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教育熱心と教育虐待のボーダーライン

教育熱心と教育虐待のボーダーラインについて、
『やりすぎ教育』(ポプラ新書)のカバーには書いてあるのですが、
そして、noteにもすでに書きましたし、
いくつかの雑誌などにも取材していただいたことがあるのですが、
いまでも何回でも説明を求められます。
もう少し丁寧に説明したほうがいいようです。
以下をお読みください。

教育熱心は親の「姿勢」で、教育虐待は親の「行為」です。
4文字熟語ですので、比較できるように思ってしまいますが、
そもそも同様のものとして並べることはできないのです。
ただ、教育熱心なためにやる行為と教育虐待は比較可能です。

教育熱心で、子どもに何かをやらせたいと思っていろいろと情報提供したり、環境を整えたりすることはいいことです。
でも、それが子ども側から見たときにやりすぎになっていると
教育虐待です。

たとえば、美味しい食べ物をおなか一杯食べさせてあげようと
テーブル一杯に並べるのは愛情です。
でもそれを、せっかく作ったんだから全部食べなさいと言って、
もうおなかいっぱいで食べられないと言っている人に無理やり食べさせたら、
どんなにおいしい料理でも苦しくて仕方がありません。
愛情とはもはや感じられなくなって、
料理を用意した相手を恨めしく思うでしょう。

どこまで美味しいと感じられるか、
それは、料理を提供する側が決めることではなくて、
食べる側が決めることです。
おなか一杯の状態になっていたら、
栄養的にも結局吸収しきれないですし、
もしかしたらおなかを壊してしまうかもしれません。
体にも悪いし、関係性も悪くなるし、
お互いにとっていいことはないのです。

書籍の中ではこの部分を十分に説明することができなかったので、
ここでもう少し詳しくお伝えしておきます。

線引きをしたい気持ちはわかります。
自分は教育熱心でやっているのだから、
虐待しているなんて言われたらと思うと不安だし、
もし言われたら心外だということでしょう。

でも、教育虐待という言葉は悪者探しのためにあるわけではないんです。
日本の中で、一般的に、
子どもにとって辛いことが起きがちな、競争的な教育環境があって、
それに親子が巻き込まれているのではないか、ということを、
みんなで振り返って確認して気をつけませんかという問題提起なのです。

テーブル一杯の料理を用意するのは悪いことではないんです。
おもてなしの心です。
でも、それを食べるかどうかは、
食べる側が決めることだということに納得してほしいんです。
せっかくいろいろと相手のことを考えて一所懸命作ったものを
食べてもらえないのは悲しいことですよね。
この人にはまだ何が美味しいかどうかを判断する力がないんだ、
食べてみてもらえばわかる、という気持ちが出てくるのは、
私にも経験的にわかります。

でも、わからないんだ。もっと食べるべきだ。と、
それがもし大事な大人のお客さんだったとしても、
無理強いしますか?

自分の子どもだと、それをやりすぎてしまうのです。

ちょっと食べてみたけれど、これは触感が好きではないなとか、
最初美味しいと思っていて取り皿にたくさんとったのだけれど、
食べ進めてみたら、ちょっと味が濃くて多くは食べられないなとか。
いろんなものをちょっとずつ食べたいなとか、
これはもう見た目だけで無理だなとか。
そういう判断は子どもなりにしますよね。

(習いごとを始めたときに、ちょっとやって辞めたいと言ったり、
 どれもこれもやりたいと言ったり、面白くないとか、疲れたとか、
 そういうことを子どもは言いますね。
 経験値が少ないのですから、やってみなければわからないし、
 それは大人でも同じではありませんか)

でも子どもが好んで食べるものには栄養的な偏りがあるから、
これもあれもということがあるかもしれません。
そういうときは、出し方を工夫して、
それで食べてくれるようになることもあります。

ただ、全体量が多すぎたら、どちらにしても食べられません。

今のは食事の例ですが、
もう一度、日常の親子関係に戻って考えてみると、

自分が今日、子どもにかけた言葉は子どもにとって理不尽ではなかったか、非合理ではなかったか、
同じことを自分が誰か大切な人に言われたら、とても耐えられない言葉がけではなかったか、と考えてみるきっかけにしてほしいのです。

自分が、
日本の競争的な教育環境に、
望んでいるわけでもないのに、
いつのまにか巻き込まれてしまっていないかと
ちょっと立ち止まって考える時間を取ってほしいのです。

いつも身体的、精神的な教育虐待をし続けている親は
ほんの一握りだと思いますが、
多かれ少なかれ、親は生活の中の必要性によって、
自分が子どもに対して持っている権力を使いますから、
そのときに強すぎることをしてしまうことは人としてあると思います。

それに対して、あたり前だと思わないで、
人としてこういうことを自分よりも弱い存在の誰かに対して無理強いしてしまっていいのかな、
自分がやられたらいやじゃないかなあ、
自分が子どものとき、親に言われて嫌だったことを
自分の子どもについ同じように言っていないかなあ、
などと思い巡らしてほしいのです。

子どもは親に強く言われると、
親とよい関係を作りたいと思っているいい子であればあるほど、
それに対する抵抗を成功させることができません。

そもそも多くの場合、親は聞き入れません。

もし自分が自分よりも強い人に、
いろいろ言われたらと想像してみて下さい。
言い返せないですよね。
それと同じことが親子で起こりうるのです。

だから、教育熱心がどれほどいい親の姿勢であったとしても、
教育虐待という行為は控えなければなりません。

もしやっているということに気がついたら、
その時点で止めてほしいし、
あとで気がついたら、
子どもにちゃんと謝って、関係回復をする必要があるでしょう。

周囲の人たちも、なかなか難しいことだとは思いますが、
親が、できる限り自然に気がつくように、
親の教育熱心な姿勢やその思いを大事にしながらも、
子どもを守ってあげてほしいと思います。

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#やりすぎ教育 #エデュ・マル #ウワサの保護者会

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