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『情況』谷口一平論文『「マイナス内包」としての性自認の構成』読解メモ

『情況』谷口一平論文『「マイナス内包」としての性自認の構成』読解メモ

谷口氏(著者)の主張
・性自認は語りえない。
この論文の構成は、全部で6節により構成されている。
1.はじめに
2.「性自認」概念を巡る社会的混乱
3.「性自認」概念のかかえる哲学的困難
4.原罪、あるいは「無」の性的主体への開設:キルケゴールを手掛かりに
5.原罪前成立説と原罪後性自認成立説
6.「マイナス内包」としての性自認の構成
1.2節が論文の導入部であり、3節から第〇次内包としての性自認の語り得さなさが論証される。続いて、4.5節にて第一次内包としての私の性(ジェンダー)の構成が展開されるが、それは自己確証的な性自認ではない事が論証される。続いて6節において、「トランスジェンダー」という概念は、現代の科学的見地から本質規定された第二次内包としての性概念によって構成されたものであると主張され、続いて「マイナス」内包としての性自認の構成が試みられるが、それは語りえないものとして論証される。
以下個人的な読解メモ

定義 性的嗜好性とは、性的な行動の対象や目的に関する好み(欲望)の傾向、と解する。

定義 性自認とは、私は男性/女性であるという思い、と解する

定義 感覚や欲望の第一次内包とは、我々が言語習得の段階において、他者から言葉を教わる際に、私の外的な性質(ふるまいや、身体の変化)と関係付けられた内的な感情、と解する。

定義 感覚や欲望の第〇次内包とは、感覚語や欲望語によって指示されている、その内的な感覚や欲望そのもの(クオリア)、と解する。(即ち言語習得の段階で、私の客観的に認識可能な身体のふるまいや変化に伴って、他者から教えられた言葉の指示する対象が、実は私の身体のふるまいや変化の事ではなく、私の心=感情そのものを指示している言葉なのだと、理解した段階で獲得されるもの(クオリア)と解する。故に感覚や欲望の第〇次内包とは、感覚や欲望の認知の自立性から要請される、他の外的脈絡とは無関係に認知可能である様な内包の次元*、とも言える。
*例えば、もし何の外的脈絡(身体の変化等)もなく、何らかの感覚が端的に生じたとしても、それが何の感覚であるかを自己同定(理解)出来るという事が(現にそれが起きている/起きていないに関わらず)理解可能であるという事。

定義 感覚や欲望の第二次内包とは内的な感覚が、それと関係づけられた外的な身体の変化によって、本質規定された内包である※。
※従って第二次内包を獲得したのならば、ある概念の外的な関係(第一次内包)に関わらず、本質規定された外的な性質(第二次内包)によってある対象についての判断がなされる。(例えば、私の身体の構造、ふるまいに関わらず、脳の生理学的構造理解に基づいて男/女が定義される様に)即ち第一次内包に対する第二次内包の存在論的な先行性が成立する。

定義 クオリアの逆転とは第〇次内包の認知の自立性から成立する、私の外的な身体変化と内的な感覚との関係性の逸脱(逆転)という想定、と解する。

定義 「マイナス内包」とは、無限に多くの内包がそこから産出される事が可能であるような、それ自体としてはいかなる内包としても確定されていない無尽蔵の内包の次元*、と解する。
*従って、「マイナス内包」は第〇次内包の様に、内的な感覚が外的な身体変化から「自立」するだけでなく、「特定のある感覚」という第〇次内包で、保持されていた概念規定からも自立する事になる。(しかし、マイナス内包はそれが「何らかの潜在的な感じ」である、という点において感覚という概念からは自立していないといえる)

定理1 私の性別が男性である/女性であると公共的基準により外的に規定される事と私が自分は男性である/女性であると内的に思う事は異なる。
証明 なぜなら性自認とは私が自分を男だ/女だと思う事なのであるから(性自認の定義より)、公共的な基準によって(例えば、私の振る舞いや身体の特徴、脳の構造によって)、私が男である/女であると外部から規定される事との間に必然的な関係はないからである。故に身体的な特徴(公共的基準)からお前は男/女だと規定されても尚、私は自分が女である/男であると思うという事は可能でなければならない。

定理2 性自認は、五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)の内のどれかであるような感覚ではない。
証明 性自認の定義より明らかである。

定理3 性自認は性的嗜好性の様な欲望でもない。
証明 性的嗜好性及び、性自認の定義より明らかである。私が女性的/男性的身体に対する性的な欲望(好み)を有する事と、私が男性である/女性であると思う事は、何ら必然的な関係性を有さない。(私が女性的身体/男性的身体に対する性的嗜好性(欲望)を有していても、私が女性である/男性であると思う事は論理的に両立可能である)

定理4 感覚や欲望は、一人称特権的な(従って私秘的な)内的に自己確証可能な体験である
証明 なぜなら、私によって感覚され欲望される事は、この世界の中で唯一、私だけが直接的に認識可能な私秘的な体験であり、また過去に私が経験した記憶として存在する感覚や欲望と比較する事によって、今、私によって直接的に感じられ欲望されている事がどのような感覚や欲望であるかという事を自己確証的に識別可能だからである。

定理5 感覚や欲望は第〇次内包性を有する。
証明 感覚や欲望は一人称特権的に自己確証する事が可能な体験である(前定理より)。故に感覚や欲望の認知は自立性を有する。故に、仮に感覚や欲望が外的な脈絡なしに突然発生したとしても、私によって認知可能な次元(第〇次内包性)を有している(第〇次内包の定義より)。

定理6 一貫した持続する性自認は存在しない。
証明 性自認は感覚や欲望ではなく「思い」である(性自認の定義より)。従って性的嗜好性(欲望)や感覚(五感)と性自認(思い)の間に何ら必然的な関係はない(定理2及び3より)。また性自認は公共的基準によって規定される様な外的脈絡とも関係がない(定理1より)。しかし仮に性自認(思い)が、感覚や欲望の様に一人称特権的に自己確証する事が可能な経験であると想定されたとしても、「私は男である/女である」という思いの経験がどちらも経験済である事によって始めて「私は今、間違いなく女ではなく男である/男ではなく女であるという思いを有している」という事が言えるのである。そうでなければ、自らの内に生じている思いの経験について、この思いは間違いなく「男である/女であるという思いだ」という事を私的に同定する事など不可能だろう(それは男でありかつ女であるという思いの経験、あるいは女でも男でもないという思いの経験にしても同じである)。しかしそのような性自認(思い)の「逆転」の想定なしに、性自認が成立不可能であるとするならば、その様な思いの逆転はいつでも原理的に生じ得るのでなければならず、一貫して持続する性自認の成立はあり得ないという事になる。QED
備考 従って性自認の定義で示したような意味での性自認では、一貫して持続するような性自認の成立は不可能という事になる。では、通俗的な意味の性自認(私は男である/女であるという思い)でなければ、性自認は成立可能なのか。つまり、男/女という概念から自立した「マイナス内包」としての性自認ならば可能なのか、以下によって論証される。

定理7 第〇次内包を認めるならば、クオリア逆転という想定もまた理解可能でなければならない。
証明 仮に、感覚に伴う外的な表出(身体の変化等)が一切なく、端的に何らかの感覚だけが生じても、その感覚が何であるか自己同定可能でなければならない(定理5より)。従って、仮にある外的表出(身体の変化)と関係付けられている感覚とまったく異なる感覚が生じたとしても、それが何の感覚であるかを自己同定可能でなければならない。(もし体を怪我して血が出てきても、痛みでなく「痒み」が生じ、逆に蚊に刺された際に痒みでなく「痛み」が生じても、(つまりクオリアが何故だか逆転している事を)外的な表出ではなく、ただその感覚そのものの直接的な認識によって自己同定可能でなければならない。)従って、感覚や欲望の第〇次内包の次元を認めるのであれば、クオリア逆転という想定も(それが現実に成立している/していないに関係なく)理解可能でなければならない。

定理8 クオリア逆転の様な逸脱は、そもそも他者から言語を習得する以前から生じていたという想定は、概念の認識論的な成立に先立つ、存在論的な成立可能性に基づく事により想定可能である。
証明 感覚の第〇次内包を理解するには、何よりもまず他者から言語を教わる事によって、即ち、私の身体と関係づけられた仕方で私の内的な感覚の呼び名を覚える必要があり、その呼び名は、実はこの内的な感覚そのものを指す言葉なのだという理解の次元が第〇次内包であった(第〇次内包の定義より)。従って、クオリア逆転の想定が理解可能である為には第一次内包を経て第〇次内包の概念把握が必要不可欠である(前定理より)。しかし、その様なクオリア逆転の様な事態は、そのような認識論的な概念把握を経ていないと理解出来ないとはいえ、概念把握をする以前からクオリア逆転の様な逸脱、異常が生じていたと(そのような逸脱は決して認識出来ないとはいえ)存在していた事も可能であったと、(認識論的な先行性に対する)存在論的な先行性を考慮するならば理解可能である。

定理9 「マイナス内包」は、第〇次内包に産出論的に先行する。
証明 前定理より明らかである。何故なら、「マイナス内包」は第〇次内包の様な、認識論的な概念把握に先立つ、存在論的な先行性を考慮する事によってのみ理解可能なものだからである。

定理10 「マイナス内包」としての性自認は男/女であるという概念からの自立である。
証明 もし性自認(男である/女である)が自己確証的な独自の感覚(クオリア)である第〇次内包的な次元だとしても、一貫した持続する性自認は成立不可能であった(定理6より)。一方、「マイナス内包」としての性自認は、その様な自己確証的な「男である/女である」といった第〇次内包の概念からの「自立」である(「マイナス内包」の定義より)。故にそれは男でも女でもない何らかの感じである(従って何らかの内包を有している点で、内包からは自立していない)。

定理11 「マイナス内包」としての性自認は語りえない。
証明 前定理より明らかである。それはもはや男や女という概念から自立した性概念であり、むしろそこから、男/女といった概念が産出される様に働く潜在的な性概念である(マイナス内包の定義より)。従って「マイナス内包」としての性概念は潜在的である故に、男や女という概念によって未規定なものであり、その様な潜在的な性自認なるものがどのようなものか、もはや語りえないものとしてのみ存在するものである。

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