙されますが、内容は社会派小説であり、エロティックかつセンセーショナルなシーンを求めるライトノベル感覚BL読者層とは相いれないのではないかな、と言うのが個人的な意見です。
また、社会派であるならば、物語の畳み方に少しだけ強引さを感じてしまいました。社会風刺を書きたいけれどBLのラインに乗せたい、と言う思惑の中で、前者が色濃く出てしまった感じが否めません。

下巻終盤で、この物語と同じテイストの物を書いたナット君は「初めてのBLは評価されなかった」と言っています。
きっと作者プラープ氏は、最初から読者をキャラ萌えに誘うつもりなど毛頭なく、この作品を読んだ腐女子からの評価は作者が想像している物(をナット君が代弁した物)と寸分違わないと客観視しているのでしょう。
そこに作者プラープ氏の「してやったり」感が垣間見えます。
この作品は良くも悪くも全ての読者の感情を揺さぶるラストで幕を閉じますが、優しさの中に水彩絵の具で悲しみが足された、ほろ苦いコーヒーゼリーにミルクを足さずに食べる、そんな感じの物語だなと言うのが読了後の印象です。

好きなシーン

268P
「ナット君が初めて恋に落ちた人と、そっくりな顔の人間にして―」

ここは個人的に最大腐女子胸キュンシーンでした。
ナット君と納得のいかぬ別れ方をしたターンさんが、それでも愛と思いやりで以てナット君に捧げた真心ですよね。
私はずっとタオフーとナット君が一緒に居られるように願ってたのに、このシーンでターンさんエンドもありだなと思ってしまいました。
腐女子はこう言う攻めの献身的な態度に弱いです。
逆を言えば、胸打たれるこのシーンがなければラストで納得いかなかったと思います。

411P
「ナット君、心配しなくていいよ。悪いと思わなくて大丈夫。ぼくはわかってるから。」

ラストのタオフーのこの台詞は、最後の最後で胸を抉られました。
ナット君さえ幸せであればいいという献身的な愛玩道具に戻ったタオフーを象徴する言葉だと思います。
そのベッドでターンさんと夜を過ごすナット君を、その光景を見せつけられるタオフーを、人間ならば嫉妬の感情で眺める所です。
けれどぬいぐるみに戻ったタオフーの優しさがナット君の背中を押して、本来結ばれるべきだった二人の人生は軌道修正されます。
タオフーの想いは初志貫徹でした。
ナット君が幸せであって欲しいというタオフーの願いは叶うから、きっとクマさんも幸せなのだろうと思いたい。
人間の視点から読むと、必ずしも「ナット君が幸せになって良かったね!」と手放しで喜べない切なさを滲ませたラストでした。

翻訳者 福冨先生

福冨先生の翻訳が好きで、紹介された本は可能な限り集めております。
今回はBLを翻訳されたとの事で、発売日を今か今かと待ち望んでおりました。色々な手違いで実際に手元に届いたのは結構時間が経ってしまったのですが、それでもやっと手元にやってきた時はとロマンティックが止まりませんでした。

福冨先生は以前スペースで、翻訳がクローズアップされる事より、作品の真意が届く様に訳していると仰っていたように記憶しています。
それでも今回の小説を読むにつけ、絶妙な単語のチョイスをされる福冨先生の翻訳は読んでいてすっと頭に入ってきます。
日本に住んでいる日本人ならば誰もが日本語を喋れますが、喋ると操るでは明確に違うので、やはり福冨先生に訳される本たちは幸せだなァと毎回思っております。

翻訳お疲れ様でございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?