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非日常を生み出すよりも大切な事があるかもしれないという話

私はアーティストとして非日常的な世界を表現したいと思ってる

ただ自分の中にアートというものが確立できていないし、ずっと迷っているものではあるけど、非日常は自分にとって大切な一つの要素だと感じている。

じゃあ、どうしたらまずその非日常を見出すことができるのだろうか?
なんてぼんやりと日々繰り返し考えているときにふと考えたことは
非日常を見つけようとする意識よりも何が日常的なモノなのかを知ることの方が大切ではないだろうか?
ということだった。

「話せること」「見えること」「五体満足であること」
「空が青いこと」「宇宙が存在していること」「本があること」
「家族がいる事」「ネットがあること」「冷蔵庫があること」など。

ざっと今思いついたことを述べてみたけど、挙げたらキリがない程当たり前の世界が存在している。
皆、無意識に日常の数々を味わっているし、知ってはいるのだ。
しかし、大切なのはその無意識に感じている当たり前な日常を再び意識の中に掘り起こす作業なのかもしれない。

日常の中にもいろいろと立ち位置が存在する。
その中には当たり前すぎるが故に出てこないものもあるし、当たり前だけど普段は遮断されているものもある。

例えば、土から木が生えていること。
これは部屋の中に植物を置いていない人間には少し遮断された日常。
植物がトイレットペーパーのように日用品として置かれているものではないように、身近だけど遠いものも存在する。

こういった見逃している部分があるということは決して少なくはないはず。
探せば探すほどいろいろと見つけられることができるはずである。
そして、その日常の距離と言うのも人によって形が様々である。

よく小さなことに感謝しなさいと言われたり、目にすることがあると思う。

それは幸せになるためだとか、人間性を高めるために言われたりするが、それだけじゃなく感謝することによって日々の些細なことを感じ取ることが人生や創造すべてにつながっていく方法かもしれない。

無意識に理解しているのだけれど、意識からはかけ離れてしまっているものの多くを掘り起こす作業こそ、非日常なことを気づいたり、生み出す過程を手伝う事になるのではないだろうか。

もう一度その中で無意識の中にある日常を一つ一つ掘り起こしてみたいと思う。


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