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自分ごととして考えるのは難しい

ぼくは、とある専門学校で教員として勤めているわけだが、職員室でこんな話題が上がるのです。
「登校時、学生が玄関のドアを開けっ放しにしている。開けたら閉める、を徹底させなければいけない。先生たちは、気づいたらしっかり指導しましょう。」
その日の昼休み、ぼくが職員室の台所の照明を点けて昼ごはんの準備(レンジでチン)をしていると、他の先生が台所に入ってきたので、レンチンが済んだぼくは台所から出た。あとから入ってきた先生は、照明を点けっぱなしで台所から出てきた。
この日だけじゃない。こんな感じで、照明が点いている台所に入ってきて、その後照明を消してから出てくる先生を、ぼくは見たことがない。っていうか、最近、意図的にそういう場面を作って観察しているんだけど、みんな点けっぱなしで出ていく。笑えるくらい。
そのことを先生たちに伝えると、きっとこう言うと思う、「いや、点いていたから。」と。
それ、学生も同じように言うと思うよ、「いや、開いていたから。」と。
学生は、きっと「後ろから別の学生が歩いてきているから、閉めるのは申し訳ない」と思って閉めないんだろうから、台所の照明を消さない先生の方がアレだと思う。アレ。

職員室で、「学生がゴミの分別をしていない。先生たちは、その点についても指導をしっかりと…。」
職員室のゴミ箱には、プラゴミ、紙ゴミ、カオスな状態だけど、分別の基準は職員室と教室では違うんだっけ?
職員室だけ産業廃棄物だったのか!?

こんな感じで、多くの大人は、自分ごととしてものごとを捉えるのが苦手で、子供や若者と比べても同じかもっとひどいか、のどちらかだ。

先日、娘の中学校の懇談会に参加したら、「進路選択は、なんとなくで選ばないように。将来、何がしたいか?を考えて、そして「自分で選ぶ」ということが大切ですから、お父さんやお母さんにもそのような進路選択ができるように、ご協力をお願いします。」みたいな話があり、やっぱり大人は自分ごととして考えるのが苦手なんだなぁ、と感じている。

例えば、これ。

https://www.city.sapporo.jp/kyoiku/top/career/documents/30_juten_9.pdf

札幌市のキャリア教育「進路探求学習」。

大切な視点が抜けていることに、札幌市は気づいているんだろうか。これを参照して進路探求学習を推進している先生たち、学校は気づいているんだろうか。

大切な視点、って何かっつうと…
ある仕事が成立するのは、仕事をする人がいるからじゃなくて、その仕事を必要とする人がいるから、っていうこと。上記リンク先にある進路探求学習の趣旨の中にも、「働く人を見る」という話はあっても、「その仕事を必要とする人を見る」っていう観点が全くない。

髪を切って欲しい人がいるから、理美容っていう仕事がある。
ご飯が食べたい人がいるから、飲食業がある。

もちろん、それまでになかったサービスを提示することで生まれるニーズもあるけど、その視点に偏ったキャリア教育は、結局優秀な消費者を育てる教育でしかない。そんな教育は、最終的には就職活動すら仕事で自分のニーズを満たそうとする消費行動の一つにしてしまう。だから、(当たり前だけど)仕事で自分のニーズを満たせることはめったに無いので、辞めがちになる。

学校の先生たちは、「勉強したい人や勉強せざるを得ない人がいる、または社会的なニーズが有るから先生っていう仕事が成立しているし、自分の雇用が保証されている」っていうことを忘れて、子どもたちに「何をしたいか考えて進路を選びなさい。さもなくば、後悔するぞ。」と言わんばかりの進路指導をしている。
教えたがりがいるから、子どもたちは勉強したくなっている、わけではない。因果を勘違いしていないか?
※先生と生徒の関係は、サービスを提供する側と顧客の関係ではないので、この喩えは不適切だけど。

どんなサービスを求める人がいるのか。
自分は、どんなニーズを満たせる能力があるのか。
そういうことを考えるとき、ネットで情報を調べたり道徳の教科書を読んでいても、自宅周辺の犬走りの砂利の中にダイヤの原石を見つけるようなもんだろう、つまり可能性が低すぎる、っていうことで。
可能性を高めるためには、機会を増やす以外に手はないと思うんだなぁ。

懇談会後、自分の子どもにはこんなふうに伝えた。
「きみの選択は、きみが選んだと思っているかも知れないが、残念だったな。きみが見たもの、会った人、経験したこと、聞こえてきた話、つまりきみをとりまくいろんな情報がきみに選ばせたものなんだ。きみに限らず、自分で選んだなんて思っちゃいけないんだ。まぁ、とりあえず、たくさん本を読んだり喫茶店で隣に座った人たちの会話に耳を傾けてみるか。」

「拝啓ジョンレノン ぼくもあなたも対して変わりはしない どんな人でも僕と大差はないのさ」と、真心ブラザーズは『拝啓ジョンレノン』の中で歌っている。
そういう気持ちを忘れずにいなければなぁ、と日々思っている。
ぼくもあいつも大して変わりはしない、はずだ。
ぼくが困っているんだったら、あいつも困っている、かもしれない。っていう視点。
ぼくがわからないなら、あいつもわからない、かもしれない。っていう視点。

「かもしれない」がポイントだと思うんだよなぁ。

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