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「命の機微」第6話

 荒い息を整えようと意識しながら腕時計を見る。十時二十七分だった。

 目の前では、無残な姿と化した真由がひっくひっくと泣いている。当然の反応だろう。髪をすべて失った上、顔に傷まで負ったのだから。

 結局真由は、最後まで電話をしなかった。途中で何度も手を止め、電話をかけるかの意思確認を行ったが、真由の口からは一貫して拒否の言葉しか出てこなかった。

 三十分以上かけ、髪はすべて刈り、顔に傷もつけた。傷は、せめて目立たないところへと思い、あごの下あたりにつけることにした。今も、ぽたぽたと血が滴っている。

 実に痛々しいが、自業自得だ。四歳の子の命を顧みようとしないこの女が悪いのだ。俺は悪くない。俺は当たり前の行為に及んだまでだ。同じ状況に追い込まれたのなら、誰だってこうする。一万人中、九千九百九十九人が俺と同じことをするに決まっている。その一万人に一人のバカな奴が、たまたま真由だったってだけだ。

 チノパンの右ポケットから自分のスマホを取り出し、あの男に電話をする。

「どうしました奈倉さん。今度は随分時間がかかりましたね。どうなったんですか」

「駄目だった。何をやっても、坂下真由は一向に電話しようとしない。今も、ただ泣きじゃくってるだけだ」

「僕が出した指示には従ったんですか」

「ああ。丸刈りにもしたし、顔もカッターで切った。指示通りだろ」

「……本当にやったんですか」

「ああ、やったよ」

「丸刈りも、顔に傷をつけるのも?」

「やったって言ってるだろう!」

「じゃあ、証拠として画像を送ってください。僕の電話番号はわかってるんですから、ショートメッセージ機能を使って送れるはずです。電話しながらでも、撮影と画像送付はできますよね。やり方わかりますか」

「ああ、わかるよ」

 言われた通り、真由の姿を撮影してからショートメッセージで送付した。

「送ったぞ」

 数秒の間があった後、男が喋り出した。「確認できました。傷口は見えませんが、この血の量からすると切ったことは間違いないでしょうね」

「だからそう言ってるだろ」

「だとすると、困りましたね。ここまでやっても殺人依頼の電話をしないとは。――仕方ないですね。ならば坂下真由を使うことは諦めて、最後の手段に出るしかないようです」

「真由を使わない最後の手段だって? そんな方法があったのか?」

 そんなものがあるなら最初から言え、と怒鳴りたくなったが、怒りをぶつけても仕方がない。不毛なやりとりが発生するだけだ。

「この方法はリスクがあるから、できれば如月病院に勤務している者にやらせたかったんですけどね。こうなった以上はやむを得ません」

「どんな方法なんだ」

「――奈倉さん、あなたが赤川殺しを実行するんですよ」

「な、なんだって?」

 俺の驚嘆の声を歯牙にもかけず、男が平然と説明を続ける。「如月病院は慢性的な人手不足で、常に当直のバイトを募集してます。それを利用するんです。外部の人間が初めてバイトに入った日に突然死が発生したとなると疑われるリスクがありますが、そこは全力で誤魔化してください。あなたならできるはずです」

「……」

「聞いてますか?」

「嘘、だろ。俺が、殺す、のか」

「何を驚いてるんですか。今の今まで、違う人間に同じことをさせようとしていたじゃないですか。教唆か実行かの違いで、行為自体に大差はないですよ」

「それはそうだろうけど……」

 理屈ではその通りだが、心情的にはまるで違う。

「明日、如月病院の当直バイトに入ることは可能ですか?」

「待て。勝手に話を進めるな。気持ちの整理ってやつがあるだろう」

「黙れ」無機質ながらも終始穏やかだった男の口調が、一変した。「甘えたこと言うな」

 あまりの変化に気圧され、こぼすように「すまない」としか言えなかった。

「いいな、奈倉。これからは聞かれたことだけに答えろ」

「わ、わかったよ」

「それで、明日の夜に当直バイトに入ることはできるのか」

「明日となると、すでにバイトは決まってるだろうけど、如月病院は俺が勤める大学病院には頭が上がらないんだ。それに俺は、講師っていう役職だ。医局の序列でいうと、教授、准教授に次いで上から三番目になる。そんな俺の頼みなら、まず断れないと思う。講師の俺が当直バイトを申し出るってところに違和感を持たれるだろうけど」

「へぇ、上から三番目か。まだ若いのにすごいね。そんなに優秀なら、何か口実をつけて違和感を解消することくらいできるよな。っていうかやれよ」男はひどく苛立っている様子だった。

「や、やるよ。大丈夫だ」

「よし。じゃあ、女はこっちで処理するから、お前はもうそこから離れろ。さっさと戻って、当直バイトをねじ込んだり薬剤を準備したりするんだ。いいか、薬剤はペントバルビタールナトリウムだからな。くれぐれも間違うなよ。それ以外の薬剤を使ったら逆らったと見なすぞ」

「間違ったりはしない。大丈夫だ」

「あと一応言っておくけど、僕が使っているこのスマホは、いわゆるトバシの携帯ってやつだから、この番号から何かを調べようとしても無駄だからな」

「そんなことはしないよ。俺は、栄斗が戻ってくればそれでいいんだから」

「よし。それじゃさっさと行動に移れ」男はそれだけ言って、電話を切った。

 真由は、変わらず俯きながら泣いている。

 一言かけていこうか迷ったが、やめた。この場面で俺がかけるべき言葉を探すのは、果てしなく難しい作業に思えた。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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