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教育相談研修@名古屋 土日に進んで勉強するようになった子どもたちについて

名古屋市教育センターで教育相談担当の先生方400人に70分の講演。
「エデュケーショナル・マルトリートメントのない学校をめざして」

市内全小中高特別支援学校から1名以上の参加ということで、
生まれ育った土地の先生方に話を聞いていただけるありがたい機会。

教員対象の放課後の研修はせいぜい1時間が多い。今回70分。
通常2ー3時間で話す内容を、この尺に縮めると、
充分に理解していただくのは難しくなるから、
どこまで行けるか、ということになる。
でも、この方たちに出会う機会はもうないと思うと、
せめて入り口をのぞくところまでいてほしいと思う。

だから、伝えたい内容を半分にすることはまだ血気盛んな?私にはできない(´;ω;`)ウゥゥ 。仕方ない。詰め込みのやりすぎ講演💦

講堂で、固定椅子の座席が一人置きに指定されていたのを、
基本的に全員に立って移動していただいて
ガラガラポンの3人組を作ってワークを兼ねた自己紹介を40秒ずつしていただくところから始めて、きっかり70分で終えた。

どうして短い時間しかないのに、わざわざ席を変える時間を取ったのか?
・・・講演の中には様々な仕掛けを入れ子のように組み込むので、
   ファシリテーションの技術を一つずつ解説すると、
   書いても書いても終わらない。
   そもそも講堂で行う講演をファシリテーションの場と思っているとこ 
   ろからして何か勘違いしているか(笑)
   
誤解されようが批判されようが来年以降呼ばれなくなろうが、
届く人に届けるために言うことは言うと決めて、
おかしいことをおかしいと言った。

(と思っていたけれど、よく考えると、フレイレもニイルもイリイチもちゃんとずうっと前に既にもう口を酸っぱくして言っていることの繰り返しのよう。どの著作もほとんど読んだことがないから確信はないのだけれど、たぶん)

名古屋スクールイノベーションプロジェクトの成果の一つはこれだという。

出典)子ども主役の学校へ、いま名古屋から 学校は誰のもの? 
名古屋市教育委員会著 中田素之・松山清美編 東洋館出版社

 ・土曜日や日曜日など学校が休みの日に、一日あたりどれくらいの勉強をしますか、
 ・学校の授業時間以外に、普段(月曜日―金曜日)一日あたりどれくらいの勉強をしますか。
 ・家で自分で計画を立てて勉強をしていますか。

この数値が有意に増えたとのこと。
はて?

 家庭生活の時間に勉強を食い込ませることが望ましいことなのか。
 子どもが空き時間にすべきことは勉強なのか?
 脳にも心にも体にも休みや遊びが必要なことは、脳神経科学で明らかではないか。子どもたちは悲鳴をあげているのではないか。
 それは先生たちが土日に進んで部活をやっていた構図と同じではないか。
 子どもたちにまで残業させているということではないのか。

(ちなみに、文科省も土曜学習を推進したり、放課後学習を推奨したりしている。土曜日にゲーム漬けの子どもたちをなんとかしようというのはまた別の話として重要)

 よい学びは、はっと気づきが起きたときに命を得る。計画がないと進まない学びはどんな学びか?
 いろいろな家庭事情がある。授業時間内で学びを保障できないとしたら、それは公教育としてどうか?

 机に向かっていれば安心、助かるという親たちに拍手されて、
 子どもたちの方を向いていると言えるのか?
 子ども「を」(目的語)大人たちの思い通りの主役に「させて」(使役)いるのではないか?

 誤解しないでほしい。
 きっとプロジェクトの成果で、今までに比べて段違いに、先生も生徒も生き生きしているのだろうと思う。動かないでいる自治体があるなかで、ここまで来ていることは素晴らしいと思う。この動きを止めたくはない。

 ただ、その成果をどこで見るのか。何を目標とするのか。
 従来通りの視点になっていないか。

 どんなふうに子どもたちを育てたいのか、子どもたち自身はどう育ちたいのか、からもう一度、みんなで考える必要があると思う。
 そうでないと大人たちが「良かれと思って」やることが、教育相談の視点、エデュケーショナル・マルトリートメントの観点からすると、裏目に出てしまいかねない。

・「国語の勉強が好き」と答えた子どもが1-4の4件法で、半数から少し(2.51→2.7)増えた。つまり、「嫌いな子が半数」いたのが、少し減った。

 それはちょっといいことだけれど、統計で有意差が出たからと言って、手放しで喜べることなのか。
もし有意差を出したかったら、
 国語の教材を漫画の読解にすれば、国語の授業が好き、になる生徒が増えるかもしれない。
 教師を優しいイケメン、カッコいい美女にすればいいかもしれない。
 授業の自由度が高くなれば、ちょっとは好きになるだろう。
 点が取れるようになれば、ちょっと勉強してもいいかなと思う。
・・・それらとこの試みはどう違うのか。

私のいつもの問いと絡めて考えてほしい。
・子どもたちが漢字のドリル学習を『刑』だと言う。学校は刑務所、学習は刑か。進んでやるよい子は模範囚か?
・ドリル学習で点数が取れるようになるともっとやりたいと言うようになる。それはどんな主体性か。

そんな問いかけを矢継ぎ早にする自分を呪いたいけれど、子どもたちこそが教育の対象者、当事者になっていて、自分たちでは発信できないでいるから、誰かが言わなければならないとしたら、フリーの立場のおばぁさんがその役割を引き受けようと思う。

教育相談の講演だから、子どもの立場に立つ役割の先生方には、子どもの状況がよく見える「視点メガネ」を、クリティカルなメガネを持っていてほしい。与えられた椅子に座っていては見えないことがある。自分で立って動いて人とつながって、みなが自由にクリティカルに意見を出し合った上でどうするかを考えていくのが、デモクラティックな改革だろう。

さて。

講演の前にはガードが硬かった担当の先生方が、
終わったあとに、本音で話しかけてくださったのが嬉しかった。

私を育ててくれた名古屋の教育に恩返しがしたい。
一つ目の学校は、木造の校舎は廊下を歩くとキュッキュッと音がした。
二つ目の学校は、時間があると裏山で遊ばせてくれた。
私は今も、2つの学校の校歌が歌える。
50年以上前の小学校低学年の担任の先生たちはもういらっしゃらないかもしれないけれど、憧れだった溝口嘉子先生、伊藤篤先生、岡田正子先生。
私は名古屋に戻りました。

※ 『よい教育研究とは何か』(ガード・ビースタ著)は、この投稿について考えるときに役立つ基本書だと思います。ぜひ。


※ 写真は、草がたくさん生えていて、ブランコとすべり台と砂場とジャングルジムがある広い空き地のような公園@瀬戸市(名古屋市の隣)。朝の散歩で通りかかった。こんな公園は、東京ではあまり見かけなくなったなと思ってパチリ。

#エデュケーショナルマルトリートメント #名古屋市  #⃣教育 #クリティカル #一般社団法人ジェイス  

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