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月島を歩く

昭和初期の古い街並みが今も残る東京・月島。
ここ数年、高層マンションも建ち並び新旧それぞれの風景が広がります。
今回は私の好きな街のひとつ、月島を歩いて来ました。



月島の歴史

明治25年(1892年)、東京の海上交通の要衝だった隅田川下流にたまった土砂を取り除き、その土を埋め立てて出来たのが月島です。
東京湾に「月の岬」という観月名所があった事にちなんで、当時の東京市参事会の決議によって月島の地名が誕生しました。

埋め立て当時の月島は工業用地として倉庫や工場が多く作られましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で月島と周辺を結ぶ橋が被災し、大正15年(1926年)、震災復興事業の最初の橋として相生橋が完成するまでは孤立した時期もありました。
(参考資料:中央区ホームページ


今も戦前からの古い街並みが残る(撮影:筆者)

戦前の街並みが今も残る街

月島は戦時中、東京大空襲の被害をほとんど受けなかったため、現在も長屋など、戦前からの古い建物が残っています。
近年は再開発で高層マンションが建ち並ぶようになり、新旧の街の景色が混在するようになりました。

古い街並みの奥では今も再開発が続く(撮影:筆者)

月島といえば、もんじゃ焼き

月島と聞いて、もんじゃ焼きを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
現在、月島には60店以上もの、もんじゃ焼きのお店があり、メインの西仲通り商店街は通称「もんじゃストリート」とも呼ばれ、休日ともなれば、もんじゃ焼き目当ての多くの人達で賑わいます。
もんじゃ焼きとは、うすく溶いた小麦粉を土手にして、真ん中に汁を流し込んで焼いたものですが、現在のスタイルになったのは戦後の事。

江戸時代末期から明治にかけて筆や紙などの習字道具が手に入りにくかった頃、子供達が駄菓子屋でうすく伸ばして焼いた生地に、"へら"を使って字を書いては文字を覚えた事から「文字焼き」と呼ばれていました。
これが、もんじゃ焼きのルーツでもあります。
(参考資料:にっぽんの郷土料理観光辞典


もんじゃストリートの周りには高層マンションが建ち並ぶ(撮影:筆者)

まとめ

今も昭和初期からの建物が多く残る街、月島。
しかし、再開発は現在も続いており、高層マンションも増え続けています。
変貌を遂げる中、これからの月島はどんな街に変わるのでしょう。
懐かしい昭和の面影を少しでも長く残してほしいと願うばかりです。

変わりゆく月島周辺。佃島の夜景(撮影:筆者)


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