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傷ついていることは決して恥ずかしいことではない。

もう長年生きていると
ある程度の耐性があると思いがちで
傷つくことを表現することに
何故か恥ずかしさを感じてしまうと思いません??

傷つくことを出すのが大人じゃないみたいな。

我慢して当たり前のような。

そんなこと自分で処理しなさいって。

きっと幼い頃、傷ついて泣いていた時に
「もう泣くのはやめなさい。」
って表向きだけ「泣く」だけしか見てもらえず
泣かないことがいい子と
ずっと親から教えられたひとつで
今もずっとそれが正解という思い込みで

いつしか傷ついたことを表現出来なくなってしまった。

という過程が根強く存在しているという
その「今」なんです。

本当は傷ついた時
感情が心が「痛い」って反応した時
そのままそれを表現出来たらすぐに処置出来る事柄が
実はごまんと起こっていて

でも
大人になるにつれて泣いて解決は出来ないことも分かってるし
傷ついても隠さなくてはならない
泣かないのがいい子だから。

その傷ついた反応を抑え込んでしまう「技」を
「もう泣くのはやめなさい。」と強制的に泣き止まなければならない
そんな経験を積み重ねてしまったからこそ
その「技」を当たり前のように自分の中にインプットしてしまっただけ。

本当は子供も大人も人間誰でも
感情が痛い思い
傷ついた思いはそのまま表現していいものなのです。

でも
現実はそれがとっても恥ずかしい姿として映ってしまうのは
誰もが傷ついた姿は恥ずかしい
泣いている姿は恥ずかしいという過去の教えが事実と思ってしまってるだけ。

または泣いてどうにかしようとする姿に映ってしまう。
泣けばいいと思うなよ?っていう風潮。
まぁ、それを知っていて使う人がいるからなんだろうけど( ̄▽ ̄;)

だから人は悩むのだと思います。
傷ついた人間は弱いもの。
そういう恥ずかしさも含め。

幼い頃、どうして傷ついてギャン泣きしていると
親に「もう泣き止みなさい!」と言われたのか。

そこにある親の気持ちもまた面白いもので。
もし、自分が叱ったことで子供が泣いているという場面での
いい加減泣き止みなさいという思いの裏で動いている感情が
「子供を傷つけているダメな親だと思いたくない、思われたくない。」
「自分の子供がワガママのバカだと思われたくない。」
「うるさい。」

・・・結果、親としての都合が盛り沢山であって
そこにも恥ずかしさが存在しています(笑)

子供の感情はしっかり置き去り。
特に周りの目が気になればなるほど
我慢をすることが大切なのよというしつけにもなってしまって
傷ついたら我慢してしまう大人になってしまう。
に繋がるのかなぁと。

なのでいつしか
傷ついたら我慢するがどんどん積み重なって
感情を出すことすら躊躇してしまうのでしょうね。

感じても行動に移せないってやつ。
だから怒りがあっても悲しみがあっても
自分一人で抱えてしまうのです。
作り笑いということをしてしまうのです。

でも傷つく場面は生きていれば何度も訪れます。

それがどんなことであれ
自分の傷つくアンテナに触れたら当然です。

だけどそれを表現出来なくなっていることが
一番の問題であるかなとここ最近思うようになりました。

強がりなんて実は一番自分にとって「毒」
全然美化してない。

子供みたいと思われても
もし何か会話の中でチクっと心に刺さった痛みがあったら

「あ、ちょっと傷ついたかも」

って言っていいんです。
それがどんなにショボいことでも。

そしたら相手にも何か気づくきっかけにもなるんですね。
WIN-WINのコミュニケーションになるというか。

そんなことで傷つくの?って思われたとしても
それでいいんです。
傷ついたんだからしゃーないやん!って開き直るくらい。

そんなことで傷つく私は恥ずかしくないということを
ちゃんと知って下さいね。

だから表現するのです。

相手にとってはそんなことがこんなにも?という気づきになるわけだし
お互いにいい関係になれると思うのです。

ただ、やはり場面は選ぶのが大人ですかね。

傷ついた詐欺みたいな同情をかいたいばかりの
感情を表現するのは意味がないと( ̄▽ ̄;)
(泣いてどうにかしようとするしたたかさなど)

本当に傷ついた時のざわつきはきっと分かると思います。

ワタシも傷ついた詐欺はよくやってました(笑)
でも本当に傷ついた時はずっと堪えてましたからね。

面白いものです。

本当に傷ついた時に言えないでいて
恥ずかしいと思ってしまうのは
自分にとって我慢しなさいって更に押さえつけてるだけなので
その傷はもっと痛むんですよ。

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