伊藤計劃原作の漫画版ハーモニーの提示するディストピアの妙なリアリティを言葉にするやつ

あまりに多くのことを知り過ぎていて
  あまりに多くのことを憎み過ぎている
     わたしのイデオローグ

伊藤計劃、ハーモニー。おもしろかったんだよね。この記事でストーリーを追う気はないんだけどなんとなくあらすじも書いておこう。

戦争と未知のウィルスによる大混乱(大災禍と呼ばれる)を経験した人類は生命主義という価値観を生み出し、それが支持されるようになった。人の健康は何よりも優先され、先進国に暮らす人々はWatchMeと呼ばれるマイクロマシンによってリアルタイムで健康を管理されているという、そういう世界。安定しているように見えるその生命主義社会だが、ある日システムを根底から覆しかねない事件が起きる。世界同時多発自殺である。マイクロマシンWatchMeをハックしたテロリズムだった。そういうお話。

まずこのお話、キャラクターが魅力的。そして最初は少し極端でリアリティがないと感じたけど、細部をみていくと妙な説得力がある世界観がいい。ストーリーの開き方はまあ、謎を説くために細い糸をたどっていくタイプの王道展開。

だけどそういうエンターテイメント性は本題ではない気がする。この作品がぼくの心を掴んで放さないのは、この世界観から読み取れる政治的社会的哲学的問題の提起なんだよね。

ぼくは少し前にpixivファンボックスというところに旅行記を書いた。ぼくはバックパッカーというのをやっていたことがあって、ファンボックスではツアー旅行批判をした。(読んでね! https://blacksheep.fanbox.cc/posts/5442318

ツアー旅行というのは、だいたいの行先は決めるが、交通手段や宿泊するところ、実際に見て回る観光地などは旅行会社が決めてくれるという旅行コンテンツのことだ。ぼくはコイツが気に入らないし、おまえらのそれは旅行でないとまで言って批判してやる。

ツアー旅行のインチキ感がピンとこない人でも、アウトドアガチ勢は最近流行りのグランピングとかいうのをどう思っているだろうか? テントなど道具は貸し出してもらえて、ナラ炭に着火剤で火をつけ、自分で買ったわけでもない食材、すでに塩梅良くカットされている食材を網に並べるコンテンツ。それがグランピング。おまえらのそれはキャンプではないと言ってやりたくならないか?

ハーモニーの作品内では、御冷(みひえ)ミァハはお弁当について似たような違和感を口にしている。零下堂(れいかどう)キアンのお弁当がライフデザイナーのレシピ通りで、材料の発注から調理の仕方まで外注している、と。これ食材宅配サービスだよね。ナッシュとか日清の完全メシとか、オイシックスとか。最近流行りの……。

ミァハは食材宅配サービスを批判したわけではないが、これを「外注」とすこし嫌味っぽく表現している。この「外注」というワードは、物語の終盤でもう一度出てくる。そこではミァハは「システムが十分に成熟している社会」を「あらゆるものを外注に出している社会」と言い換えている。

システムが十分に成熟している社会では、人が生活していく上で必要な(生活のみならずレジャーでさえもだが)面倒な雑務を代行してくれるデバイスやサービスが存在する。文明の発展は外注の歴史でもある。みんなそれぞれ自分の家族のための狩猟採集生活を営んでいた我々の祖先は、共同体の規模を広げて、どんどん分業システムを深化させた。人の分の食糧をつくる人がいて、人の分の土木建築に従事する人がいて、自分たちで耕していた田畑も家畜が耕すようになり、蒸気機関、内燃機関に置き換えられていく。洗濯も機械がやってくれるようになり、手紙のやり取りは電報に置き換わり、固定電話に置き換わり、メールに置き換わり、ほぼリアルタイムでの通信が可能になる。

日々の買い物すら行かなくても商品を届けてもらえて、好んで料理するにしても献立を考える必要もない。

私たちは生活やレジャー、つまり人生そのものを外注に出してどうしたかったのだろう。恐らくそこに目的などなく、面倒な雑務から解放されたいという、それだけの動機でシステムを十分に成熟させてきたにすぎないのだと思う。

人生の外注によって増えた可処分時間を何に使うかというと、我々に馴染みのある自由主義社会ではそれこそ本当に自分の好きな事に使っていいのだ。自由主義ではどう生きようと自由だ。酒でも、詩でも、道徳でも、何でもおすきなもので。

生き方なんて無数にある。いや、正しい生き方、生きる目的なんて本当は存在しない。ハーモニーでは生物の進化を「場当たり的な適応のつぎはぎ」と喩える。場当たり的な適応のつぎはぎの結果である私たちに本来生きる目的などないし、ゆえに正しい生き方などない。しかし、人間は歴史の中で常に正しい生き方を設定する試みを続けてきた。それは多くの場合宗教によって規定され、19世紀に神が死んだあとは概ね人権主義が幅を利かせた。人権など誰かが勝手に――誰かが勝手にというのは啓蒙思想家らにいささか無礼かもしれないが――そう、人間が定義したに過ぎない。だけれども、人権はいまや絶対不可侵な自然の摂理のように扱われている。いわば人権絶対主義社会だ。こうなってしまった理由は、人が元来思い込みの激しい生き物で、権威の威を借るのが好きだからだろう。

現実世界にも自由主義とは異なる価値観に則って生活を送っている人たちがたくさんいる。多くはなんかの宗教に対して敬虔な人たちだが、私たちは大昔に書かれた聖典の示してくれる正しい生き方を「根拠がない」と言って軽視する傾向がある。牛肉を避ける生き方、豚肉を避ける生き方にどんな正当性があるのか。たしかに根拠がない。しかし自由主義の価値観だって自分たちでそう決めただけに過ぎない。

SNSを眺めていても、人々は「道徳的に考えて当然だろ」という論調で話したがっているように見える。普遍的な道徳がそこにあるかのように話したがる。子どもだって立ち寄るんだからコンビニでエロ本売っていいわけないでしょ。考えればわかるでしょ。どんな大義があろうとも人を殺していいわけないでしょ。人間が動物を殺して食べて良いわけないでしょ。考えればわかるでしょ。人前でタバコ吸っちゃだめでしょ。暴力的なゲームとか倫理的にダメでしょ。子どもを性の対象とした作品って、そんな考えを抱くだけで犯罪でしょう。

しかしそれは違う。人は自分たちでルールを決めているんだよ。「新生児を育てるか捨てるか生みの親が決めることができる」と設定することもできる。卵を二つ生み落として一羽しか育てないペンギンのように。野良犬を蹴っ飛ばしたって50年前はニュースにはならなかった。今は犬を蹴っ飛ばすなんて許されない空気があるし、犬を蹴っ飛ばした人を罰するかどうかは私たちが決めることができる。

この犬の例のように、長く生きていけば人間は経験として「ああ、価値観、社会通念は時代とともに少しずつ変化するんだ」と気が付くことが出てくる。逆に言えば、きっかけがないと私たちは自分たちの正義に感じている普遍性がただの思い込みに過ぎないということに気が付かない。そして、ハーモニーの世界では我々に馴染みの自由主義に変わって生命主義という価値観が幅を利かせている。人々はその価値観が当たり前の普遍的な道徳だと思い込んで暮らしている。

わたしたちに馴染みの深い自由主義では、不健康な楽しみに浸ることも個人の自由とされた。ところが生命主義では個人の自由よりも健康が優先される。タバコやお酒でさえ良くないものとされ、(明文化されてはいないものの)それらを嗜めば社会的評価を下げるため実質的に禁止されているようなものだ。精神衛生でさえそうだ。それが必要なタイミングをナノマシンが検知し、メンタルケアを受けることを促す。メンタルがダメになって甘い物を食べあさったり、深夜に車を飛ばしたり、酒やギャンブルに浸るなんてことは正しい生き方ではない。そういう人は社会的評価を落とすかもしれない。

これってそんなに違和感ないね。リアリティがある。なにしろ現代先進国ってそういうとこあるから。文化的な生き方って窮屈なところあるから。

それでも自由主義の価値観の中に身を置く私たちには自分の身を危険にさらす自由があり、そして実際に私たちはそういう楽しみを手放さずにいる。人間に安定した生活を与えても人間は満足しない。自由主義の価値観に生きる人間の精神には偶発、冒険、事故が必要なのだ。刺激が必要なのだ。でも自由主義の「自由」は結構理屈をつけて制限していくことが可能で、実際私たちは一方には表現の自由の大切さを語りながらもう一方では表現の自由を制限するようなことをしている。そしてそれが"自明"の道徳になっていく。

言ってしまえばこれ、つまりハーモニーのこの世界観はポリコレのなれの果てみたいなところあるんだ。そんなこと作品は言っていないんだけど、ぼくはついつい重ねてしまう。「他人の健康や他人の気持ちを害するようなことはやめましょう」。この思想は生命主義の萌芽ではないか。

ミァハは言う。「わたしはわたし自身の人生を生きたいの。思いやり、慈しむ空気、そんなのに絞め殺されるのを待つんじゃなくね」

人を思いやるためのマナー。それが道徳になり、法律のように機能していく。他人のお気持ちに際限なく配慮していったらどうなるの? ハーモニーにはその世界が描かれている。 

自由主義って自由が大事だからさ、個人は他人の自由を損なわないかぎり自分の好みを選ぶ余地がある。でも生命主義では自由意志よりも優先されるものが存在してしまっている。これはどういうことか。正解がそこに存在してしまうんだよね。

ここに御冷ミァハが"本物のハーモニー"を目指す動機を与えたトリレンマが生まれてしまう。一つ目が「システムが十分に成熟し、あらゆるものを外注に出している社会」。こういう社会では行為や生活の最適化を意識に依存する必要がない。二つ目が場当たり的な適応のつぎはぎの結果である私たちには生きる目的がないということ。そして三つ目は、にもかかわらずそこに正しい生き方が存在してしまっていること。

この三つが揃ってしまったとき、そこに暮らす人間には自分を律するという苦痛だけが残る。健康や共同体のために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまった世界。これこそがハーモニーを目指した作中世界が――、もしかするとわれわれの世界が背負っている宿命。

ハーモニーを目指した世界に本物のハーモニーを。生きるのがつらいなら意識をなくせばいい。どうせ正しい行動は決まっているのだから、人間から意識を取り上げればいい。それが御冷ミァハが到達した答えだった。

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