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無〇〇という〇〇 09/21(書き始めた日:09/18)

おはようございます?こんにちは?
のびたまごです。

このnoteは先日の続き(?)になります!

こちらのnoteで書いていたオープニングトークで、以前にツイート(返信)で書いたようなことをお話されて「わあ!」と思ったので今日はその辺りから膨らませてちょっと書いてみようかなと思います。

(ちなみにこちらは、昨日のnoteの中でも紹介させてもらったこちらのお茶碗のくだりでお話しておられました。)


わたしも少し茶道は習っていましたし(その当時、何某かのお免状を取らせていただきました)、そもそも和の世界観がとても好きなので、メモを取りまくりながら聞いていたのでそのメモから抜粋します。

余談を挟みますが、わたしが習ったのは裏千家だったので、武者小路千家の第15代お家元後嗣でいらっしゃる千宗屋先生のことは本当に失礼ながら存じ上げなかったのですが、これを機にまたいろいろ知りたくなりました(流派とか歴史とか)。

そして、ここにリンクを貼るためにWikipediaを見た結果、お誕生日にご縁があることが発覚し、今結構な衝撃とともに「だからか…」となっています。
ほんとに、ちゃんと会うべきとき会うべき人に合わせていただけるんだなぁと思いました。


ということで、「無作為」の話に繋ぎますね。

赤楽茶碗 長次郎作 銘無一物
こちらのお茶碗のお話の時に、前述した無作為の話が出たんです。
わたしのメモの抜粋を羅列します(文章に直そうと思ったけどわたしの記憶による無確定要素が大きく、ニュアンスが変わって伝わるのが望ましくないため)。

無為に徹底して作為を込めて作らせた器。
無作為さとは、それを装った作為の極み。
途方も無い計算がある。
しずかさともいえる。
杉本博司「本歌取り」展 オープニングトークより

図々しいことは百千も承知の上で敢えて書きますが(たぶん杉本博司さんや千宗屋先生などの先生方には当たり前のことだと思うので)、その話が出たことに感動したのと、さらりとお話されるその言葉の運びや解釈(解釈でいいのだろうか)に感動したのと、それを聞いてお茶碗の写真を拝見し、その写真に写っている背景やエピソードを拝聴して、そこにその世界や空気感がふわっと、そしてハッキリと広がるのを感じて、、、
とにかく、本当に感動した、ということです。

本当にすごかった。
ずっと聴いていたい感じ。時代背景の考証とか、現代との比較とか、でもそこにある変わらないものとか、そういう話のリズムやテンポ、流れのセンスがすごかった。
そういうものも含めて全部感動しました。

最近のわたしの感動ポイントは、【世界観】に移行しているらしく、ああ、本当にそこに感動しているんだ、と自分のことを知る深めることができてまた地味に感動しています。
実はこのnoteは09/18に書きさしにしていたものに付け足していて、この空白の3日(オープニングトーク当日を入れれば4日)の間に、わたしの中でその部分【世界観】が感動ポイントであるということがより深まる出来事がたくさんあったため、満を持してこのnoteに繋がった(色んな意味で)んだなと思います。

そしてまた感動する🥲笑
もうこれは幸せの極み(エンドレスループ♾)です。
ありがたいなぁ。


無〇〇とは

ということで、慣れ親しんだ脱線(笑)はさておき、今日の本題である無〇〇についての話を書いていこうと思います。

とりあえず、件の「無作為」から順に、思いつくままに(途中からは調べました)並べてみます。

無作為という作為。
無一物という一物。
無意味という意味。
無邪気という邪気。
無神経という神経。
無意識という意識。
無理という理。
無印という印。
無明というあかり
無一という一。
無二という二。
無関心という関心。
無責任という責任。
無表情という表情。
無気力という気力。
無知という知。
無礼という礼。
無計画という計画。
無能という能。
無言ということ

ちなみに、とはどういう意味かというと…(ぜひ読んでみてください)

はい。
Simpleにも説明できる(「ない」ってこと。)んだけど、それを表現するのこれだけの彩りがあるということは、"無とはなんぞや"というか、"無の何たるか"というか…無っていう名前が既に在るんだから在るやんなぁ、と思った次第です。

無がある。
無我というとは、無いわたしがあるという状態のこと。

無いなんてものは、無いのかもしれない。
ただ、在るとは次元や空間や概念(捉え方)が違うから、在ると同じ視点(パラレル)においては無と表現せざるを得ないのではないかと思った。そこには、無い、みたいなこと。

ここに書いてるこの事も同じことだったのね、と納得。

「かえる」ことで、無が在るになるのだ。
「歩」が「と金」になるように。

無いと在る。
それは、不在の在、ということ。

そこには、不在が在る。
間が、空間が、無い何かが、在る。

実は、今日はこちら☝︎のnoteを引用して、「ま ってなんだろう 09/18」というnoteを書こうとしていたのですが、どうも筆が進まず、他の事を書いていたのですけど、道は違えど書きたかったことをきっと書いているのでこれでいいんだろうな、と妙に納得しました。

たぶんそれはこういうことで、

こういうことでもあるんだと思う。

在るけど無い。
無いけど在る。

自分の見方、そこにある世界線の違い、こんていに流れているものの違いなど、そこにある微かな感覚の違いに耳を澄まし、違和感に敏感であればきっとわかるはず(そこに至るまでの感覚とのチューニングや訓練的なものは必要かもしれないが)。

そもそも、あるとないは、違う世界線において、同じひとつのこと(エネルギー、存在)を指し示しているものなのだ。
だから片方を見ているとき、もう片方は鳴りを潜めているのだと思うし、そうあるのがこの世界のものの見方で、それがあるこの世界のものの見方から、もう片方は無い鳴りを潜めるのだと。


(なんとなく)まとめ!

あー楽しかった。
noteを書くのはいつも超絶楽しいのですが、このnoteは特に楽しかった。
やはり、自分の価値観について、起こったこと(外の世界)を材料きっかけにあーだこーだ考えてハマるところにはめていくのが、わたしは好きなんだと思った。

はめていくのは、今のわたしの中にある今の価値観。
そうやって、内外のバランスを整えていく。
それが、わたしにとってのひとつのバランスの取り方で、自己調整の仕方なんだなと理解しました。

なーんだ、わかっていたけど、わたしは変えたいし変わりたいんじゃないか。
何にでも触発されたいわけではないから、その見極めは大切だけど、でも縁があるから目の前にその事象は現れるのだから、受け容れる受け容れない自分にとってあるか無いかだけ決めていけば、それでいいんだと思った。


ということで、今日はこの辺で。




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