知人には言えない話 その3

母が亡くなり、通夜と葬式の日取りが決まる。
それを、友人たちに伝えた。
現役で大学卒業すると、社会人2年目が始まり、会社も年度が変わり1ヶ月。若い世代には特に忙しい時期だろう。今思えば悪かったと思うが、その時は自分から伝えないと失礼だという一心で連絡を入れていた。人伝に聞くのは申し訳ないと思ったのだ。
反応は人それぞれだったが、幼少期からの友人達はみな、言葉にならない様子であった。
俺のお母さんと言えば、暮らしていた地域では割と有名人。元来の世話好きで、学校から帰ると近所のおばさん達が必ず家にいたり、近所の子供達がよく遊びに来たり、毎日賑やかで、友人達も遊びに来ては、よくご飯をご馳走になっていた。お母さんを第二の母と思う友人も1人ではなかったはずだ。行われた葬式には父親の仕事の関係者も多かったが、一般の主婦に600人を超える参列者があったのだから並大抵の人徳ではない。お母さんは俺の自慢だ。だが、

「俺は家族じゃない」

もはや、自慢などする事は許さない。俺は家族ではないのだから。

友人達に連絡をいれ実家に戻ると、弟と妹がいてそこに父、家族と言って差し支えないほどの関係な近所のおばちゃんが2人いた。お母さんの葬式について話をする事になった。
基本的な事はスムーズに決まって行き、時間も掛からなかった。スケジュールに関しては問題ない。
ただ1つ問題なのは兄弟の誰が、お母さんへお別れの言葉を送るかというところであった。父以外は弟に読ませるべきだと。父は特に何も言わなかった。俺はこの時理解ができなかった。いや、長男失格だよと言われているようなものだと…この場にいる全員がそう思ってるのか?と…
俺は反発をした。何故だ?と

そんな俺に皆は言う。

この1年1番お母さんの面倒を見ていたのは弟だと。お前は外で自由にしてたじゃないかと。何ですぐに帰って来なかったのか?連絡した時にすぐ帰ってこなかった。と。
そして、あんたはお母さんに酷いことを言ったじゃないかと。お母さんの病気のせいで進学できなくなったって、あんな事言ったじゃないかと。

それは確かだ。その言葉は忘れもしない。自分の言ったことも、それを指摘されたことも。ボケてしまわない限り一生忘れることはないだろう。12年も経つのに何度でも後悔できる。

それでも、俺にだって主張はある。あらゆる言葉で俺が出来なかった事をならべ、やってしまった事をならべ、いかに俺が長男失格と烙印を押されていく事に衝撃を受けながらも、こちらにも思いがある。近くにいないことが抱える辛さもあるという事、分からない不安がどれだけ大きいかという事、あまりに一方的な言われように思わず感情的になりいろいろと言い返してしまった。今もだが、まだまだ自分をコントロールできていない半人前だ。

本来なら両親が成人するまで健在だった事だけでも世の中からすれば幸運でしかないのにも関わらず、より我儘に願ってしまう。俺が俺がと。
最後は父の一声で別れの言葉は俺に決まった。
少しホッするが、ここで、俺は確実に思い始める。

「俺は家族じゃない」

俺からすれば、働かず、学校に行っているわけでもなく、実家にいるのであれば動けなくなった両親を世話をするものではないのか。それが非常に献身的であった事は間違いはないのだろう。弟は昔から優しい子だったから。その行動に深い愛情があったことは想像に難くない。だから、感謝もする。よくやってもらったとも思う。だからと言って近くにおらず、父親からもお母さんからも帰ってこないで、しっかりと働きなとと言われれば、それはやるしかない。こちらの事情を分かってほしいとは、もはや思わないが、自分たちのやってきた事を並べ、俺のやってこなかった事を並べ、多勢に無勢で追いやられる気持ちはとてもいいものではなかった。俺はお母さんが癌と診断された時1人遠く離れた場所にいた。再発した時も1人遠くにいたんだ。お母さんが病気と戦った期間、そばにいられなかった。いさせてもらえなかったんだ。いないことが大事だったと信じてもいる。それを望んでたんだから。

ただ、今の自分を見れば、その望みも裏切っているのだから本当は何か言えたものではない。そして、その望みを裏切っているのだから、俺は俺を許すことはない。

その4へ(予定は未定)

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