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「命の機微」第7話

 翌日の夜十時。俺は如月病院で当直アルバイトとして働いていた。このまま朝の七時まで勤務することになる。

 当直のバイトには、予想通りすんなりと入れた。やはり他のバイトが決まっていたようだが、講師としての権力を使って強引にねじ込んだ。うちの大学からの医師供給を受けているだけに、断ることなどできるはずがない。講師の俺が当直のバイトをすることにはかなり驚かれたが、初心に返りたくなった、という我ながらくすぐったい理由で取り繕っておいた。

 当直室で過ごすこと三時間。時刻は深夜一時を回っていた。

 神経内科棟の病室に入院している赤川健次郎とは、回診を装って一時間ほど前に会っておいた。今年で五十五歳になる男で、昔は色男だったのだろうという面影があった。

 赤川との面会中、なんとかして睡眠薬を飲ませたいと思っていたところ、ちょうど「寝つきが悪い」という相談を受けたため、これ幸いと、持ち込んでおいたハルシオンを飲ませた。即効性があり、効き目も強力なため、摂取後数時間以内ならば注射程度で覚醒することはほぼない。

 赤川の状態は、確かにALSの症状が進んではいるものの、人工呼吸器をつけるにはまだ早い状態で、会話も可能だった。そのため、容体急変を知らせる警報も取り付けられてはいなかった。

 事前の情報では、終末期手前だと聞いていたが、齟齬があり、思ったよりも元気だったことに気持ちが沈む。どうせなら、弱りきって苦しんでいる姿が見たかった。そうすれば、このまま苦しむだけの男を救ってやるのだという免罪符が手に入ったのに。

 無いものねだりはやめ、適当なところで会話を切り上げた後、カモフラージュのために他の病室も回った。普通の当直はこんなことまでしないが、久しぶりの当直だから過敏になっていた、ということにするつもりだった。

 時計が深夜一時半を指している。そろそろ行くか。持参したバッグの中にある薬剤を視界に入れながらそう呟いた。

 持ち込んだのは、指示された通り、バルビツール酸誘導体の「ペントバルビタールナトリウム」という薬だ。致死量を静脈に注射することで、速やかに意識を失い、それから呼吸が止まり、最後に心臓が止まる。一切の苦しみを伴わないため、日本における動物の安楽死にはこの薬が使用されることが多い。

 もちろん人間にも同等の効果があり、スイスなどの「安楽死が合法な国」でもペントバルビタールナトリウムが用いられる。

 薬が入ったビンと注射器をポケットに入れ、部屋を出た。

「本当にいいのか。殺人だぞ」

 赤川の病室へ向かう途中、頭のどこかからこんな声が聞こえてきた。
 頭を左右に振ってから、細く長く息を吐き出す。

 落ち着け。落ち着くんだ。今この瞬間まで、もう何度も自分自身に言い聞かせてきたことじゃないか。俺は今日、必ず赤川健次郎を殺す。別にいいだろう。彼はもう助からない。近い将来、100%の確率で死ぬんだ。それならば、これ以上苦しまないためにも安楽死させてあげることの何が悪い。しかもその結果、栄斗は戻ってくるし、坂下真由だって無事でいられるだろう。いいことずくめじゃないか。躊躇する必要などどこにもないのだ。

 自分の行動を正当化するための文言を呪文のように心の中で唱えていると、いつの間にか赤川の病室の前に辿り着いていた。
 
 はっとする。しばらく呆けていたようだ。直近の記憶がない。慌てて腕時計へ目をやる。一時三十七分だった。俺が居た当直室から赤川の病室までは三分ほどだ。一時半ちょうどに控室を出たから、四分ほど意識が飛んでいたことになる。数秒程度だと思っていたのに。こんな経験は生まれて初めてだ。精神に異常をきたし始めているのだろうか。

 どれだけ覚悟したつもりでも、どれだけ己の中で正当化しようとも、「結局は殺人である」という意識を消すことができていないのだと思い知らされた。

 とはいえ、今更退けない。自分の右頬を軽く平手で叩いた後、ドアノブを捻って入室した。一瞬、「指紋を残さないために軍手をしてからの方がよかったか」などと考えたが、監視カメラが廊下のあちこちにある上、一時間前にも入室しているのだから無意味だと気付き、自嘲気味に息を漏らした。病室内にカメラがないのが救いだった。

 室内を見渡すと、ぐっすり眠り込んでいる様子の赤川の姿が目に入った。他に患者はいない。個室ではないが、現在この部屋に入院しているのは赤川だけとなっている。二か月前までは娘と二人で自宅療養をしていたが、病状が進行してきたので如月病院へ入院したとのことだった。

 赤川のベッドにそっと近付き、そばにあった椅子に座った後、ポケットの中からペントバルビタールナトリウムが入っているビンと注射器を取り出し、注射器に薬を吸い込ませた。あとは、これを赤川の体内へ投与するだけで殺害が完了する。

 点滴注射を一旦外した。点滴は、ラジカットという薬剤だった。ALSの患者が進行を遅らせるために投与する薬剤だ。

 点滴の注射痕めがけて針を当てる。
 その瞬間、不意に栄斗の顔が浮かんだ。

 なぜだ。やめてくれ。今だけは出てこないでくれ。

 注射をするために構えた右手が微動だにしない。注射すべき血管も場所も決まっている。あと数ミリだけ右手を動かせば針が皮膚を貫く。そうなれば、残る作業は、右手の親指の腹が当たっている注射器の押し子にほんの少し力を入れるだけとなる。

 そんな簡単なことが、なぜかできない。「天網恢恢てんもうかいかい疎にして漏らさず」という言葉が俺の脳内をリフレインする。

 違う、俺はやらされてるだけだ。仕方がないんだ。そう呟き、心の中に巣食う、良心と名乗る偽善を必死で擦り潰す。

「赤川さん、俺は悪魔じゃない。この先、ただ苦しんで死んでいくだけのあんたを救いにきたんだ。天国からの使者なんだよ。あんたならわかってくれるよな」

 会話するように独りごちた後、針を赤川の血管内へ進入させ、それから、そっと右手の親指に力を入れた。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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