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「命の機微」第8話(最終話)

「栄斗っ!」

 如月病院での当直を終えた後、犯人から送られてきたショートメッセージに記されていた公園に急いで向かうと、本当に栄斗がいた。ベンチに座って、呑気にハーゲンダッツのアイスクリームを食べている。

 報われた。なぜかそう思い、一連の仕掛けを行った犯人たちに感謝すらしそうになってしまった。


 赤川健次郎は、予定通り死亡した。早朝の引継ぎが終わった後、如月病院の医師たちと廊下を歩いていると、看護師たちが騒いでいた。赤川の病室だった。

 そのまま如月病院の連中とともに死因について考察しながら、「球麻痺きゅうまひによる窒息ではないか」という方向へ誘導した。ALSの症状が進んでいる患者の突然死に多い現象だ。球麻痺とは、延髄から発せられる運動性脳神経を司る筋が麻痺を起こし、口や舌や喉に運動障害が起こることだ。その結果、窒息を起こして突然死するという例は珍しくない。

 俺の考察はすんなりと受け入れられ、それが如月病院全体の公式見解となるまでにはそう時間はかからなかった。

 話し合っている時に、坂下医師も見かけた。坂下真由の父親だ。白い髭を蓄えた温厚そうな男だった。本来ならこいつがやるべきことだったのに、という怒りが芽生えそうになったが、この男が悪いわけではないし、そもそもが既に終わったことなのだという事実が俺をたしなめた。


「大丈夫だったか?」

 ベンチに座っている栄斗に駆け寄って膝をつき、顔や手足に傷などがないか確認した。どこにも異常はなかった。

「うん、だいじょうぶだよ。なんで?」

 俺の顔を見た途端に安心して泣き出すかと思ったが、意外に平然としていた。人質として過ごした二晩の間、大切に扱われていたという証拠だろう。誘拐されたという自覚すらなさそうだ。

 念のため確認する。「叩かれたりしなかったか」

「そんなことされてないよ。ふたりともすごくやさしかったし、おかしもたくさんくれた」

 思わず安堵のため息が漏れる。犯人は二人組だったのか。それとも、栄斗の監視役が二人だったというだけなのか。そんな疑問が頭をよぎったが、目の前に栄斗がいるという現実を前に、そんな疑問は瞬時に立ち消えた。

 栄斗の頭を撫でながら質問を続けた。「どうやって連れていかれたんだ」

「ママのともだちだっていうひとがきてね、ちょっときて、っていわれたの」

「ママの友達?」

「うん」

「女の人?」

「そうだよ。おへやについてからは、おとこのひとがずっとあそんでてくれたんだ。そのひともママのともだちなんだって」

 誘拐犯たちを紗羅の友達だと思いこんでいたから、こんなに平気でいられたのか。不幸中の幸いだった。栄斗の心に傷がつかなくてよかった。

 それにしても、一体どういうことなのだ。犯人グループの中に女がいて、紗羅の友達を騙っただけなのか? それとも……もしかしたら、今回の件は紗羅が仕掛けたのか……? だとしたら、どういう理由で……?

「パパ、おうちかえろう」

「ん? あ、ああ。そうだな! よし、何か食べて帰ろうか! 何がいい? 何でも好きなもの食べていいんだよ」

「やったー!」

 もう終わったんだ。ああだこうだと考えるのはやめよう。栄斗のこの笑顔があるならもう何も言うことはない。

 俺には事件を究明することなどできない。そんなことをすれば、おのずと殺人の一件も露呈することになる。それに、人質の女を丸坊主にし、顔に傷までつけたことも。俺自身、もはや犯罪者なのだ。

 坂下真由の言う通り、俺に緊急避難は適用されないだろう。我が子を救うためなら無関係の第三者を殺しても構わない、などという理屈が通らないことなど、冷静になった今ならよく理解できる。情状酌量はあるかもしれないが、犯した罪の重さを考えると実刑は避けられないはずだ。

 俺が刑務所に入るようなことになったら、栄斗はどうなる? 紗羅になど任せられないし、俺の両親はすでに他界している。大して付き合いもない、顔も忘れたような親戚に預けるぐらいしか方法がなくなる。

 それに、栄斗が殺人犯の息子だと周囲に認知されることになってしまう。それだけは絶対に避けたい。

 結局俺には、今回の一件についてはすべて忘れるという選択肢しか存在しないのだ。そう自分に言い聞かせ、栄斗とともに歩き出した。

***

 新宿駅から歩いて八分ほどの場所にある居酒屋の個室で、僕はある人を待っていた。待ち人は、一か月前に「赤川健次郎殺害の指示役をやってほしい」と頼んできた、あの計画の立案者だ。もしあの出来事が明るみに出れば、主犯ということになる。

 依頼を受けてから三週間後、計画は本当に実行された。もう、あれから一週間も経ったのか。時の流れは本当に早い。

 まだ夕方六時を過ぎたばかりということもあり、店内は空いていた。おかげですんなり個室に入れた。

 所在なげにメニューをいじっていると、ガラリと個室の扉が開いた。

「待った?」

「いや、僕も今来たところだよ」

 走ってきたのか、息を整えながら言う。「一週間も空いちゃってごめんね。いろいろやることがあってさ」

 まだ慣れないであろう黒髪のウィッグと、あごの下にある生々しい傷跡とを交互に触りながら、僕の姉、赤川春香はるかがにこやかにそう言った。


「まだ二十歳になったばっかりのあんたにこんなこと頼んで、悪かったと思ってる。本当にごめんね」

 届いたばかりのレモンサワーを一口飲んだ後、姉ちゃんは伏し目がちに言葉をこぼした。

 目の前にある生ビールをごくごくと喉に流し込んでから答える。「全然いいよ。別々に暮らしてたとはいえ、僕にとっても父さんであることには変わらないんだからさ。家族として協力できることがあるなら、やるのは当たり前だよ。それより、姉ちゃんこそ大丈夫?」

「私は平気よ。自分で立てた計画だから、全部覚悟してたわけだし」

 相好を崩しながら、軽妙な口ぶりで言った。強がっているようには見えない。本心からの言葉に思えた。

「……あのさ、姉ちゃん。父さんが死んだ後、担当医だったっていう坂下先生には会ったの?」
「少しだけね。でも、娘さんの名前を勝手に拝借したっていうのが引っ掛かって、ちゃんと喋れなかった。ご迷惑をおかけすることはないと思うけど、やっぱり、ちょっとね」

 僕の姉である赤川春香が、坂下先生の娘である坂下真由を演じ、外科医の奈倉礼司を利用して、父さんである赤川健次郎を安楽死させる。この計画を打ち明けられた時は、耳を疑った。

 僕が六歳の時に両親が離婚し、母さんは僕を、父さんは姉ちゃんを引き取り、それ以降はずっと別々に暮らしていた。姉弟は引き離したくない、という両親の意向で、父さんと姉ちゃんはわりと近所に住んでいたため、別居後も姉ちゃんとはよく会っていた。だけど、父さんと会うのは母さんに悪い気がしたので、一切会っていなかった。

 父さんがALSを患ったと聞いたのは二年前。助からない病気だと知って少しだけ悲しかったけれど、記憶から消えかかっていた人だったので、そこまで落ち込みはしなかった。なんだか気まずくて、見舞いにすら行かなかった。

 でも、ずっと父さんと二人で暮らし、苦楽を共にしてきた姉ちゃんは違う。発覚当時の憔悴ぶりは見ていられなかった。仕事を続けるのも厳しい精神状態となり、医療事務として勤めていた病院も辞めてしまったほどだ。

 ALSは、急速に進行するタイプとゆっくり進行するタイプに分かれるらしい。父さんは不幸にも急速に進行するタイプのALSだったからか、一年前からは、姉ちゃんに向かって毎日のように「安楽死したい」と言い続けていたようだった。安楽死が合法の国へ行って安らかに死にたい、それが最後の願いだ。これがここ一年の父さんの口癖だと姉ちゃんは言っていた。

 とはいえ、外国人の安楽死を認めているのは現在スイスのみ。そのスイスで安楽死を行う場合、渡航などすべてを含めると数百万円の費用が必要であり、父さんと姉ちゃんでは到底用意できる金額ではなかった。

 父さんの最後の願いを叶えるため、姉ちゃんが「借金してでも自分がお金を用意する」と申し出たところ、父さんから拒絶されたようだ。本来なら何かを残してやるのが親の役目なのに、負債を背負わせるなど冗談ではない、と。

 どうしていいかわからず絶望していた姉ちゃんを、僕は頻繁に慰めたり励ましたりしていた。

 そんな行為も少しは力になったのか、姉ちゃんは徐々に元気を取り戻し、半年ほど前からはアパレルショップで働き出した。そこで出会った紗羅さんと意気投合し、元夫である奈倉礼司の愚痴を聞かされ続けているうちに、そんなクズ医者なら利用したところで心は痛まないと考え、今回の計画を練るに至ったようだ。

「それにしてもさ、僕が家政夫の金森の気を引いてたとはいえ、よくすんなりと栄斗君を連れてこれたね」

「うん。紗羅と一緒に写ってる写真を見せたから、すぐに信用してくれたんだ。この前二人で撮った写真。紗羅は、まさか栄斗君の誘拐に使われるとは思わなかっただろうけど」

「奈倉礼司の元奥さん、だよね。去年友達になったっていう」

「そう。でも、栄斗君の誘拐に紗羅を利用したんだから、もう二度と会えないけどね。今回の件、紗羅は何も知らないから、いきなり私が音信不通になって驚くと思うけど」

「だけどさ、誘拐したっていっても、栄斗君は大事にしたし、何不自由なく過ごせるようにしたじゃん。公園で解放する時も、『また遊んでね』なんて言われちゃったし」

「それでも、二日間も親から引き離したっていう罪は消えないよ。栄斗君には申し訳なさしかない。奈倉礼司の人間性の悪さは紗羅から聞いてたから、あいつに対しては特に何も思わないけど」さばさばと言い放ち、レモンサワーを呷った。

「じゃあさ」かねてからの疑問をぶつけることにした。「そんな男のために、なんでわざわざ坊主にされたり、顔を切られたりしたんだよ。奈倉から送られてきた画像を見た時、ああいう画像が来るとわかっていながらも腹が立って仕方なかったよ。姉ちゃんの髪と顔を切るだなんて。『人を殺したという罪を奈倉に背負わせるから、自分は罰を背負う』なんて言ってたけど、あんな奴相手にそこまで気遣う必要なんてなかったじゃん。栄斗君を誘拐してから奈倉を脅すだけで、父さんの安楽死は実現したはずだろ」

「それじゃ駄目なのよ」

「なんで? 何が駄目なの?」

「奈倉に同情する気なんてまったくない。一応引き返すチャンスを与えるために、わざわざ緊急避難が成立しにくいことまで説明して人の命の重さを説いたのに、それでも迷わず私を傷つけ、お父さんの殺害も実行した。いくら子供のためとはいえ、ね。そんな男に対して思いやる必要なんてないと思ってる」

「でしょ? だったら――」

「これはね、自分自身への落とし前なの」黒髪のウィッグとあごの下の傷跡を順番に触った。「いくら奈倉の人間性に問題があろうと、犯罪に巻き込んでいい理由にはならない。だから、自分自身を許すために、奈倉の手によって傷つけられるっていう私なりの贖罪が必要だったの。それを不自然なく実行するには、今回の方法がベストだと判断したのよ」

 言わんとしていることは、なんとなくわかった。例えるならば、正当防衛であろうと、相手に重傷を負わせて半身不随にしてしまったような時の心境だろうか。正当防衛が認められるくらい相手に圧倒的な非があるわけだから、そんなひどい相手に対して同情など一切ないが、自らの手で人一人を半身不随にしてしまったという事実と忌まわしさだけは残る。そういったものを払拭するための儀式が必要だったのかもしれない。

 一応の納得がいったところで、一つ不安に思っていることを確認してみる。

「わかったよ。姉ちゃんがそうしたかったんなら、それでいいよ。――でさ、ちょっとだけ気になってるんだけど、栄斗君を誘拐した時とか返す時とか、どこかの監視カメラに絶対映ってるよね。今はあちこちに監視カメラがあるっていうじゃん。もし奈倉が今回の件を暴こうとして警察に行ったら、まずいんじゃないかな」

 姉ちゃんが即答する。「それは心配ないよ。彼は絶対に警察へは行かない。そのためにも、緊急避難の説明をしたんだから。もし警察に行けば自分も逮捕されるし、脅されたとはいえ殺人を実行したんだから実刑は免れないとわかってるはずよ。あれだけ大事に思ってる栄斗君を残して刑務所に入るなんていうことはありえないわ」

 やたらと説得力があった。確かに、あの利己的な奈倉が、自己犠牲も顧みずに警察へ行くとは到底思えない。

「そもそもの問題は、国として安楽死を認めない、なんていう傲慢さなのよ。日本も、はやく認めるべきなのに。そうすれば私だって、こんなことする必要はなかった」

 奈倉が警察へ走ることのない安堵感に浸っていると、不意に姉ちゃんが口調を尖らせた。

 飲みかけた生ビールのジョッキを置く。「どうしたの急に?」

「あんたも思わない? 続々と安楽死を認める国が出てきてるのに、日本じゃ安楽死について議論することさえタブー視されてるのよ」
 そのあたりの知識がまったくない僕にとっては、曖昧に、そうなんだ、と言うしかなかった。

「そうよ。今は、スイスはもちろんだけど、カナダ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、コロンビアの五か国に加えて、二〇二一年にはスペインとニュージランドでも安楽死ができるようになったんだから。アメリカとオーストラリアでも、州によっては合法だし。安楽死を認める流れは、世界の潮流なのよ。日本でも、少なくとも議論くらいはもっと活発にされるべきだと思う。助かる見込みがなくて、ただただ死の恐怖に怯えながら苦しんでた肉親を間近で見続けてきた私からすると、安楽死は認められて当然の権利だと思う」

 正直、今の僕に姉ちゃんの気持ちを完璧に理解するのは難しい。身近にそういう人間がいなかったことに起因するのか、僕が安易に死を選ぶことに違和感を覚える性質なのかはわからないが、とにかく姉ちゃんの意見を全面的に受け入れることはできなかった。

 でも、ぶつかるようなことは言いたくなかったので、曖昧な同調でお茶を濁すことにした。

「当事者だった姉ちゃんと父さんがそう考えてたなら、それが正しいのかもね」

 姉ちゃんは、声のボリュームを一つ上げた。「かもね、じゃなくて、絶対にそうなの。安楽死の自由を奪って、苦しみながら生き永らえることを強要するって何様のつもりなの? そんなことが許されていいはずがない」

 気迫に押され、ただ黙って首肯することしかできなかった。

 溜飲が下がったのか、再び落ち着いた口調で姉ちゃんがしみじみ言う。

「それにしても、無事成功して本当によかった。それに、お父さんは死の恐怖に怯えることもなく安楽死することができたわけでしょ。安楽死の唯一の難点は、死期がわかってしまうことだけど、それすらも取り除けたと思うと、私は究極の安楽死を実現できたってことじゃない。今までなんにもしてあげられなかったけど、最後に最大の親孝行ができたと思ってるんだ」

 姉ちゃんは、恍惚とした表情で宙を見やっている。

 でも、父さんの本音はどうだったのだろう。死を目前にした時、本当に死ぬんだとわかった時、意識があれば、もしかしたら希死念慮が覆ったのかもしれない。

 姉ちゃんにはとても言えないけど、僕は安楽死に対して手放しに賛成はできない。命は、捨てることはいつでもできるけど、決して拾うことができないのだから。

 すべてが終わった今になって、姉ちゃんにそんなことを言うことはできないし、僕の考えが正しいのかどうかも自信がない。今まさに耐え難い苦痛や絶望と闘っている人から「安楽死する自由」を奪うことがどれだけ残酷なことなのか、僕にはわからない。

 特に姉ちゃんは、そういう立場だった父さんの傍にずっと寄り添っていたのだ。そんな姉ちゃんの価値観を無下に扱うことなどできるわけがない。

 僕に万般の正解などわからない。でも、ただ一つ言えるのは、最後の最後まで揺らぐことなく、なんの悔いもなくただただ満足して安楽死を迎えた人を非難・否定するという行為だけは絶対にしてはいけないということだ。これだけは真理だという自信がある。

 父さんが、死を迎えるその瞬間まで、心の底から死を望んでいたことを、心の底から望む。

【了】

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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