人生雑感と、人格者について
今年も夏がやってきた。外の空気が室外機の前のような熱を持ち、体表に纏わりついてくる感覚からは、確実に生命力を奪ってやろうという気迫を感じる。静まり給え~~~。
とはいえ筆者は夏に対してはそこまで苦手意識がない。早起きし、あるいは夜遅くならば十分活動できるからだ。
最近はもっぱら朝起きて家事を済ませるのがルーティンである。
しかしこれが冬だとそうはいかず、やる気の出ない肉体に鞭を打ち行動しなければならない。筆者は行動することが非常に苦手である。
さらに、冬では自らの慢性的な不調が寒さによるものなのか、心身に問題があるのか、運動不足なのか等、原因が明確にならないのが困りものである。
さて、筆者の近況としては、まったく爽快感のない夏本番を迎えながら、尊敬できる数少ない人間が恋愛で大事故を起こしており、やはりこちらも夏バテのようなげんなり感を抱えている。
いや、恋愛で誤ることは誰しもある。それぐらいのことは頭では十分に理解しているし、相手は聡明な人間であるから、将来的には気づくだろうとも思っている。
そりゃあもちろん、人間万事塞翁が馬とは言うが、今現在、足を骨折している現状については嘆かせてほしい。私は貴重な友人を一人失っている状態なのだ。恋愛にうつつを抜かし人間関係のバランスを欠き、結果として信頼ができなくなっている状態に対して、一抹の寂しさを感じている。
さて、信頼とは、人が人としての生を歩んでいく中での土台である。
その事実は無論大半の人間が理解しているだろうが、その大半の人間は、不安にとらわれた人生を送っているために、安心と信頼をはき違えているのだと警鐘を鳴らしたい。
根拠を以下に示す。
まず大衆の間では、人畜無害な人間が良く評価されている。口は災いの下とはよく言ったもので、現代日本においてはほぼどの集団においても、自己主張を是とする人間は忌避される。
それ故、多くの人間は自分の本心に蓋をして、無害な人間、即ち意見を言わず、感情を出さず、従順であり続けることを是としている。
確かに人を不快にさせない礼儀作法は必要だろう。ただ、盲目的にそれを行うことが果たして自分の幸福に寄与するのだろうか。それは、ただ社会にとって都合のいい人間になって我慢しているだけではなかろうか。
それはただ、差し当たってストレスを与えない人間になっているに過ぎない。ストレスを与え合わない関係を、安心を求めていると指している。
そしてその類の人間は、本心に反したあたりさわりのない言動を無自覚に口にする。
少なくとも筆者の定義する信頼とは、自分の本心と言動が一致している人間である為、そのような人間を信頼することは不可能なのだ。
裏を返せば、安心を希求する人間は生存本能が高いともいえる。日本社会で出世する人間は臆病者ばかりだ。
では、人から信頼される人間になるためにはどうしたらよいのだろうか?
30歳を目前にして、人生経験から感じていることをここに纏めたいと思う。
ここでは多くの人の信頼を得ることができる人間を「人格者」と定義する。
そして段階別に特徴を記し、また具体的な言動から筆者がどこで人を判断しているかを書き綴りたい。なお、これは段階順に人格が発達していくという趣旨ではない。
全部で五段階とする。
第一に、人格が欠けている人間。これは他人に悪意をぶつける人間が最も想像しやすいだろうが、これに加えて、メタ認知能力がない人間全般を指したい。
ではなぜメタ認知ができないと人格が欠けているといえるのか。
客観的に、他人がメタ認知をできているかどうかを判断する簡単な指標として、「なぜその言動を行ったのか?」という問いに対して、ノータイムで答えられるかどうかという部分で判断している。
例えば、昼ご飯に食べるもの一つとっても、日々カロリーの管理を意識しているものであれば根拠がすぐ出るはずである。食事を摂る自分をメタ的に見ることができているからだ。
これと同様に、人に対して何かを発言するにしろ、日ごろから考えて発言している人間に、意図を問うとほぼ確実に即答される。
逆説的に、「なぜそれを言ったのか?」「なぜその行動をしたのか?」に即答できないようであれば、本能的に動いていることに他ならない。それは人格を欠いている所作である。
先述の信頼と安心をはき違えている話でいえば、正しく日々を不安に苛まれている人間である。
第二に、メタ認知があり、自分本位な人間。先述したような、大企業で出世するタイプの人間といえば想像しやすいだろうか。思慮分別を兼ね備え、言葉選びが適切で生存欲求が高く、上からも下からも非難されない立ち回りができる人間である。
自分のことを俯瞰して見ることが可能で、職責を全うする人間は基本的には非難されない。
しかし、政治が上手いだけの人間を誰も人格者とは思わないだろう。その人の自分本位な本質を皆薄々ながら感じ取っている。直観は往々にして真実を示すが、残念ながら評価という数字として表れるのは、この第一、第二段階の人々の意見が大半である。
この第二段階の人々は、第一段階の人々が求めている、安心という側面を叶えている人間なので、無条件に良しとされている。
しかしそれは、信頼される人、あるいは人格者ではない。
人口分布としては、ここまでで概ね85%を占めているという感覚である。
第三としては、特に葛藤せず他者に対して思いやりを持って生きている人間である。
これは非常にわかりやすいだろう。心優しい人間は無条件に善い。しかし筆者はこれを段階が低いと定義している。世の中の辛酸を舐めた人種には書かなくてもよくわかるだろうが、この段階の大半は家庭や友人に恵まれ、そうあれかしと願われて生きてきた人間なのだ。
ではこの第三段階だと何が問題なのか。インターネットで生きていれば説明不要だが、生まれついて善良な人間は、悪く言えば無自覚に他人を踏み躙る脳内お花畑な無神経である。
例えば、真剣に悩んでいる人間に「誰でもそんな時期はある、乗り越えれば成長できる」という人。有名大学に入学し、「努力して自分の力で受験合格できた」と思っている人。
本当に、人生で苦痛を背負ってきた人間は、自分の目の前に、今、苦しんでいたり、努力ができない人間に対して、先述のような言葉をかけたり、努力のできていない人間にそんなことを思うような真似は到底出来ない。
恵まれた人間は、その恵まれた母集団の中でしか自己を客観視できない。何故なら過酷な環境で生きていたり、人格者足らんと戒めている人々は、その発言から第三段階にいる人の視野の狭さを察し、信用しないからである。
信用されていない人間の本音は見えない。無神経であるということは、見えていない部分の世界が欠けているということだ。
改めて、人格者とは多くの人間から信頼される人であるという筆者の定義を提示しておきたい。
さて、視点を変えて、第三段階の人々から社会を見てみると、人工分布としては第二段階までで85%を占めており、第三段階は社会の上澄み15%の世界の中で生きている。
その人たちから見れば、人口の8割方の人間は親切で善良で努力ができ健康に生活が可能で、2割ぐらいが「何故か」意地悪な人、という認識だ。
そしてこの何故、に疑問を持たない。生きていくうえでは支障がないから。そう。この段階の人間は無自覚に人を見捨てている。思いやりはあれど世間ずれしており他者の痛みに対する想像力はない。自ら血にまみれた世界へ飛び込もうなどという酔狂な人間は早々いない。
思いやりを持って生きていくことに何ら具体性もなければ葛藤もない、そこに覚悟なく狭い世界で生きている人々は、一生ここから上に上がることはできないだろう。
では次に第四段階の説明に移る。これは信念を持って善く生きている人々である。一般に人格者を指したときにはここに該当するだろう。
無論、第三段階の人間でも後天的に苦労し、葛藤した末に自らの人生に課せられた責任を果たした人間はもちろんここにたどり着くことが可能だ。信念とは葛藤する経験を通じなければ自らの中に芽生えることはない。
一旦総括すると、信念を持つものはメタ的に自己を観察し、自分本位の考え方をせず、葛藤した結果、他者に対する想像力を持ち合わせている。
ではなぜ、この域に到達している人間を人格者と呼称するのかについて述べていく。
まず、この人格者に至るためには、精神的な研鑽と物質的な研鑽の両方を積むべきである。戦前は精神的な研鑽を修養、物質的な研鑽を教養と呼んでいた。多くの人間は精神修行ではなく物質的、即ち具体的な知識を身につけ、仕事で何かものを生産するという物質的な研鑽を行い、そして、中年期以降に困難にぶつかることにより精神が研磨されていく。よって、精神的の研鑽が行われている時には必然的に物質的な研鑽は終わっており、精神が完成されたときには双方が揃い人格者になっている、ということである。
しかし現代社会ではネットの発達により精神的な研鑽を積む機会が多く、また、本人の気質も要因として、精神的な研鑽が物質的な研鑽より先行してしまう場合がある。
そうすると精神を病んでしまう。残念ながら今日日働くときに人格など考慮されないからだ。あくまでも不利益を発生させる第一段階の人間が弾かれているだけで、その先に居る人間など誰も見ていない。葛藤し、心優しく、意思を強く持っているだけの人間は呼吸ができず窒息死する。
したがって、若き人格者は存在しない。20年30年生きた程度では、よほどのことがなければ両方を兼ね備えられるような人生経験を積むことは不可能だからだ。
故にここを私は頂点としていない。人格者となるには、ただ単に精神をスキルを研鑽し、信念を持っているだけでは不十分だからである。また、後述する最終段階はこの物質的な研鑽を終えていると仮定したうえで話を展開する。また、物質的な研鑽の段階についてはここでは割愛する。凡そ、スキルを身につけると理解してもらってよい。
本当は第四段階と次に示す最終段階の間に数段挟みたいところだが、需要がないだろうから割愛し、大きく括ろうと思う。便宜上、筆者は第四と最終の間に位置していると考えてほしい。筆者が到達している精神的な研鑽はほぼ最終段階で、物理的な研鑽が未発達である。
自分自身が真理に到達しているとは口が裂けても言えないが、あくまでも現時点ではその真理を眼前に捉えているという確信はある。(誤解でないことを願っている。)
では最終段階、即ち筆者の定義する人格者とは如何なるものか。
無論、精神・物質両方の研鑽を終えた人間となるが、ここでは精神面に関して仔細に述べたい。
そもそも人とは不安からの解放のため自己研鑽を行うものだ。では不安の根本はどこなのか?人々は一体何を恐れているのだろうか。
それを筆者は死であると考える。つまり、人格者とは死に対する恐怖を超越した人間である。
これは単に生きることを諦めた人間を指していない。終わりを理解したうえで、そこから逆算し生きることを覚悟した人である。
第四段階に該当する、所謂成功者を人格者足りえないと切って捨てている理由を理解して頂けただろうか。精神と物理の研鑽を済ませた人間の大半は自分に満足してしまう。
筆者から見れば、自分を認め、赦しているという表現が腑に落ちている。
これは本文中で最も声を大にして伝えたい部分なのだが、定年そこそこの人間が到達して満足できてしまうような人間の持つ信念の質は、お世辞にも良いとは言えない。そう、自分と自分の所属する組織が良ければいい、という程度の信念を持っている人間は、「こんなもんでいいや」、と自分をどこかで赦してしまっている。今日の自分と明日の自分が同じであるようなことが赦せるような人間を、果たして心の底から尊敬し、信頼することは可能だろうか?
筆者の定義する人格者の信念とは、必ず自ら死した先の未来に賭す何かをそこに見出している必要がある。物事を巨視的に見ることができ、行動できる人間は、決して自分を赦すことはない。命ある限り自らにできる最善を行いたいと思うはずである。
そしてそのレベルの信念を持ち合わせている人間は、命と真剣に向き合う経験をしたもののみである。
初めから正しく生きてきた人間は、こうした危機に晒されることが当然なくなるので、そのような経験を積むことはなかなか難しい。また、健康な人間も同様である。
なぜ多くの人間が年老いてから精神の研鑽が積まれるかというと、老化により死に近づくからである。逆説的に言えば生命力とは、無神経さの裏返しなのだ。
ではどうすればそのレベルの信念を持つことが可能になるのだろうか。
一つだけ、言えることがある。それは他者と自己をつぶさに見ながら赦し続けることである。
赦すのではなく、常に、当然に赦し続けること。そしてそれが悟りなのだと認知している。
悟りとは状態動詞である。心が凪のような状態で、ふうっと息を吐き、一時的に赦せる状態になることはできても、それが常にとなると難易度は計り知れない。
己の至らないところに目を向けると同時に、己を赦す。自己には矛盾を内包させる必要がある。
何故赦すという尺度を用いるのか。尊く、確固たる信念を持つに至るまでには、単なる苦労ではなく、自らの命そのものと長期間向き合わなければならないような艱難辛苦を経験しなければならないからだ。それを元手に信念という刀を拵え、その刀を世のため人のために振るい続けるようになるためには、地獄のような経験に正面から立ち向かい、消化し、糧にすることが必要である。
他者を赦すことの重要性が感覚的に理解できないのであれば、苦労が足りていないと断言する。人格研鑽という山の頂上に手を掛けんとする人間は、必ず同じ道を歩んでいる。だから、真の理と書いて真理なのだ。
真理に到達しているか否かの客観的な判断基準についてだが、先述した第四段階の、目標が低く単に自分に満足している人間と、真理に至っている人間との違いは言動だけでは判別が付きづらい。
しかし、覚悟が気配となって滲み出ている。研鑽が積まれていればいるほど、その人の気配は岩や大木のような、静かなものになっているが、感性が少しでもあるのであれば、その人生に刻まれた経験という名の年輪の量は、確かに感覚として捉えることができるだろう。
そしてそれに少しでも感化された人間に、この文章が人格研鑽の一助になれば幸いである。
タイトルの回収をよく忘れてしまうので最後に筆者個人の想いを記して結びとしたい。
差し当たって伝えたいこととしては、この文章はどこからも引用していない。つまり、一言一句すべて自己の経験に基づく洞察である。誰かの言葉に影響されて生きている人間とは、根本的に質が異なる。借り物の言葉を吐いている人間はすぐに判る。
私はここまで独力で到達して、そこから見える景色にどんな思いを馳せているかと問われると一口に伝えづらい。筆者にとって他者とは、絶望的なまでに遠く、そして、だからこそどんな痛みを伴おうが、その他者と共に在りたいと、誰よりも強く願っている。
「徳は孤ならず必ず隣あり」、という言葉がある。何一つ無かったはずの自分に、数少ないかもしれないが絶対的な信頼が寄せられている。恐らく、死期を悟った多くの人間が欲するものを、私は手にした状態で中年期以降を迎えることができることに、誇りに思う。
病床に地位や名誉は持っていけない。そして死ぬときは独りである。
私の今現在の目標は、私自身が死を恐れなくなるまでに研鑽を積み、そして、私に信頼を寄せる人間をも、私の死に動揺することなく、死して尚強く在れるよう、共に上へ目指していきたいと思わせるような人間になることである。
信念はまた別にあるが、長くなるのでここで筆を置きたい。
全ての人間が幸在らんことを願って。
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