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「命の機微」第2話

「つくづく思いますけど、奈倉なぐらさんって、三十五歳には見えないですよね。すごく若々しい! 二十代でも通じますよ」

 男性は一定のステータスがなければ登録できない、という富裕層向けのマッチングサイトで知り合った茉莉香まりかと会うのは、これで三度目だった。容姿に自信がある女が多く登録していることでも有名なサイトだけあり、茉莉香も見惚れるほど整った顔をしていた。俺の妻になる資格は充分に持っている。

 前妻の紗羅さらの時に思い知った。遊びならいいが、結婚するならばやはり顔だけでなく知性もある程度は必要だ。

「医者ならどんなに偉そうに振る舞ってもいいと思ってるの?」

 一年前に別れた妻である紗羅が残していった捨て台詞だ。知能を疑う。医者は人の命を救っているのだ。偉くて当たり前だろう。

 そんなこともわからない女とうまくいくはずもなく、結婚生活は四年で幕を閉じた。もっと前から夫婦関係は冷めきっていたが、愛してやまない一人息子の栄斗えいとのために、しばらくは我慢した。幼児期に母親の存在は必要だろうという一心で。しかしその思いも限界を迎え、一年前に離婚した。

 もちろん、栄斗は俺が強引に引き取った。あんなバカな女に大事な栄斗を任せられるはずがない。俺の分身である栄斗は誰にも渡さない。栄斗のためなら命だって惜しくない。

 紗羅は顔とスタイルだけで選んでしまったが、茉莉香は顔もスタイルも良い上に、有名国立大を出ている才女で、今は一部上場企業に勤めている。この女ならば、経済力と将来性を併せ持つ俺に逆らったりするような愚かな真似はしないだろう。年齢も二十七歳と、若すぎず年増すぎずでちょうどいい。

「若く見える、ってのは誉め言葉なのかな。ガキっぽいとも受け取れるしな」

 少し意地悪く返してみたが、茉莉香はすぐに切り返す。

「とんでもないです。外科医は激務って聞くのに、忙しい中で若くいられるのは素晴らしいと思います。それだけ、見た目を維持するために努力なさってる証ですし。そんな意識の高さには尊敬しかないです」

 よくわかってるじゃないかこの女。男を立てるということを理解している可能性が高いな。六五〇〇円もするランチセットを頼んでやった時に、「いいんですか?」と尋ねてきたのも加点に値する。このイタリアンレストランで最も高いランチメニューだ。

 それもこれも、女独特の「結婚するまでは猫をかぶる」というやつかもしれないが、それすらできない奴よりはマシだから、まあ良しとしよう。

 あと四回か五回ほど会って、問題が見当たらないようなら結婚してやってもいいと思っている。

 俺の妻になれる条件は二つ。他を圧倒する美貌を持っていることと、かけがえのない息子である栄斗を俺と同じ熱量で愛せることだ。
 一つ目の条件はクリアしているから、あとは、栄斗と会わせた時にどういう態度を取るかにかかっている。

「ところでさ、次会う時は俺の一人息子に会ってくれるかな」

「四歳の栄斗君ですよね? もちろんです。会えるのを楽しみにしてるんですよ」

「そりゃよかった。母親になることを前提として、是非愛情を持って接してやってくれ。今は、家事代行業者の人間に任せっきりなもんでね」

「あ、家政婦さんですか?」

「まあ、そうだな。と言っても、男なんだけどね。家政『夫』ってやつだ。まだ三十歳なのに、家政夫として生きていくことを決めたそうだ」

「へぇ、若いのに珍しい人ですね。でも、なんでわざわざ家政夫にしたんですか。家事代行といえば、女性っていうイメージですけど」

「栄斗が、男の方がいいって言ったんだ。男なら一緒にキャッチボールができるから、だってさ」

「かわいい理由ですね。会えるのが楽しみで――」

 茉莉香は途中で言葉を止めた。俺のスマホが鳴っているのがわかったからだろう。

「出てもいいかい?」

「もちろんです」

「悪いね。じゃあ、食べながら待っててよ」

 そう告げた後、着信画面を見る。知らない番号だ。

「もしもし」

奈倉礼司なぐられいじ、さん?」

 電話口からは、正体を知られたくない人間がテレビで証言している時のような声が聞こえてきた。ボイスチェンジャーアプリを使っているようだ。

 突然の出来事に理解が追い付かず、返事ができなかった。

「答えてください。奈倉礼司さんの携帯電話ですよね」

 アプリで変換された声だからなのか、男とも女ともつかない中性的な声をしているが、おそらく男だろう。

「そう、ですけど。……何ですか?」やっとのことで絞り出した。

「いいですか、慌てたり大声を出したりはしないでください。落ち着いて聞いてくださいね」電話口の男が一旦間を取った後、淡々と続けた。「あなたの息子、奈倉栄斗君を誘拐しました」

「はっ?」

「大声を出さないでください」

「何を言ってるんだ。どういうことなんだ」

「ど、どうしたんですか?」

 一目でわかるほど狼狽していたのだろうか、茉莉香が心配そうに尋ねてきた。

「なんでもない。放っておいてくれ」席を立ち、早足で店外に出た。「説明しろ。栄斗を誘拐したってどういうことだ」

「言葉通りの意味です。あなたの息子である栄斗君は、僕が監禁しています」

 衝撃的な内容、そして男の無感情なトーンに、じわりと掌に汗がにじむ。

「う、嘘をつくな。栄斗は、家政夫と一緒に過ごしているはずだ」

 今は昼の一時過ぎ。この時間帯は、家政夫の金森佑かなもりたすくが栄斗を連れて近所の公園で遊ぶのが日課になっていた。

「信じないんですか。じゃあ、喋らせてあげます」

 ほどなく、パパ、という声が聞こえた。ボイスチェンジャーの機能は解除されていた。間違いなく栄斗の声だった。

「栄斗!」

「どうしたのパパ」まるで何事もなかったような落ち着いた声だった。

「どうしたの、じゃないだろ。今どこにいるんだ」

「んー? わかんないけど、ふつうのへやだよ」

「え、栄斗……」

 俺の脳内で立て続けに浮かぶ数々の質問たちが、我先われさきに言葉になろうとすることで、逆に詰まってしまい出てこない。

 先ほどまで食べていた渡り蟹のクリームパスタが、胃の中から逆流してくるのがわかる。恐怖と緊張と不安から、油断すればすぐにでも吐いてしまいそうだ。

「これでわかりましたよね」

 まず何から尋ねようか思案していると、再びボイスチェンジャーによるくぐもった声が聞こえてきた。

「おい、もう少し喋らせてくれ」

「駄目です。もう時間切れです」

「時間切れって……まだほんのちょっとしか喋ってないぞ。いいから電話を代われ」

「立場を弁えてください」男の口調にやや尖りが加わった。「人質をどうするか、こちらの腹一つなんですよ」

 そうだった。こいつは、栄斗をどこかの部屋に監禁している。機嫌を損ねればどうなるかわからないのだ。これ以上食い下がることをやめ、話を進めることにした。

「俺は、どうすれば、いい」疲れてもいないのに、息も絶え絶えにしか言葉を出せない。

 電話口の男が淡々と言う。「理解が早くて助かります。大事な人質を取り返すには、あなたがひと肌脱がなきゃならないってことはわかってくれたようですね」

 黙って続きを待つ。相槌すら打つ気になれない。

 男が話を継ぐ。「今日の夜九時に、千葉の木更津にある『高浜グランドホテル』という場所に行ってください」

「木更津だって?」

「そうです。あなたの住んでる船橋の家からなら、高速を使えば車で一時間もかかりません。ちなみに高浜グランドホテルは廃墟になってるので、到着したら勝手に入口を通過して、そのまま三〇五号室に行ってください。そこに若い女性がいるので、その女性を監視してください」

「ちょっと待て。廃墟だと? なんでそんなところに俺が行かなきゃいけないんだ。それに、女を監視するってどういうことだ」

「いいから、黙って従ってください。その先のことは、あなたが廃墟ホテルに到着してから伝えます。――あと、わかってるとは思いますが、警察には言わないでください。もしこの約束事を破ったら、人質である奈倉栄斗君の身の安全は保障しません。黙ってこちらの指示に忠実に従ってくれれば、人質は必ず無事に返します」

「わ、わかった。警察には絶対に行かないし、あんたの言うことには全面的に従う。だから、栄斗には何があろうと手を出さないでくれ」

「そこは安心してください。あなたが約束を破らなければ心配無用です。それでは」

 電話はすぐに切れた。

 俺としてはまだまだ聞きたいことがあったし、奴の言うことをどこまで信用できるか謎だという思いもある。従順になったところで、奴が約束を守るとは限らない。

 納得できないことだらけだが、今はそんなことよりも真っ先にやるべきことがあった。

 手にしているスマホを操作し、ある男へ電話をかける。家政夫である金森佑だ。

 五回ほどコール音が鳴ったところで、金森は電話に出た。「もしもし」

「もしもし、金森君か。栄斗は? 栄斗はどこにいる?」

「あの……今ちょうど奈倉さんに電話しようと思ってたところで」

「どういうことだ」

 いや、あの、とモゴモゴ何かを言っているが、要領を得ない。

 苛立ちが頂点に達した。「栄斗はどこにいるんだ! さっさと答えろ!」

 うっ……という呻き声をあげた後、金森は静かに喋り出した。

「申し訳ありません。栄斗君、さっきから、ちょっと、見当たらなくて」

「どういうことだっ! ふざけるなよお前っ!」

「す、済みません……。栄斗君を公園で遊ばせていた時に、若い男性から道を尋ねられまして。その、ちょっと目を離した隙に栄斗君がいなくなっていて……」

 ということは、相手は複数犯なのか。金森の注意を引く役と、栄斗を誘拐する役。もしかしたら、もっといるのかもしれない。大体、なぜ栄斗が狙われた。目的はなんなのだ。

 金森を怒鳴りつけたい衝動を抑えながら、まずは状況把握に徹することにした。

「栄斗がいなくなったのはいつ頃だ」

「いえ……その……」

「いいから言え」

「あ、はい……。一時間くらい前です」

「なんだと? なんでもっと早く連絡してこない」

 金森は逡巡の後、ぼそりと呟いた。「奈倉さんに怒られるのが恐ろしくて」

「え……?」

「奈倉さんは、栄斗君以外の人間に対しては何かにつけて怒鳴り散らすので、それが怖かったんです。ちょっとしたミスでも異常なまでの怒りようなのに、栄斗君が迷子で見つからないなんて知られたらどうなるかわからないと思って、なかなか報告することができなくて、今まで必死に栄斗君を探していました」

 思わず舌打ちが出る。金森を徹底的になじってやりたくなるが、今はそんなことをしている場合ではないと気持ちを抑え、必要な確認を行う。

「警察にはまだ言ってないよな」

「はい。警察に行けば奈倉さんにばれてしまうと思って……」

「よし、それでいい。今後も、絶対に警察には言うな。あとは俺が対応する」

「え?」

「いいから。お前はもう何もするな。家に帰れ。明日はうちに来なくていいから」

「そ、そうですか……」

「警察だけでなく、このことは誰にも言うんじゃないぞ。わかったな」

「わかりました」

 電話を切り、すぐに茉莉香のもとへ向かう。

「ど、どうしたんですか? 真っ青な顔してますよ」

 食事が進んでいる様子がない。心配で喉を通らなかったのだろうか。

「大丈夫だよ。何でもない。――悪いけど、急用ができたからすぐに行かなきゃならないんだ。会計は、これで払っておいてくれるかな」

 テーブルの上に一万円札を二枚置いた。

「ちょっと、どうしたんですか」

 茉莉香の問いかけに応じている余裕などなく、踵を返して真っすぐ店の出口を目指した。

***

 船橋の自宅に到着したのは、午後二時過ぎだった。無意味を承知で家中を探したが、やはり栄斗はいない。

 近所を捜索したり、俺に恨みや妬みを持つ者を洗い出したりしているうちにあっという間に時は過ぎ、いつの間にか陽が落ちていた。

 出世のために手段を選ばず、違法すれすれなこともやって周囲の人間を陥れてきたことから、俺を恨んだり妬んだりしていそうな人間については、心当たりがありすぎて絞ることができなかった。

***

 指定された高浜グランドホテルには、午後八時半前に到着した。聞いていた通り廃墟となっており、栄斗の命が懸かっていなければ足を踏み入れる気など絶対に起こらないようなおどろおどろしい外観だった。

 指定された時刻は午後九時。まだ早いと思い、廃墟周辺を見て回りながらしばらく時間を潰した。

 午後八時五十分。すくむ足に気合を入れるため、「行くしかないんだ」とあえて言葉にしてから廃墟内へ突入した。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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