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陶芸家 川西知沙さん 初インタビュー

こんにちは、のぶちかです。

さて久し振りのnoteは富山県の陶芸家、川西知沙さんのインタビュー記事となります。

実は2021年9月に妻のこーすけと共に川西知沙さんの工房へ初訪問したのですが、本記事はその際に伺った色々なお話やそれを受けてののぶちかの所感をまとめていますので、ぜひ御一読頂ければ嬉しいです。


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オファーのきっかけ

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のぶちか
改めまして川西さん初めまして、こんにちは♬

川西さん
こんにちは、よろしくお願いします(両者明るく笑顔で)!

のぶちか
今日は色々とお聞きしたい事があるんですが、先ず僕が川西さんにお声掛けしたくなったきっかけから。

川西さん
はい。

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のぶちか
僕は結構渋いのが好きな中で(川西さんの作風は)ものすごくラブリーゾーンで笑。でも見た事がないものとかこれだけ色んなものが出ている(時代の)中で新しさとかオリジナリティーを感じるという、そこの面白さから入ってオファーさせて頂きました。ネット上の写真からスタートして現物を拝見して、また時間が経ってから作品を観ると、観れば観るほど惹きこまれて。そして本日こうして工房で制作工程に触れると益々魅力的に感じてきています。

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高校・大学時代

のぶちか
陶芸家になろうと思ったきっかけは何ですか?

川西
昔から手を動かすのが好きで、一人で泥遊びをしたりとか絵を描くというような内向的な子供で、授業はあまりついていけなかったけど絵を描くのは好きっていうのでここまで来ました。あまり勉強したくないなということで(笑)、美術がしっかりしてる高校の方に進みその時は油絵とかを描いてたんですけど、キャンバスの前に立つのがあまり得意ではなくあの白いキャンバスを埋めなきゃいけないのは私には得意ではなかったので、

「今後どうしようかなぁ」

って高校の終わりぐらいになった時に美術系の学校に進みたい気持ちが強くなりまして、日本画科、洋画科、陶芸科ってなった時に陶芸の授業もしてたので陶芸はしてて面白いなぁってちょっと興味を持ってたんで。

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のぶちか
高校の時にですか?

川西さん
はい、高校時代に選択のクラスで(陶芸の授業が)あったんです。たまたまその時に選択クラスで、陶芸って結構みんな遊ぶ授業だったので色んな学科の子達が遊ぶ為の授業として選択されやすかったんですけど、私は普通にできたらやりたいところがあって。まぁ先生はそこを汲んでそのクラスに入れてもらってから、そこが初めて陶芸をやり始めた時です。

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地元の越中小杉焼の先生が講師に来てくださって遊ぶ様な感じでやってたんですけど、その後の進路を考えた時に絵は嫌だから立体のものでと思って彫刻か陶芸かって思った時に、陶芸のクラスをそのままやってみようかなっていうので当時目星をつけていた美大の中から陶芸ができる大学に絞りはじめまして、富山って私達の代って関東に行くか関西に行くかっていう二択なんですよ。基本的には富山にいたくなかったらどっちか、みたいな感じで私は関西にしようと思って。色んな大学を見学した時に(私が入った)京都造形大学があったので、

「ここに行きたいな」

と思って受けたのがスタートですね。

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のぶちか
高校で美術の強い学校があったっていうのが…

川西さん
なんかかわった所で、普通科が無くて総合学科っていって大学みたいな単位制だったんですよ。必修の数学とはあったんですけど、それ以外の単位は自分で好きな授業を選べたんです。美術の選択肢のいっぱいある美術コースとかバイオとか体育コースとか、そういうのがたくさん集まったのが総合学科だったんです。

のぶちか
へ~(←『なるほど~』といった具合に)、で4年間京都(造形大学)に行かれて。何か大学時代のプロセスとかありますか?

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川西さん
大学ではオブジェのコースで専攻してました。
結構うちの大学って京都の実際の作家さんとかを招き入れてるので、京都色がすごい強かったんですよ。で、その先生の前で器を作るっていう事は恐ろしすぎてできなくて(笑)。で、おのずとみんなオブジェばっかり作ってた様な感じでした。他大学とのかかわりを経て普通に就職をしようと考えたり、大学時代を過ごすごとに

「もうこれで終わりにしよう」

と思ってました。
あの…、食べていけないなってっていうので…。(陶芸関係の)就職率も全然無いですし…。

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で、(ある)先生方の口癖が

「俺たちは陶芸(だけ)では食べてくのは厳しいと。だから俺達も作家だけでなく教授として仕事をしてる」

っていう風な感じで。
その4年間を学ぶっていう事で、陶芸の技術とか考え方とかそれももちろん美大としてとして学べたけど、その先の陶芸家として生きるっていうところは学べないと言うか。制作するところにとどまった状態です。

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益子時代

卒業後に陶芸をまだやりたいなと思った時に、最初関西に残りたいと思ったんです、そのまま。で、関西周辺の窯業地とかも見たんですけど、やっぱもちろん求人はそんなに無いですしあっても町の陶芸教室の先生とかだったので、そんな中にこういう友人が益子の製陶所でスタッフ募集してるよ、っていう話をもらって。それがきっかけで卒業してから益子に移動しました。

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(中略)

私が行った製陶所はもう今はなくなったと言うか、入社して一年で無くなっちゃったんですけど(笑)、でも私達がいたのは修行じゃないけど下仕事の時間がもらえるタイプの仕事だったんですよ。1日5時間は仕事して残りの3時間は仕事の為だけど技術を覚えるっていうので無給で頑張るみたいな。その代わり仕事が終わったあとロクロ場を貸してもらえるから、自分で好きに勉強していいよっていう研修制度みたいなのがあって、そこで1年弱ですね。働いてましたね。

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のぶちか
 主にどんな仕事がありましたか?

川西さん
まだ入って来たばっかりだったので、基本的には土練りですね。土練機をひたすら回して。で、ロクロ専門の従事者と全体を統率する人とその下にいる人みたいな感じで大まかに分かれてて。で、私は末端の方に居て。で基本的に朝行ったらロクロの人に

「今日何本いりますか?」

って聞いて、土は土練機で回すのでそれでミックスさせて用意するっていうのが大半でしたね。それをしてる内にその会社が廃業するんですけど(笑)。

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のぶちか
その後はどうなるんですか?

川西さん
その後は一年で益子を離れられないという事で、わざわざ来たし…。ただその修行制度の時の給料がだいぶ安かったのでとてもきつかったのと、親にこれ以上迷惑かけられないっていうのと…。だいたい月6万ぐらいあったんですよその時。で、それできついからというので、近くの横山製陶所という所で研修制度があって。

日中は基本的にフルで仕事して、夜に空いた時間は社長がろくろを教えてくれるという所で 。何より魅力的だったのは自分は生産より接客やりたいなと思ったので。陶芸教室が大きかったので。そこに行って残り3年間は陶芸教室のスタッフとして働いてました。

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のぶちか
土練機を回してるだけだと陶芸教室で教えてあげられるイメージがないんですけど、どんな感じだったんですか?

川西さん
でも陶芸教室の実際にメインでやったのは横山(製陶)入って1年ぐらい。それまでは横山の作るところで地走りって言って、作ってる人のサポートをしたりとか製品をちょっと手伝わせてもらったりとか、そんな感じでやってました。あとは大学の時の技術も一応少なからずあったので。陶芸教室って言っても本当に初心者の方しか来られないので、まず最低限のろくろの立ち上げができれば問題ないですし。

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のぶちか
あ、そっか!ろくろの基本的な技量はそれまでに習得してたっていう事で。

川西さん
そうです。基礎の基礎のみですが。ろくろの方は最初の会社の方ですね。昼は土練機を回して夜はろくろを勉強してたので、6時位から9時ぐらいまでですね。

「じゃあ一番簡単なこのたたらの長皿を作れる様に1分何秒でやってみましょう」

みたいな感じで。
で、それを覚えたら次こっちね、みたいな感じで。で、実際それも作ったもので良ければ製品として流れていくんですけど。まぁ時給にはならないみたいな感じですね。

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のぶちか
まぁ原料代とかは自分で出さなくても…

川西さん
そうそうそうそうそう!
 無償で土を触らせてもらえる。製品までのクオリティまでの技術を教えてもらえる、っていう時間ですね。

イショケン(多治見市陶磁器意匠研究所)時代

川西さん
益子の横山製陶の後に今度は多治見の意匠研究所に移ります。

のぶちか
何年前になりますか?

川西さん
12年前です。

のぶちか
その頃でしたら結構今も人気の人達とかぶってる世代ですかね?

川西さん
少し上の世代です。しかしまだ修了されて間もない方もいらっしゃり交流がありました。

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のぶちか
イショウケンは僕ら若い世代の中だと(陶芸界に)風穴開けたじゃないけど、学校としてすごく次世代型の様な…。僕はそこ行ったことないし卒業生の人と喋った事がある程度の事でイショケン自体はあまり良く知らないけど、あそこを出た人のアウトプットとかを見るとすごくあの学校の存在って大きいなって印象があるんです。

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川西さん
なんかそのイショケンの飛び抜けた人達がいたのは私のちょっと上の世代なんですよ。青木(良太)さんとか桑田(卓郎)さんとかあの世代とかが強くて。でもその影響もあったから面白そうだなと思って行き先をそこに決めたっていうので影響は凄く私も受けています。

で、イショケンに入った時に市長の祝辞の中で

「意匠研で存分に学び、ここ多治見で働くのもよし、それにとどまらず、世界に羽ばたいていってほしい。その時に自分は意匠研究所の卒業生だと言ってほしい」

と、イショケンブランドとしてのプライドを感じました。

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で、先生方もそれが強くて。
特に上の花形の先輩の先生が強いっていうか。中島晴美先生が教鞭取ってた時代がとても華やかというか強かったですね。で、私の時はその当時に比べると落ち着いた感じがありました。昔ほど破天荒ではなかったですね。

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のぶちか
なるほど~。川西さんが入られた時はもうちょっと落ち着き始めてるという…。

川西さん
まぁでもその上の世代がイショケンという言葉とブランドを作ったなという認識です。

のぶちか
ちょっとすいません分かんないんですけど、学生じゃなくて職員としてという事は学生もいるという事ですか?

川西さん
学生はいないです。あくまで研究所、入学ではなく入所なので。多治見市の市税を使って研究をしているという形です。でも私も

「あっ、学生じゃないんだ」

ていうのが衝撃だったのと、

「税金だから大切に使え」

って言われたのも良く覚えています。

「土は有料だから」

って。

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のぶちか
なるほど~。主にどんな勉強をしましたか?

川西さん
最初の1年はロクロとかタタラとか。もう全く初めての子もいるので基本的には大学を卒業して院みたいな扱いのポジションで一通りの技術は知ってるよという方も多いんですけど、高校を卒業して間もない子もいるのでまず陶芸の基本的な技術と座学、釉薬についてとかっていう勉強があって。で、2年目は技術コースとデザインコースていうのが分かれて、デザインというのは私がやってる石膏型の習得になります。で、技術はロクロとか成型を使ってオブジェとか自己表現の場みたいな感じでそれぞれ1年して過ごすって感じですね。

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イショケンの後

のぶちか
で、イショケン出られて独立?

川西さん
いやぁ、イショケン出て独立はしたかったけど独立はできるほど技術は無く、結局バイトしながらなんかちまちまと作ってクラフトフェアに出したり、というのを4年ほどしてました。

のぶちか
どこで作るんですか?

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川西さん
意匠権の側に工房のシェアハウスみたいなのがあるんです。私の借りてた所はもともと絵付けのでっかい工場で、そこが廃業になったからそこのオーナーさんの娘さんがイショケン卒業で、その子が作業する場所を与えたいという事がスタートらしくて、その廃工場をシェア工房みたいな感じにしたんですよ。で、大きな所で何人もそこに入って場所を借りるみたいな感じでやってました。

のぶちか
環境があるっていうのはやっぱりすごいですね。やりたいと思ってる人がやれるっていうのは萩にはないから…。

川西さん
そうなんですか?

のぶちか
無いです無いです。だから余談ですけど、学校の有無とか環境の有無っていうのは産地の存亡だとか興隆という事にすごく直結してるなと思いますね。学校がある事でやっぱり異文化だったり色んな人との交流だとか、情報交換とかが生まれる。そういうのがないと結局作家単独とか窯元単独とか、あんまり広がりが無いというか…。ただやれる人達が勝手に自分達でやってるだけっていう産地なんで…。なんか遅れちゃうというか…。

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川西さん
私がいた益子も多治見も、私は元々富山出身で外部なんですよ。その外部(の人間)が入りやすい土地柄っていうのもあるし、その受け皿があるからから本当に色んな所から色んな人が来て、色んな技術を持ってやってるっていうのは面白いなと思いますね。

のぶちか
そうですよね。
僕のイメージだと岐阜県っていうのは割りと教えあうというか、あんまり惜しまないというか。まぁ九谷もそんなイメージですね、県主導で凄い先生を呼んできてめっちゃ教えてあげるとか。その仕組みが無いとやっぱり広がっていかないなぁ、みたいな印象なんですけどね。

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川西さん
それがまた若い人達に繋がって40~50代の人がさらに下の人を見るっていう様な流れが、やっぱり若い子達には必要だしそれはとても大切な事だと思います。まぁ私はそういう環境が生きやすいので。がっちり閉まってた京都とか…、やっぱりあそこは入るのも大変、技術ももらいにくいという場所だったので…、そういう所は私は厳しいなぁ、って思っていましたねぇ。

のぶちか
4年間、誰かに師事する事はありましたか?

川西さん
師事しなかったです(笑)。
基本的に4年間は普通の仕事をしていたというか、アルバイトで生計を立てないといけない。まず生計を立てて奨学金を返してそれにプラス余力があったら陶芸をやるみたいな感じでした。

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のぶちか
よくモチベーションが切れなかったですね、陶芸に対して(←感心した様に驚きながら)!

川西さん
その時は4年の間に陶器市に出始めた時でもあって、毎年春秋友人と会うんですよ。その時にみんな売れてないんでみんな暇なんですずっと(笑)。で、色んな話をして、でまたその場所には戻りたいな、っていう思いもあってやめなかったっていうのはありますね。

あ、でも途中本当に危なくて

「もう無理だ」

と思って介護職をしようと思って(笑)。

「手に職だ~!」

という事で介護の資格を取って、2年ほど介護職をやってましたね(笑)。

のぶちか
すごいですね~!(←かなり尊敬した感じで)

川西さん
もう生きていけないと思って。
本当に陶芸で生きていける気がしないという…(笑)。本当に20代後半というのは人生的にもこのまま30代に行っていいのかなみたいな感じでしたし…。

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ターニングポイント

のぶちか
で、介護されてて、やっぱり陶芸という感じで…

川西さん
そうですね、介護職やっててやっぱり陶芸の方がやりたいなっていう思いがすごく強かったのはありますね。で、もう1度陶芸をしようと思ったのは富山に戻ってからです。2015年に帰ってくるんですけど、富山なら産地に頼らなくていいなと思ったっていうのと、それまでは産地にいないと怖かったのでそこに居続けたっていうのがあるんですけど、そうじゃなくてもなんとかやっていけるかもしれないなと思ったので。親も富山にいるしもう帰ろうかなぁと思ってこっちに帰ってきて。で、また主人と出会ってというのは大きかったですね。

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で、そこで最初生きていけないからコストコで働きながら陶芸をやってたけど、ちょこっとずつ仕事が増えてきたんですよ。で、その時のターニングポイントとして栃木県の「もえぎ」さんというお店が個展のお声を掛けてく下さったんです。そこで毎年1回、なぜかあの変な状態で展示させて頂く事になりまして、そこからお客さんがちょっとずつ増えたのと、あともえぎさんが中国に繋がりがあったので国外のお客様が増え始めたっていうので今に至るって感じですね。 

のぶちか
なるほど~。

川西さん
そう、それがあったからコストコやめてこっちを専業にできたんです。それと主人の支えがあったっていう事もありましたね。

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技法の事

「もえぎ」さんの頃っていうのは作風はもうこういう…

川西さん
いや、別のシリーズをやっていたんですけど、(今の)このシリーズも出し始めてたんですけど今みたいにこんなに綺麗な色じゃなくて当時はもっとくすんでるんですよ。

のぶちか
くすんだ理由は何だったんですか?

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川西さん
くすんだ理由としては、まず私が色の扱いに慣れてないという事で…、色と釉薬と土のバランスが多分悪かったから…、今はそれを調整して色がしっかり出るというか鮮やかな感じになってきましたけど、ひと言で言うと昔の作品は汚いに近いかなって、色が混ざった感じがしてたので。もちろん当時はそれが綺麗だと思ってやってたんですけど、今となればそれが嫌だったから今に至るんだろうなって。

のぶちか
へ~。(←決して失礼な感じのトーンではなく汗)

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川西さん
で、専属で作る量が抜群に増えて。増えた事で逆に自分の作品の嫌な所がすごく目に付くからそこを改善して、お客さんと喋る時間も増えたから。私は基本的にお客様に手に取ってもらうのが一番だと思っているので、お客様のニーズを汲むのは苦手だけどなるべくそのニーズが取れる様に色んな方と喋って少しずつ作品を変えてきて今に至りますね。

のぶちか
なるほど~。
結構、その彫った部分に釉薬を掛けて濃淡出してっていう表現は、本当に模様化したものだったりなんとなくロクロ目だったりとかそういうのはあったけど、彫った部分に彩色して透明釉を掛けてっていうのは今まであんまり記憶が無いというか、この作風に。

「これは素敵やなぁ」

と思って。

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川西さん
これ象嵌の転用なんですよ。益子の最初の会社の時に、その時みんな独立する為にいる人達が主で。やっぱりそこで独立していく先輩とかもいて話をしていると、

「独立する為に必要なものは、自分の作風となる土と釉薬、技法を持たないと無理だよ」

って話をしてて。で、

「自分の技法は何だろう?」

という事から考え始めて。

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で、制作しているものの内の一つとして象嵌が面白そうだな、というのがあって。でも象嵌独特の土の色は私はそんなに得意ではないなと。綺麗だけど私の好みではないと思って。で、1回そこで(気持ちに)蓋をしたんですけど、たまたま追い込まれて作っている時にこれに近いピースのような物を作ってぇ…、出来上がりましたねぇ…。絵を描くのは好きだけど色を使って絵を描くのは嫌いなんですよ、私。分かりにくいですよね(笑)。

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こういう1色とかに2色とかで線を引いたりとかは感覚が分かりやすいんですけど、色を使うと何色をどう使ってどう描けば良いのか私は理解がしにくくなって来てて。まあそういうのもあって白いキャンパスの前に立つのが嫌だった頃もあるんですけど、そういう意味で最初にアウトラインが全部彫るだけなので陰影だけで出るから私はまず理解しやすいというか作りやすくて、そこから色をさすけど色も好きな水彩画の延長みたいな感じで使えるので、好きとやりやすいが混合されてる感じだと思います。

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展望

のぶちか
今後作ってみたいなとか挑戦してみたいなという表現だとかバリエーションというか、展望はありますか?

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川西さん
なんか凄いざっくりした感じですけど、空間デザインをやってみたいなって。陶の食器とかはもちろん自分が好きで作ってはいるんですけど。じゃなくてなんかこうひとつの空間を埋めれるようなアイテムを作れればなとは思ってはいます。

のぶちか
具体的にはどんなイメージですか?

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川西さん
具体的にはモビールみたいな感じです。やるとしたらそんな感じで…。そういう空間にいって楽しむものとか、ちっちゃいものをいっぱい作って室内空間みたいなのができたらなあとは思っているんですけど。だいぶそれはまだ先の話にはなってきますけど。

当面作ってみたいのは今まで作れなかったもの、作って失敗したものをまずは技術として少しずつ…。例えば今コンポートも作り損じが多いので、安定して作れる様になったらもっと色んな形の展開をしてみたいですし。

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JIBITA初個展への思い

のぶちか
最後にJIBITAで個展をやって頂くに向けてのお気持ちは何かありますか?

川西さん
初めての場所というのと写真とかで見たあの白い空間に自分のものがどう並ぶのかな?っていうのはとても緊張と楽しみがありますし、やっぱり自分の作った器を好きって言って買ってくださる方ってとってもありがたいなと思うので、そういう人達に会えるのが楽しみだなと思って。喜んでもらいたい、まぁ私は人の為にすぐ何かできる職業ではないけど、自分が作ったもので「あっ」て思ってもらえたらそれはそれで嬉しいので、そういう場所になれば良いなと。

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 とりあえずなんか今回は「初めまして」みたいな感じで行いたくて。
で、その時に出会ったお客さんや雰囲気に合わせて、次回(2025年)は展示したいなという思いがあります。

のぶちか
都会と違ってお客様の数が凄く多いという風では無いんですけど…汗

川西さん
良いんです、良いんです!
それはもちろん、やっぱり空間と人でものを買いたいというか、(作るものや演出を)合わせたいなって思うので。

のぶちか
ありがとうございます!

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⇧川西さん 
富山県の工房にて
                    インタビュー 2021年9月某日


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のぶちかの所感

陶芸家という限定的なジャンルにとどまらず、ものをクリエイトするというあらゆるジャンルの中において、作り手自身もそのアウトプットもどこか光を放っていると感じる事がありますが、最近そこにある共通点を見つけました。

それは「好きだから」という思い。

結果的にクリエイトする事が「向いている」という表現も当てはまるとも思うのですが、川西さんもやはりそこにもれなく該当する方のおひとりなのだと感じます。

「授業はあまりついていけなかった」

と過去を振り返りつつも、後に介護士の資格を取得されている点からも学業がどうので陶芸家をしているという認識は誤りである事は分かりますし、

「陶芸で生きていける気がしない」

という気持ちからその資格を取得されたにも関わらず、介護をしながらやはり「陶芸をやりたい」という思いが強まり再起された経緯からも、川西さんの心は「クリエイトする」という事が生き方の軸になっていないときっと満たされないのだろうなぁと想像するのです。

もちろん「好き」や「向いてる」だけで上手くいくほど甘いものではなく後天的な努力は必須となる訳ですが、あらゆる障壁に立ちふさがれてもその「好き」な気持ちの火を消さず、「どうすればクリエイトし続けられるか?」を試行錯誤し続けた情熱的背景を知ると、クリエイトする上での「好き」という思いの強さはやはりとても重要なのだと思わずにいられません。

更に川西さんの作品には明るい「気」が流れている様に感じます。

それは色使い等の表現的な事のみならず、苦悩の末辿り着いた「陶芸家」としてものを作る事ができる喜びや充実が作品に発露しているからではないかとも思うのです。

一方、クリエイト自体は「好き」という思いが無くても可能です。

理論値ベースや模倣でキレのあるアウトプットもいとも簡単に生み出せます(※良い悪いではなく事実として)。

しかし、

その中でなぜ他に埋もれずに光りを放つ人やアウトプットがあるのかを想像するならば、クリエイトに対し「好きだから」という強い動機が介在したからではないかと思うのです。

余談ですが、「ものにも気が宿る」という考え方をどう立証して良いかのは分かりませんが、ものに対してその様に感じてしまうに至ると、少なくとものぶちかの場合は自分の身の回りに置くものはできればその様な健康的な気に満ちていて欲しいと思う様になりました。

その視点から川西さんの器を観てみると、簡単には諦めない粘り強い「気」や、作る事の楽しみに溢れた明るい「気」をまとっている様にも観え始め、そうなるともはや初見に感じた単一的な「可愛らしさ」だけが目に映る事はなくなり、それらの健全な「気」が備わった器を超えた物質にすら観え(感じ)始めるので不思議です。

こういう経験が増えてくると今後もよりそんな「気」を感じる作り手、作品に出会っていきたいという気持ちが高まるのですが、本展開催により改めてその思いが強固となった事に幸せを感じています。


2021年10月18日

川西さんに感謝を込めて。


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