【創作大賞2024応募作】Marshall 4 Season #2
【タイトル】
Don't test the master
1990年代初頭 ニューヨーク 。
ぶつぶつ何かを言いながら。
いやちがう。
「ブッ」と「ツッ」の破裂音を交互に口づさんで
カビ臭い地層を一枚一枚引き剥がす。
かれこれ4時間程、
レコード盤の山々を掘り進んでいる。
ブッ、ブッ、ツッ、ツッブブン、ツッ
「いやちがう」
ブブン、ツッ、ブーンッ、ブッブブン、ツッ
「…シリアスめなバイオリンの旋律。
ピアノの和音が上ネタで…女のコーラスが2拍。
いや、それにしては単調か…。
16ビートの方がいいか」
「グルーヴ感のあるハイハットは…」
味見をしながら料理のレシピを呟いているかのようにあれこれ吟味しているが、ここはニューヨーク州ニューヨーク市クイーンズ地区50番のしがない中古レコード屋だ。
ウェイターもリブロース肉ステーキも出ては来ない。
あるのは埃をかぶっていたり、手垢まみれになったレコード盤だけ。
店主のボブが人に干渉しないので気に入っている。
ぶつぶつ念仏のように8ビートや16ビートを口ずさみ、ああでもない、こうでもないと、何時間も居座るアジア人にさえ、興味を示さない。
一度「もし店の中でクスリをやったらお前の腕を撃って、砕けた肉片をクソに挟んで食わせる」と言われたが、その程度の交流しかない。
何時間も商品を漁った挙句、たった一枚のLP盤を購入しても、「使えそうな元ネタが見つかったのか、発掘学者さん」と、ジョークを言ってくれたりもする。
すべてが、Marshall(本名:今野 マサル)という、ラッパー兼トラックメイカーにとっての日常。
そして、彼が生きた在りし日の日常こそが、日本のヒップホップシーンにとって大きな特異点だった。
*
彼がニューヨークから日本に逆輸入したノウハウやテクニック、そしてMarshallというアーティストの存在は、同世代のラッパーやDJはもちろん、大手プロダクションや音楽関係者さえも、興味津々だった。
上手く取り込めば、莫大な利益につながる可能性だってあるし、敵に回すこととなれば、大きな脅威にさえなりかねない。
無論、マサル本人にとっては、そんなことはどうでも良かった。自分や仲間たちが良いと思えるものを創造する、ただそれだけ。
B-BOYネーム Marshallの由来は、本名がマサルだから「マーシャル」とからかわれたことと、Marshallという英単語を体現している故のものだった。
武、武術、武闘…そんな無骨さや荘厳さを感じさせる人間性。本名とのダブルミーニング。
素直にこの名前を気に入っていた。
Marshallでいられる瞬間を、マサル自身が誇りとしていた。
*
1992年、日本に帰国したマサルは、自主制作したトラック(ボーカル抜き楽曲)に、自ら作詞したラップを収録し、デモテープを完成させた。
タイトルは、『Don't test the master』
同年、東京TBSSラジオの番組『Rhyme Kingのキラチューン・ウェンズデーナイト』の新人発掘コーナーにて紹介された。
オンエア後「今のはなんだ?」、「もう一度聴かせて」、「誰の曲?」等のリクエストが殺到。報道部ニュース以外では、ビートルズ来日以来、電話回線がパンクするという異例の事態に発展。
まさに、歴史は夜作られたのだ。
なんと敬称していいのかわからない、誰が何て言っているのかもわからない、だけど…
カッコイイ。それだけは分かる。
また聴きたい。もっと聴きたい。
もっと…
もっと…
そんな人間の好奇心と独占欲が、大きな力となり、この列島に地殻変動を引き起こした。
「ヒップホップは金になる」
「ラップは面白いコンテンツになる」
商業としての音楽的価値が、Marshallという存在により跳ね上がったと言っても過言ではない。
*
翌年の1993年、大手音楽レーベル会社のAxeとメジャー契約。ファースト両A面シングル『Don't 、test the master / 天まで飛ばそう』をリリース。
オリコンチャート10週連続1位。半年間という短いスパンで200万枚売れた。この売り上げはアジア圏、アメリカ西海岸、アメリカ東海岸、ヨーロッパ各国にも、飛び火した結果である。
インターネットが普及する以前に、極東の島国で作られた"まねっこ"が、本場アメリカはもちろん、世界にも注目されるなんて並のことではない。
NY時代の盟友である日本人DJのnjamru、DJ clutchが世界中のクラブやラジオ局で、『Don't test the master / 天まで飛ばそう』をプレイしたことが、飛び火した原因だと言われている。
ビートルズ、クイーン、エルヴィス・プレスリー、ジミ・ヘンドリクス、ボブ・マーリー、マイケル・ジャクソン…
自然発生的に突如として現れる稀代のアーティストやスターというのは、それまでにもいた。
日本にも美空ひばりや、坂本九など、昭和の時代まではいた。
1993年の音楽史、つまり平成の世に現れたMarshallという謎のアーティストは、紛れもなく伝説のスターたちと同じ毛色をした獅子王である。
ヒップホップ、日本語ラップという枠を越えて、彼の持つ音楽的表現と、摩訶不思議な歌詞は、決してキャッチーなものとはいえない。
ましてやJ-POP全盛期の音楽業界のなかでは、異端でしかなかった。
どこにも属さない孤高の存在感。
それも彼の魅力のひとつだった。
*
彼が、Marshallでいればいるほど、マサルは孤独だった。だからMarshallでいることが増えた。
Marshallというラッパー兼トラックメイカーの存在が、人々に求められていたからではない。
「まだまだこんなものじゃないんだ」
「お前らが好きなものを、俺が好むとは限らない」
それが彼の、B-BOY Marshallの渇望であり生きる糧だった。
その飢えに抗うには、食う暇も寝る暇も惜しむ。
ヒトであることよりも、優先したいものがあるから。
作り続け、探し続け、掘り続ける。その時間を捻出するためには、今野マサルという真人間では、無理だった。
この命を全て、楽曲作成に捧げる。
そして究極のアルバムを作る。
この先、どれだけ時代を経たとしても
燦然と輝く"金字塔"となるクラシックなアルバムを作る。
そのためには、チームを作る必要があった。
*
この俺が、作った最高のチームで究極の名盤を世に残す。荒唐無稽な最強のタクティクス。
他所のチームやクルーに負けないB-BOYイズムを兼ね備え、現場も本場も黙らせる最強のチーム。
そのためにはまず、優秀なDJが必要だ。
70'sのファンクやジャズに精通して、トラックとビートの編集にも知識がある。
欲を言えば、ピアノやベースを弾くことが出来る。
そして何よりスクラッチが上手いこと。
ブレイクビーツを、ブレイクビーツたらしめる、2枚使いをこよなく愛するヴァイナル中毒者。
(※ヴァイナル・・・レコード盤のことを指す。)
そんな野郎は、1993年現在の日本に、おそらくそうは居ない。
それだけじゃない。
俺よりライミング(押韻技法のこと)やフロウ(声色や歌い方)に個性があって、チームパフォーマンスを飛躍させるMCもいる。
将棋でいう、『桂馬』のような、意外性に富んだヤツが良い。
チームが路頭に迷ったとき、正攻法で立ち行かない場面の突破口を、見い出す可能性のあるヤツ。
俺が船長だとしたら、DJは船の操縦士で、桂馬みたいなそのMCがチームの華、船の帆。
あともう一人。真面目で、気の利くヤツがいてくれれば申し分ない。
そいつが各メンバーの調整役になって、物事がスムーズに動けるようになる。そいつは船を照らす灯台であり、皆の憩いとなる港。
俺みたいな我の強いヤツは、たまに周りが見えなくなる。そういう時の支えになるヤツが必要になるはずだ。
1DJ3MC編成。ライブもパーティもこなす、完全無欠の4WD。
当てがないわけじゃない。ただ、確約が取れていない。
アイツらを探すには、ニューヨークに行く必要がある。
あの都市の音楽性とクリエイティビティに、日本人のなかに流れる侘び寂びや武士道に対する純粋直感型の美学。
人間の内面や自然に対する描写をビジュアライズする能力と、裏付けとしての東洋哲学。
それらを併せる。
これは単なるアメリカの真似事じゃないってことをわからせる必要があるんだ。
そういう事情があり、1993年の紅白の出演を断った。
*
もちろん、レーベル会社からは「死んでも出ろ」と圧をかけられていた。
タイアップしていた企業とのCM契約はどうするのか迫られた。「お前の知名度は、もう商品なんだ」とも言われた。
「俺の売りは、そんな客寄せパンダみたいなもんじゃない。金はアンタら稼いだはずだ」
「もちろん俺も稼がせてもらったが、金はあくまでも手段。目的じゃない」
「それを理解してもらえないなら、俺はもうこのレーベルを抜ける」
「もし、今回の計画が上手くいけば、アンタらもっと稼げる。それがハッタリじゃない事ぐらい、わかるだろ」
「紅白なんて気にしなくても、もっとデカイ相手と仕事が出来るようになる。スポンサーも喜ぶぞ」
Marshallは、誰が何と言おうと一度やると決めたことは必ずやる男。
そして誰にも止められない。
まさに、Don't test the master。
汝、神を試す事なかれ。である。
紅白は、代わりにスチャグラップラーが出演し、いよいよお茶の間も「ラップ」、「ヒップホップ」と口にするようになった。(とは言っても、一過性のものだったが。)
年が変わり1994年。
Marshallは、ジョン・F・ケネディ空港の22番ゲートでタクシーを待っていた。
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