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宇佐見りん 『かか』(河出文庫)

 これは、「うーちゃん」の信仰を巡る物語だ。
 19歳の浪人生である「うーちゃん」は、かつては神さまだと思っていた“かか”(母)への信仰が、まだ自分という存在を支えているのか分からなくなっている。
 “かか”は、夫(とと)に浮気をされた挙句に捨てられ、“ババ”(かかの母)からの愛情も受けられず、淋しさのあまり発狂する。優しかったかかは、やがて酒に逃げて周囲に当たり散らすようになり、精神を病んで入院してしまう。そんなかかを、うーちゃんはかつてのように好きになれず、自分の信仰を疑うようになる。
 かかは、退院して間もなく、腹痛を訴えた。検査したところお腹に腫瘍ができているのが分かった。かかは、手術して子宮を全摘出しなくてはならないことを「どこか勝ち誇ったように」家族に宣言した。それは悲しんでもらえる堂々たる理由を手に入れたからであり、白々しい泣き声で同情を誘おうとするかかにどれほどうーちゃんは絶望しただろう。
うーちゃんは「自分をしゃんと見極め」(p.19)(=かかへの信仰を確かめ)、「かかをにんしん」(p.19)(=信仰を回復)するために熊野へ旅立つ。それは、かかの子宮摘出の手術の前日であった。
 
 ところで、“信仰”とは何だろうか。“信仰”という言葉は、神様とか、自然とか、奇跡とか、人知が及ばないようなものを崇めるときに使う言葉であり、自分の母親に対しては通常使わない。
 確かに、幼少のころは、母親こそが世界のすべてであり、その存在の偉大さは神様のようなものかもしれない。しかし、19歳にもなって自分の母親に対して抱く感情を、“信仰”という言葉で表すのは何か容易ならざるものを感じるが、この点については、後ほど触れる。

 まず、家族構成について。うーちゃんは、かか、みっくん(弟。作中、うーちゃんは“おまい”と呼ぶ)、ジジ、ババ、明子(6歳上の従姉)の6人で横浜に住んでいる。
 従姉の明子は、かかの姉、夕子の娘である。ババはかかと夕子の二人の娘の内、夕子には愛情を注いだが、かかのことは「夕子のおまけ」として生んだと言って「愛情乞食」だと罵った。夕子は結婚して家を出たが、うーちゃんが小学校に入学した頃(明子が中学に入るぐらい?)に亡くなり、明子は横浜のうーちゃん一家に引き取られる(明子の父親は海外へ単身赴任)。ババは愛情を注いでいた夕子の「忘れ形見」である明子を一等可愛がった。後に認知症が進み、かかの事は忘れても、明子のことは名前で呼んでいた。
また、「ホロ」という雄犬を一匹飼っており、ととが家を出ていってから入れ替わるようにかかが連れてきた犬だ。
 家族のなかで「男」(あるいはオス)は、ホロとジジと“おまい”であるが、ホロについては、まるでととの代用品のように、かかの淋しさを埋めるために連れてこられ、マーキングをしても去勢されているために何の意味もなく、そんなホロをうーちゃんは「なんのために生きとるんだろうとかあいそうに思う」(p.49)と哀れんでいる。男性性の不能に対する哀れみは、「性的なものへの忌避」が根底にある屈折した感情ではなかろうか。
 ジジについては、作中ほとんど登場しない(セリフなどのシーンは一切ない)。意図的にと言っていいぐらいに、居ても居なくてもいい影の薄い存在となっている。それは、うーちゃんにとって祖父というのは性的なものとは無縁の存在だからだろう。
 “おまい”(弟、みっくん)については、あらゆることに無気力・無関心な様子が会話の端々に伺える。本作はうーちゃんの、弟に向けた信仰告白という構造になっているがために、うーちゃんの感情の比重が重くなり、その分、弟の存在感は希薄となっている。(弟が唯一感情的になるのは、かかがホロを捨てた時だけであり、その時に弟の人間性が一瞬垣間見えるが、それもすぐにかかへの怒り、明子やババへの憎しみといううーちゃんの感情にかき消される。因みに、ここでもジジへの感情は一切描かれない。)

 うーちゃん一家の男たち(犬も)にはいずれも「男」を意識させるものがない。うーちゃんが「男」を意識する時、それは、「男」を憎む時である。そこには「性的なもの」のイメージが常に付きまとう。そして、うーちゃんのイメージする「性的なもの」には暴力性が付きまとう。
 男=暴力的なものというのはあまりに短絡的だと思うが、これは、おそらくうーちゃんが父親に暴力を振るわれて育ったからだろう。熊野への旅行の途中、うーちゃんは記憶の中の原風景ともいえる走馬灯のようなものを見るが、そこでもやはりととに暴力を振るわれている。
 一緒に暮らし始めて数年すると、明子は何人も彼氏を作って家に呼ぶようになるが、その中でも「やまけんくん」という彼氏をうーちゃんは一番嫌っていた。それは彼が「性的なもの」だからである。やまけんくんが、小さな黄色いスリッパをサイズが違うのに強引に履くシーンがある。そのスリッパは、うーちゃんが小さい時にかかに買ってもらった大切なものだった。サイズ違いのスリッパに無理やり足をねじ込む様子は、暴力的なセックスシーンをうーちゃんに連想させる。ここでもやはり「男」は「性的なもの」であり、それは暴力性を帯びている。
 うーちゃんは、「性的なものへの忌避」と「かかへの信仰」=「女性性への崇拝」(子を身籠る神秘的な力への崇拝)という矛盾する性向を抱いており、実はこれはかなり危険なことだ。

「うーちゃんはもう宗教もオカルトも信じられんのよ。男と女がセックスしてなぜかいのちが生まれる、そいのことのほうがよっぽどオカルトに思えてしょおないんよ。性的なことをにくむ心持ちなんてものは思春期にはありふれた感情なんでしょうが、うーちゃんはいつまでもそいにばっかし固執してました、納得できんかった。あかぼうが母と出会うためには、なんでそいを介さないといけないんでしょうか。うーちゃんはどうして、かかの処女を奪ってしか、かかと出会うことができなかったんでしょうか。」

(宇佐見りん『かか』、河出文庫、2022年、p.107、太字は筆者)

 通常、性交をしないと子を身籠ることはできない。「かかへの信仰」は、処女懐胎という“奇跡”なくしては成立しえないきわめて危ういものだ。
論理的に考えれば、「女性性」は「性的なもの」なくしては成り立たない。「性的なもの」なく「女性性」を成り立たせようとすると論理の飛躍が起きなければならない。そこで“信仰”が必要になる。
 19歳にもなって自分の母親に対して抱く感情を“信仰”という言葉で表すというのは何か容易ならざるものを感じると前述したが、むしろ、19歳の大人が論理的に考えてしまわざるを得ないことを“信仰”によって跳び越える必要があったのだ。
 「性的なことをにくむ心持ちなんてものは思春期にはありふれた感情なんでしょうが、うーちゃんはいつまでもそいにばっかし固執してました」と、うーちゃん自身が言っているように、大体みんな大人になるにつれて、性的なものへの忌避はなくなり(当然個人差はある)、自然に母になっていく(女性性と性的なものの対立が解消され、母という存在へ止揚する)のだ。
 しかし、思春期をこじらせたうーちゃんの自我を支えているのは、奇跡にすがる“信仰”であり、これがパキッと折れたらたちまちに全てが崩壊してしまう危険なものである。
 うーちゃんがかかへの信仰を疑い始めるのは小学生の頃、ババからとととかかが付き合っていた頃の話を「聞かされて」からだ。とととかかが性交した末に自分は生まれたのだということを知る。だが、あくまで聞いて知っただけで、実際にかかが性交したところを見たわけではない。だから、信仰を「疑う」ことはあっても決して「捨てる」ことはない。うーちゃんは、信仰は一度捨ててしまったらもう二度と持つことはできないと考えている。だからこそ“信仰”にしがみつく。
 
 かかの「発狂」は徐々に進行する。ある日突然に虎になるとか、そういう類のものではなく、壊れた船底に海水が徐々に浸水してくるように、ゆっくりとかかの心を蝕んでいく。
 ととが浮気をして家を出ていったことは「発狂」のきっかけに過ぎない。根本的な原因はもっと以前、幼少の頃からババが姉の夕子ばかりを溺愛し、かかは「おまけとして」生まれたにすぎないと言われ続けてきたことにあるのだろう。かかは、人間には愛されることを「ゆるされた人間」と「ゆるされない人間」の二種類あり、自分は後者であると思い込んだに違いない。夕子と明子は「ゆるされた人間」である。かかは、「ゆるされない人間」の運命から逃れるべく、ととに愛情を求めたが、結局裏切られてしまう。やはり、ゆるされなかったのだ。その絶望が、発狂のトリガーになった。
 さらに悪いことは、ババと明子と同居していることである。ババは、夕子の「忘れ形見」である明子を溺愛する。幼少の頃姉の夕子ばかりが愛され、自分は愛情を受けることがゆるされなかった(と思い込んでいる)時代を再現するかのような生活は、ととに裏切られた年の夏から始まっている。愛情に飢えるかかの精神状態は徐々に悪化していく。
 かかの「発狂」はすなわちうーちゃんの「発狂」でもある。なぜなら、うーちゃんは「取り込んだ」相手の痛みや感情を、自分の事のように共有できるからだ。かかを取り込んだうーちゃんにとって、かかの苦しみはうーちゃんの苦しみでもあった。

「うーちゃんは相手をからだに取り込んだときにだけ、そいを自分として痛がることができるんです。身内のことだかん痛いのはとうぜんです。」
(同上、p.24)

「うーちゃんとかかとの境目は非常にあいまいで、常に肌を共有しているようなもんでした」(同上、p.41)

 かかの発狂により家は悲惨な状況となっており、酒の空き缶空き瓶が散乱し、家事もままならず、家族関係もずたずたの状態だった。
 「かか、もう、つらくて。結構、つらくて。ずうっとがまんしてた、もう限界、がまんできない、つらいよお、しにたいよう」(p.79)と言ったかかに、ババは「うるさいね」といって近所を気にするように居間の窓を閉めて寝室に行ってしまう。
 ババからかかへの愛は一切感じられず、かかは「あかぼうが怖い物を前に後ずさる時のよう」(p.80)に甘ったれた涙を引っ込め、息を詰まらせる。かかを身内として取り込んでいるうーちゃんも息を詰まらせる。もう限界だった。
 ならば、いっそのこと、壊してしまえ。
 それは、「完全に発狂させる」ことである。かかと「常に肌を共有しているようなもん」なうーちゃんには、その方法が手に取るように分かっただろう。だからうーちゃんはかかに、

「あいしとうよと言いました」

同上、p.101

 喉から手が出るほど欲していた言葉。何十年も目前に置かれながら、食べることをゆるされなかった言葉を突然与えられたかかは、咆哮をあげ、完全に発狂してしまった。
 さて、かかは完全に壊れてしまった。うーちゃんが壊してしまった。かかへの信仰は失われてしまったのか。確かめなければならない。かかの母なる力の象徴である子宮はもうじき失われる。神が死ぬ。今まで自分の存在を支えてきた信仰すべきものがなくなる。時間がない。
 かかに対して「心からの信仰」を持てなくなってしまったうーちゃんは、それを回復させるために、壊れてしまったかかを作り直すことにした。うーちゃん自身がかかになってかかを生まなければ救済の道はない。
 だから、うーちゃんは熊野のイザナミに会いに行くことにした。性交なんかしなくても、軽くくしゃみをするだけでその飛沫から多くの子を産み落とせるような偉大な力(女性性)を持った神様に会いに行く。その力に触れ、かかを「にんしん」して、自分自身を救済するために。
 
 熊野の那智大社には「熊野夫須美大神」という神が祀られており、これはイザナミのことである。夫須美(「ふすみ」)は「結び」を意味し、縁結びや万物の生成を司っている。熊野は和歌山県にあり、明子の母の夕子が死んだのも和歌山県である。夕子の死地が和歌山県というのは明らかに意図的である。それを証拠に、うーちゃんは、那智大滝を見て夕子の火葬場の煙を連想し、その煙が逆再生されているようだと言っている。夕子の亡骸が焼かれ、火葬場の煙突から空を舞った灰(浄化された魂)が、また逆再生され、那智大滝が破水して赤ん坊を生み落としているようだと、うーちゃんは捉えている。(滝の見た目が濡れた女性器を思わせるという話をどこかで聞いた覚えがあるが、滝にはどこか女性的なものを思わせるものがある。)
 愛されることをゆるされなかったかかを哀れに思ううーちゃんは、一身に愛情を注がれた夕子の魂を宿らせた上で、かかを生みなおそうとした。そんなうーちゃんの願いを成就するには、熊野はうってつけの場所だった。
 
 しかし、うーちゃんは、生理中に参拝している。生理中の神社への参拝は避けた方が良いとよく言われる。それは、「気枯れ(ケガレ)」を神社に持ち込んでしまうからだ。生理で血が出ると気が足りなくなり、その状態で鳥居をくぐるとケガレのない神聖な空間を汚してしまう。また、生理中に妊娠する可能性は極めて低く、参拝が失敗に終わることを暗示している。
 さらに、うーちゃんは、補陀洛山寺の千住観音像の指を見て自分の裂け目に入れたいと欲情したり、自分に男性器が生えてほしい、それを観音様の性器にこすりつけて胎の中に子種を植え付けたいと欲望してしまう。ここでは、かかを「孕みたい」という女性的な願いが、一時の欲情により「孕ませたい」という男性的な欲望にすり替わっている。うーちゃんの「性的なものへの忌避」が「性的なものへの欲望」へと反転し、「女性性への崇拝」を凌駕してしまっている。
 これらの行為は、神の怒りを買うことになるが、ここではまだ、神はうーちゃんを戒めようとするにとどめる。

「重ねた足の親指の上下をむずむずと入れ換えると、畳の毛糸が引っ掛かって引き攣るような感覚がして、その痛みはほとけさんからの戒めであるような気いしました。」

同上、p.115

 しかしこの後、うーちゃんは、神を本当に怒らせることになる。
  
 さて、うーちゃんは、「自分をしゃんと見極め」る(=かかへの信仰を確かめる)ために熊野旅行を計画したわけだが、実は、熊野への参拝中にかかへの信仰を捨ててしまっている。
 それは、SNSで「母が手術することになったが、助からないかもしれない」と嘘を呟いた時だ。実際には手術で命を落とす可能性はほぼないが、自分の嘘の言葉を心の中でなぞるうちに、それが本物の言葉で実現する力を持つ言葉だと強く感じるようになる。

「かかがいなくなった世界を想像して吐きそうになるんを感じました。」(同上、p.82)
 
「とりかえしのつかんことを言っている」(同上、p.83)

 うーちゃんにとって、「とりかえしのつかんこと」というのは、かかへの信仰を捨てることだ。「とりかえしのつかんことを言っている」というのはつまり、かかへの信仰を捨てるということだ。
 うーちゃんの存在を支えていたのは、かかへの信仰だったはずである。なぜ、うーちゃんは、「とりかえしのつかんこと」をしてしまったのか。
それは、明子への嫉妬が原因である。

「明子の目が強いのは自分がいっとう不幸だと信じているかんです。」
(同上、p.72)

「自分の境遇よりましだと周囲を一蹴してしまう明子の綺麗な一重の奥のひとみは、偶然にも今朝電車で見たあかぼうの、母親を信じる黒く冷やこいひとみとおんなじなんです。不幸を信じる目、さいわいを信じる目、何でもいい、とかく心からの信仰を持つ目をうーちゃんは羨み僻んでいるんでした。」(同上、p.72~73)

 心から信仰すべきものがある人間は強い。存在が強い。うーちゃんの“信仰”と、明子の“信仰”では強度が違う。うーちゃんの“信仰”は分かりにくくて屈折しているが、明子の“信仰”は明快で論理的だ。
 うーちゃんはそんな明子が妬ましい。うーちゃんやかかがまるで見えていないかのような明子の目が憎い。自分の信じる不幸以外は何も見えていないその目が憎い。
 うーちゃんは、明子が自分やかかを無視していると感じる時についかっとなり、「凶悪なもん」(p.52)が胸をよぎる(かかがホロを捨てた事件の時もそうだった)。その「凶悪なもん」が、うーちゃんの信仰を捨てさせた。熊野の聖域で、かかのことを「母が亡くなりました。」(p.125)とSNSで呟いた瞬間、言霊の力を感じていたうーちゃんは、ついに自分がかかを殺したのだと感じただろう。
 しかし、神は見抜いている。うーちゃんの胸によぎった凶悪なものを。明子への嫉妬という醜い感情で母親を殺そうとしたうーちゃんに、神は罰を下す。
 怒った神は、雷を落とす。閃光きらめくその瞬間、うーちゃんは願いが成就し、かかを身籠ったと錯覚した。同時に、かかが死んだことを確信した。弟からの着信が鳴る。
 弟から掛かってきた電話は、かかの手術が無事成功したことを告げるものだった。かかの子宮はきれいさっぱり摘出された。
 かみなり様がかかのおへそを奪った。それは、“信仰”によってかかとうーちゃんをつないでいたへその緒が、消滅したことを意味する。雷はうーちゃんの信仰を打ち砕いてしまった。

「かかは生きていました。ねえだけど、みっくん。うーちゃんたちを産んだ子宮は、もうどうにもない」

同上、p.136

 もはや、うーちゃんを産んだのはかかではない。産んだのはあくまで子宮であってそれはすでに破棄されている。
 「自分をしゃんと見極め」ることも、「かかをにんしん」することも全て失敗に終わった。信仰を失ったうーちゃんは、これからどう生きていくのだろうか。

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