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年森瑛『N/A』の読書メモ
第127回文學界新人賞受賞作、年森瑛さんの『N/A』を読んだので、感想&読書メモです。ネタバレが入ってしまうかもしれないので、まっさらな状態で読みたい方はご注意ください。
羨ましい羨ましい羨ましい
自分が小説を書きはじめてから(いやはじめる前からだったか)、完成度の高い作品には焦りをかんじてしまう。こんなにいい作品を読んだのに、自分のこんな気持ちのせいでもったいない。
…でも、羨ましいものは羨ましい。
とにかく人物の掘り下げ方がおそろしいほど徹底的だった。"主人公はこんな人物"という説明を、容易にさせてくれない迫力があった。
マイノリティー、女性性への違和感、ふとしたところで牙をむくナチュラルな偏見、過剰なまでの他人への配慮と自意識のアンバランスさといったものが、作品に含まれるテーマであるということはできるかもしれない。ここ最近SNSなどを中心に多くの人に拡散し、そして議論されつつあるテーマたちだ。けれどこの小説には、手垢のついたかんじなど一切なかった。
人間を立体的に高い解像度でとらえられることも、とらえた現象や対象を的確に小説のかたちにできることも、なにもかも羨ましい。
こんな風に書けるようにするには、私はあと何をどうやって積み重ねればよいのだろうと考えていたら、私はあっという間に乗り物酔いになった。
選評の中に、欠点のないところが欠点だという言葉があったけれど、まさにそのとおりだと思う。
無自覚な加害の恥ずかしさ
ちくちくと心に引っかかったのはいわゆる「無自覚な加害」をしてしまうシーン。こうしたシーンは一箇所ではなく、小さいものも大きいものもあって作品全体にちりばめられ、ところどころで心をえぐってくる。
そして、主人公を含め登場人物たちが、無意識に他者を傷つけたりしないよう、かなり気を遣って言動を取捨選択し、絶妙に距離を保ちながら生活している。それは親子でも、恋人や友達どうしても関係ない、みんながみんなに対して慎重に言葉を選んでいる。あたかも日常の風景と化してしまった様子だけれど、作品の描写として見ると改めて戦慄させられた。
だからといって他者に配慮することが不要だとは思わない。伝え方や言葉は選ぶべきだと思うし、相手が嫌なことはすべきではない。そのため、他者を知る努力をすべきだし、お互いがお互いを少しずつ思いやりながら生きていけるならそれにこしたことはないと思う。それでも私たちは無理解や無知から誰かを傷つけたり、差別したりしてしまう。そして、それに気付いてしまったときの恥ずかしさや後味の悪さといったら、今すぐ自分から半径10km圏内ぐらいの人たちの記憶を消去してしまいたいとさえ思う。
しかし、なぜ恥ずかしいと感じるのだろうか。恥ずかしいなどと感じる前に、嫌な思いをさせた相手を慮るべきじゃないのだろうか。相手のことを考えるよりも先に、「自分が恥ずかしい」と気持ちが自分に向いてしまうのはなぜなのか。
たしかに、ハラスメントをして開き直っているような奴に対しては「恥を知れよ」と思うことがあるけれど、誰かを傷つけたときに「どうしよう、めっちゃ恥ずかしい、どうしよう」などと思っている場合なのだろうか。
「かけがえのない他人」はどこに?
主人公は、この「かけがえのない他人」というのを探している。主人公にとっての「かけがえのない他人」とは、
重要度のヒエラルキーの中にはいない特別枠
だという。相手を独占したり嫉妬したりすることはない。恋人である必要もなく、友達や親友というのともまた異なる。ぐりとぐら、がまくんとかえるくん、のような「最強の友だち」に憧れていたのだという。
人によってはソウルメイトとか言ったりするのだろうか(ちょっと安易かな)。私だったら『ハッピー・マニア』とシゲタとふくちゃんを羨ましいと思う感覚に似ているんじゃないだろうか。
そんな都合のよい他人というのはこの世にいるわけがないと、最近ではもうすっかり諦めた気もするけれど、「かけがえのない他人」を求める気持ちというのは、油断するとむくむくと私の中に膨らんでいたりもする。
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