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五色塚古墳、移情閣、旧武藤山治邸 、旧木下家住宅

美しい古墳」に紹介されていた復元古墳へ行く。山陽垂水駅。五色塚古墳だ。

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垂水は何度も行ったことがあったのにあんな近くに兵庫最大古墳があったとは知らなかった。細い入り組んだ道を歩いて行くと急に目の前にどーーーーん!っと古墳が見える。五色塚古墳は復元古墳として私の読んでる本「美しい古墳」でも最初に褒めていて、こんもり古墳はかわいいなってのは1300年後の今の見え方で本当は大きさで権力を見せつけながら太陽の光を葺石がキラキラと輝かせていたんだというのが現地に行ってみて体験してよくわかった。海からこの古墳を見た人はその大きさに恐れおののいただろう。

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五色塚は天皇陵でないから登れるので上がって海を見る。明石海峡大橋がものすごく邪魔である。あれがあるとどうしても橋を見てしまう。超でかでか古墳を体験しにきたのにそれよりもでかいものがあるとはなんという野暮なことだろうと橋を見る。いや、これも権力の象徴だ。五色塚古墳に眠っている豪族の長をびびらすための現代人の挑戦にも見える。隣に陪塚の小壺古墳という円墳があってこちらは芝仕立てですごいかわいらしいのだが、最初からそんな墳墓だったらしい。ちょうど芝刈り中でのんびりしている。

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五色塚古墳の石葺の石は半分は昔に葺かれたままの石を使っていてこれは淡路島の石らしい。

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頂上には円筒の大きな埴輪がちゃんと複製されて並んでいる。白洲本「美しい古墳」ではそこに松明を入れて祈祷したと書いていた。

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1300年前の夜に海から見たら圧倒されただろう。しかし、日本書紀にも五色塚古墳については書かれているのに埋葬された人物の名はわからない。消された歴史。大和朝廷が認めたくないほどの大物であったということか。

古墳の上から明石大橋を憎々しげに見ていたら、あ、孫文記念館の移情閣に行ったことないわ。。と思い出した。

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マップで見ると20分もかからないので海沿いを歩いて舞子まで。お昼頃になりたくさんの人が出ていてその時は緊急事態宣言中だったけど悲壮感はなく、移情閣も開館しているとのことで早る気持ちで向かうと、ここでもまた明石海峡大橋が邪魔。

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大正年間には異彩を放ったであろう八角堂のこの建築物が橋のせいでマッチ箱みたいに見えてしまうのだ。舞子公園の中に移築するのは素晴らしいと思うけど、もっと他に場所なかったのか。。。どこから見ても橋越しにしか見えなくて残念すぎる。ほんまセンスないな!(今パンフを見たら200メートル移動させたと書いてあった。そのままでええやん。どんだけ橋が好きやねん。。。

移情閣は、昔、華僑の大金持ちの別荘であった建物でここに孫文は何度も来て神戸の華僑に良くしてもらったらしい。その後、神戸の華僑が長い間管理して神戸市に寄贈したとのこと。若い頃の孫文の写真を見て男前やったんやなと気づく。たくさんの資料の中に大正時代の金持番付があった。一位は住友さんでそれ含め、住吉村の人らが多いな!そりゃー日本一の財団法人になるわ住吉学園。。。と思う。

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移情閣はコンクリート初期の建物で木とコンクリートでできていて外装も内装も可愛らしい。受付でこの近くの他の二つの建物も見れるチケットが三軒合わせて340円!だったので見ることにする。

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二軒目は鐘紡の社長の家だった洋館、旧武藤山治邸

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外から見るとベージュでシック。移情閣もだけど北野にある異人館よりも落ち着いた色合いで海の風景に似合っていで素敵。書斎にある仏像がとても美しく住われていた武藤さんのお人柄がわかるような気がした。

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三件目は少し山手にある元海運業の社長が建てられたという旧木下家住宅

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数寄屋造の日本家屋でこれまた素晴らしい。最初のアプローチから石に魅了される。アプローチを抜けると手入れされた庭と軽やかな数寄屋。

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昭和27年に建てられ震災前まで丁寧に住われてたとのことで、建物がまだ生きている気がしたわ。

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舞子が別荘地だった頃の上品な風を感じる。
3軒とも他の観光客とは一度会った程度で非常事態宣言にぴったりの半日だった。

21.5.3


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