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自分を生きるということ。 【#ホニャララLIVE 049】

明日の自分を好きになれる生き方をしたい。
いや、微妙に違う。
「今、“この瞬間の自分”を、全力で生きている!」と笑顔で、胸を張って言いたい。

それが、わたしが今回のホニャララを見終わって、1番感じたことでした。

私とは誰か?

近々のわたしの悩みはこれだった。
「この“わたし”という存在とは、一体“誰”であるのか?」

これは、きっと殆どの人が1度は自分に問いかけたことのある問いであり、永遠に答えが出ない問いでもあるとわたし自身は思っている。

なのに、またわたしはこれについて頭を抱えていた。それはなぜなのか?
今回のホニャララLIVEは、この問いの答えではなく、なぜこの問いがいま自分の中に浮かんでいたのかを明確にしてくれたように思う。

それを、今から紐解いてみようと思います。
どこに着地するのか、どんな言葉が自分の中から湧いてくるのかは、書いてみないとわからない。
でも、もうそこにわたしの思考は関与していなくて、半分自動速記のような感覚でこれを書いている。

なら、もうそのまま書くしかない。
だって、これはもうわたしが書いているけどわたしが書いてないからだ。頭がおかしいと思われても(いや、もう思われてるかな笑)、「これがわたし」なのだ。そして、「これがわたし」だと思うにもかかわらず、先程提示した問いかけは、わたしの中にあり続ける。

ということは、それは解であるようであって、決して解ではない、ということなのだ。
もう自分で書いていて訳が分からない。
でも、もうこのまま書く。


【問題】と【問い】の違い

「私とは誰か?」という問いに答えを出すためには、私という存在を定義する条件を決めるしかないということになる。

…ということで、「問い」についてGoogle先生に聞いてみたところ、このようなサイトを見つけた。

以前にも取りあげたことがありますが、もう一度、「問題」(problem)と「問い」(quest/question)の違いについて、考えてみたいと思います。
しかし、解答や解決策になじまない「問い」があります。たとえば、「人が人としてよりよく生きるとはどいうことか」という「問い」がそれです。この「問い」は、古いヨーロッパ哲学の言葉を用いていえば、「真理(真実)(aletheia/veritas)とは何か」、これまた古いキリスト教思想の言葉を用いていえば、「愛(敬愛)(agape)とは何か」、といいかえられます。こうした答えのない「問い」は、「アポリアの問い」と呼ばれてきました。文字どおりのその意味は「通り抜けられない問い」です。

こうした「解決」「解答」になじまない「問い」は、この世界の通俗通念的な意味・価値、規約・制度を超える、根源的・本来的な「問い」ですが、けっしてアリストテレス以来の「形而上学」だけが扱う「問い」ではなく、だれもが問い続けたいと切実に願うところの「問い」です。「よりよく生きたい」と思わない人はおそらくいないでしょうし、何かを真摯に探究したり、だれかを育てたりしている人で、「真理」や「愛」を思わない人もいないでしょう。

 しかし、やっかいなことに、こうした「真理」や「愛」は、五感で知覚されないものであり、これこれであると表象(述定)できないものです。フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、こうした「アポリアの問い」が向かうところを、感覚できないが「感受されるべきもの」(sentiendum)、認識できないが「思考されるべきもの」(cogitandum)と形容しています。

リンク先の文章をほぼほぼ引用してしまったのですが、つまりわたしがしている「問い」は、この文章でいうところの解答や解決策になじまない「問い」である、ということになる。ちなみにわたしのnoteを何度か読んでくださったことのある方ならすぐにわかるとおもいますが、これは私の大好物なのです。コタエノナイトイカケ。

次に、定義を改めて定義付けてみる(こちらはGoogle先生に聞いてみたところ、Wikipedia先生が出てこられたのでこちらから引用させてもらいました)。

定義(ていぎ)は、一般にコミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業。一般的にそれは「○○とは・・・・・である」という言い換えの形で行われる。基本的に定義が決められる場合は1つである。これは、複数の場合、矛盾が生じるからである。ただし例外もある。(例:電子掲示板用語の「キャップ」、CDソフトに付く帯の「キャップ」など。)

なるほど。
つまり、わたしが今自分に投げかけている【解のない問い】ー「この“わたし”という存在とは、一体“誰”であるのか?」ーというのは、定義から崩さないと解に辿り着けない(たどり着ける可能性すらない)ということがわかりました。


価値基準の置きどころ

なぜなら、定義の定義の中にあったような、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業としての定義付けをしている間は、「私とは誰か?」という問の答えには永遠にたどりつけないと思うからです。

ここで、さらにそれはなぜか?ということについて考えないといけない(問いが問いを呼ぶパターン)ことになります。だって、そうしないと「わたし」を定義付けることができないから。

「わたし」という存在を本当の意味で定義付けようとしたとき、最も邪魔になる定義(判断基準、価値基準)が、「普通」とか「一般的に」とかいった人々の間で共通認識を抱くために行われる作業として定義付けられた言葉たちだと、わたしは考えます。


わたしを定義するのはわたし

いきなり少し脱線しますが、わたしは太陽星座が天秤座です。天秤座は、他者ありきの星座で、自分を定義するときにおそらく他者基準を手放せない星座No.1なのではないかと思います。

そのわたしが、「わたしを定義するのはわたし」と言い切る、ということはつまり、完全なる自己崩壊(アイデンティティ・クライシス)であり、意図的にそこに切り込むということなんです。

自己喪失。 若者に多くみられる自己同一性の喪失。 「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること。

ちなみに、アイデンティティについても確認しておきます(Wikipedia先生より)。

アイデンティティとは自己と同一化している要素の事である。国語等で扱われるアイデンティティの喪失とは、その要素が無くなることである。 また、さまざまな立場における自分自身の在り方について、「これがほかならぬ自分なのだ」というまとまりをもった確信のことである。

これはハッキリ言ってめちゃくちゃ怖い。
膝が碎ける感じです。下半身に力が入らず、腰が抜け、へなへなとへたりこんでしまいそうな感覚に陥ります。現に今も、足の感覚がおかしいです(笑)←全然笑えない。

なのですが、この恐怖を越えないと、わたしはいつまでも自分を定義するのに他者が必要になってしまう。他者がいるから自分がいて、自分を認識できることは重々承知した上で、あえて今回はそこを排除したいのです。

そうしないと、この恐怖からの逃げ道は一旦用意できるけど、自分が自分を定義する機会をまた失うということになって、またぐるぐると悩み続けないといけなくなる。それは嫌です。だから、今、「今日こそは徹底的に向かいあってやる!!」そう思ってこれを書いてます。足の感覚は相変わらずおかしいです。手汗もすごいし。


他者依存を抜ける

でも続けます。
つまり(今回接続詞の乱用がすごいのですが目を瞑ってください)、「わたしが私を定義する」とは、自分の中から他者を排除することだと先程も書きました。

なぜその行為が必要かというと、他社基準で自分を定義する限り、他者の支配を抜けられないからです。

それは、他者依存を抜けられないとも同意義であって、そこにいる限りは安全なんですが、「わたし」という人間を、わたし自身が本当に理解することはないのではないかと思うんです。そのために必要なことが、自分の言葉や感覚で自分のことを定義する、ということです。


自分を再定義する

それは、ある意味自分のことを素数になるまで因数分解し、自分自身だけのエッセンスに凝縮するということかなと。

まず、自分の中の要素を「純粋なるセルフ要因(生まれ持った素質)」と、「他者の言葉や概念により定義づけられた他者要因」に自分を分け、そこから自分の言葉や概念で置き換えればセルフ要因になるものはセルフ要因として再定義し、全く自分には当てはまらなあと判明した不必要な概念や自分の可能性を潰していた概念は徹底的に排除する。
これが、わたしがさっき書いた「他者要因は排除する」ということです。

でも、あえてここでいっておきますが、「普通」に生きてきたら、基本的には必ずと言っていいほど他者要因は巧みに自分自身の中に入り込み、成長の家庭でいつの間にか組み込まれてアイデンティティ化していて、ちょっとやそっとのことではそのことに気付くことはできないと思いますし、なんならわたしなんてその最たるものです。

でも、それをする。
それは、「この“わたし”という存在とは、一体“誰”であるのか?」という自分の中から湧き出てくる本能的な問いに応えたいからであり、その先にあるものとして、自分という人間として自立して生きていきたいからです。


自分を生きると自立/自律できる

『「今、“この瞬間の自分”を、全力で生きている!」と笑顔で、胸を張って言いたい。』と、1番最初に書きました。

それから、『どこに着地するのか、どんな言葉が自分の中から湧いてくるのかは、書いてみないとわからない。』とも書きました。

そして、今たどり着いた場所は、【自分を生きると自立/自律できる】という、今までにも知っていて、使っていた言葉でした。

でも、ここまでの流れを経てきた今、自分の中では全く別のことのように認識されている感覚があります。

またまた、自分を再定義している途中だけど、ついつい、他者に自分の存在について生殺与奪権を握って欲しくなってしまうけど、もうそれは止める。

あえて自分を中心において話をします。
他者とは、自分を知るために存在しているもので、自分を定義付けてくれて、それによってわたしを満たしてしてくれる存在ではない。

これは、前回のホニャララとつながる話だなぁ、と今書いていて思いました。

前回は「幸せ」について書いてるんですけど、それはそのまま「存在」と置き換えても通じる話だったんだな、と。なんかどっかで書いたなと思ったんですよね(笑)

わたしも含めて、日本人(とくくってしまっていいかわかりませんが)は、あえて嫌な言い方をすると、「幸せって誰かに提供してもらうもの」と思ってることが圧倒的に多いのかなって思って。

幸せという名の生殺与奪権を、誰かに明け渡してしまっている。そして、それが満たされないことに対して不平不満を言っている、みたいな。
これって、物質的な豊かさの弊害だと思うんですよね。「与えてもらうのが当たり前」になっている。
幸せって、自分で作るものだし、そもそも「あるをみる」「あるに気づく」ことだ、と今のわたしは思ってます。

概念化されて平均化された幸せというものが何かということを自分に問いかけるよりも、「これが自分にとっての心地良さだ」「これををわたしは感じていたい」「こういうことをしていきたい」という自分にとっての喜びとか、心地よさとか、そういうものを見つけていく。そういう目で自分を観察していく。

すると、必ず「ある」んです。
自分の中に、既にそれが。
それが、「あるをみる」ってこと。

それができたら、「あるをつくる」ことができるようになる。自分だけでできないことは、人に助けてもらえるようになる。

で、びっくりしたのは、この次に「自立について」書いてたこと。自分で書いておいて、すっかり忘れてました。

なーんだ。
結局、ずっと問い続けていたんですね。自分のことだし知ってたけどw
なんだかんだいって、存在価値についても書いてますし☟
…なんか、このボケてる感じがわたしらしいなぁと思ったら、ちょっと気が抜けて楽になりました(笑)

今、ここに手付かずの状態であるものが、いかに有り難いものであるか。
また、得難いものであるか。

そのもの自体の価値。
それって、存在意義でもあるし、自己肯定感でもあるも思う。


全部在り方で変わる

つまりは、そのときそのときの言葉に対して感じたり思ったりすることが、そのときの自分や自分の在り方によって変化するということなんですね。

「私とは誰か?」「私とは何者であるのか?」という問いは、きっとこれからも続いていくのだと思うし、忘れてはいけないと思うけど、そのときそのときの自分の中のベストアンサーを積み重ね続けて、この人生が終わるときに、その時点での答えが明確に自分の中にあるといいな、と今のわたしは思っています。
それは、今この瞬間にこの命が終わっても同じことが思えるようにしたいということでもあって。

それって結局、『「今、“この瞬間の自分”を、全力で生きている!」と笑顔で、胸を張って言いたい。』って、どの瞬間の自分にも誇りを持っていられるかということでもあるなと思うんですよね!

この視点を、ずっと手放さずに持ち続けていられたなら、わたしはずっとわたしでいられるとなんとなく思いました。

これが、もしも誰かにとって、青臭くても、理想論でも、綺麗事でもなんでもいい(よく言われてきたので書いてます)。
不可能は可能にしたらいいし、わたしは、こういうことを馬鹿みたいに平気で言ってる自分が好きなので!(笑)


まとめ☆

ということで、なんだか最後ほんわかしてしまいましたが、なんとなく終わりのない問に対する答えの積み重ね方だけはわかったかなと思うのでこれでよしとします。

「私とは誰か?」とは、「自分の中に羅針盤はあるか?それをわかって使っているか?」ということと同意義でもあるかな。
そして、それを使うということが、自分を生きるということで、自分の中の天才性を発揮するということでもあるし、天分を理解する/それを使わせていただくことでもある、と。

そしてその全部が、最大の宇宙貢献である!ということなんですね!

…なんかまとめるとやたらと薄っぺらく感じるのはなぜ??( ˃ ⌑ ˂ഃ )


さいごに。

今回のゲストの山川咲さんですが、実は同じ歳の方でした( °_° )

わたしも、あんな風にキラキラした笑顔で、自分のことを明確に語れる自分になりたい。素直にそう思わせていただける本当に素敵な方で、ひたすら眩しかったです。

LIVE中もお話に上がってましたが、本当に見てるだけ、聞いてるだけで自然と自分が鼓舞されてました。…それって本当にすごいですよね。

わたしも、わたしを頑張ろう。

ということで、リンクです☝︎
何回もリピートしたい、大好きな回のひとつになりました。
未視聴の方は、ぜひぜひご覧下さい!

yujiさん、井出さん、山川さん、今回も豊かな時間をありがとうございました🌸✨

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