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お釈迦様が修行を始め、悟りを開くまでのお話

前回までのお話は、太子(お釈迦様)がお城を抜け出して村にたどり着き頭を剃ってもらい、豪華な服装から粗末な衣の姿となり、とても王子の面影もない姿になり真実を求める旅が始まるところまでをお話しました。

そして、お釈迦様はひとまず有名な修行者を訪ねて教えを請いましたが、すぐに全てを理解してしまい、太子(お釈迦様)は満足させてくれるものでは無かった為すぐにその者のもとを去りました。

お釈迦様は、自分自身の力で悟りを開く為に、心を集中させて悟りを得られる場所はないかと思いウルベーラーという村のそばにある林の中を修行の地に選びました。

そして、その場所で6年の月日が流れましたがなかなか悟りを開く事が出来ず、お釈迦様の姿は枯れ木のように痩せ細り、ミイラのようになってしまいました。
お釈迦様は6年間を振り返り、今まで苦行をしてきたが体と心を痛めただけでなにも得ていないので、この苦行によって悟りを得ようとするのは間違っているのでは無いのか思い始めてました。

物事を正しく考えるには弱った体ではなく、もとの元気な体にらないと真理に至ることは出来ないと気が付きましたが、長い間苦行生活をしてきた為立ち上がる力もなく困っていました。
すると、その修行している近くの村の娘がたまたま横たわっているお釈迦様をみつけました。
お釈迦様は「私に、飲み物と食べ物を恵んでほしい」とその娘に伝えました。
娘は快く引き受け毎日お釈迦様の元にお粥を運ぶようになりました。
その娘の名前は「スジャータ」といいました。

そのスジャータのおかげでで健康を取り戻し、元気な体に戻ったところで、菩提樹という木の根元に腰を下ろし、足を組んで、とてつもない強い覚悟を決めて瞑想に入り、風の音や鳥の声も聞こえなくなり、物音一つしない静寂な世界に入り込み座禅をしました。

そうしてると、お釈迦様の悟り開こうとしているのを邪魔しようと魔王パーピマンが、自分の子供たちを使い邪魔をしますが、お釈迦様の強い気持ちには勝てず魔王の子供たちは撤退していきました。
その魔王自身もお釈迦様の邪魔を必死にやりましたが、全く歯がたたず諦めて撤退したそうです。

お釈迦様は、悪魔たちは己の心が生み出したものであることだとを知りました。

心からあらゆる迷いが消え、意識がハッキリし、目や耳、鼻など、あらゆる感覚が明瞭に働いてゆき、心が揺れ動かれることも、悩むこともなくなり、菩提樹の下に座って七日目、35歳の12月8日に、究極の悟りを得ることが出来たのです。
ここから、80歳2月15日にお亡くなりになる45年間、悟られた真実、真理を、人々の苦しみに答えていかれたのが仏教の教えだということであります。

お釈迦様が修行中の弟子に言った言葉があります。
その弟子は悟りを開く為に、厳しい修行を自ら進んで行なってましたが、全く悟りを開ける手応えも何も得ることが出来ず、もう無理なのではないかと思い、修行をやめて家に帰ろうかと思っていたところ、お釈迦様は弟子を呼び出してお話をしました。
「お主は琴をひいたことはあるか?琴の弦を張りすぎても、緩めすぎてもいい音は出ません。いい音を出すためには張りすぎず緩すぎず程よく調子をあわせるから良い音が出るのです。修行もおなじで、努力しすぎると、『こんなに努力したのに』と執着がうまる。逆に緩めすぎると怠け心が生じてしまう。だから、琴の弦の様に張りすぎず緩めすぎず緩急のよろしきを得ることこそ大切なんです。『中道』を行きなさい。」と説かれてます。

あまりに努力にこだわりすぎて、努力することや頑張ることが目的になってしまっていることがあります。
一生懸命やってるのになかなか結果が出ず空回りしてるなとか、頑張ってきたけど疲れたなぁと感じたら、本当は自分はどうしたいのだろうとか、何を得たいのだろうと、1度立ち止まって自分を見つめ直し振り返ると、自然と肩の力を抜いて取り組めるようになる。
琴の弦の様に張りすぎず、緩めすぎず、ほどほどのちょうどいいバランスで、自分の目標としている事を達成するにはとても大事なことである。

次回は、悟りを開かれたお釈迦様が様々な人と出会い悟りを開いていかれるのですが、そのお話をしたいと思います。


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