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映画「つゆのあとさき」を観た日
きょうだいが、デイサービスに行く日が変更になった為、「今までお世話になった人に集中してお手紙を書きたい」という事で私の毎週日曜日の「お宅訪問」予定がなくなった。
これはずっと観たかった映画「つゆのあとさき」に行けるではないか。上映場所は渋谷ユーロスペース。田舎に慣れすぎて人混みが極端に苦手になってしまい、スクランブル交差点とか絶対無理だと思ったので、電車移動ではなく自転車で行く事にした。往復で3時間の旅。自分のための豊かな時間だ。
「つゆのあとさき」は永井荷風の同名小説が原案となり、コロナ禍の渋谷を舞台に、パパ活をしながら生きていく女性たちや、それに関わるパパたちの心情を細かく描写しながら「生きていくこと」「居場所」「さみしさ」「ほんとうのことを伝えあえる関係性」などを考えさせられ最後まで引き込まれていく作品だ。R15なのでもちろん濡れ場も多く、コロナ禍やパパ活など内容的に決して明るくは無いが登場する人それぞれが、その人にしか出来ない生き方をしていて、琴音やさくらを目で追うごとに彼女たちの説明し難い人を惹きつける力に気づく105分だ。
まず主人公の琴音が飄々としているようでいて、ベッドホンで外の世界と自分を隔たらせていたり、さくらが聖書からの引用を読む事で気持ちに折り合いをつけている様が切なく見え、そしてコロナ禍とは何だったのかなと再び思う。不安、先行きが見えない、ガラガラと荷物を引きずって歩く琴音の姿がそれを表していた。
琴音のパトロンの清岡は、琴音の中に何を見たんだろうか。もしかしたら自分自身を見て苛立ちや固執する事から抜け出せなかったのかもしれない。しかしちょっと「良いな」と思ったダンサーさんの仕打ちもシチュエーションは違えども、そういう人に粗末に扱われてしまう時程自分が惨めに思える事もないな、と思ったり。そんな人が抱く心情を細かく映像で表していた。
好きな場面が、さくらが琴音に謝りに来るところだ。本音でぶつかりながらも「次に来る時には」と琴音が言うのに対して、さくらはそれに対しては答えずに「ほんとうの事が聞けて嬉しい」と言う。さくらはこの時点で「次」を考えていなかったのではないか。さくらが言った「パパ活以上に効率の良いバイト」ってなんだろう。もっと暗闇しか見えない。しかし「ほんとうのこと」を伝え合えた時に何かが繋がったんだな、と実際には既読にはならないところが悲しみでしかないのだが、しかし本当のやり取りは出来ていたはずで。
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少しの灯りが見えつつも、何とも言えない後味から舞台挨拶があって良かったと、Twitter(x)でどなたかが呟いていたが、私も同じ気持ちになった。上映後のトークを聞いて笑いが沢山ある中で、俳優として出演されていた守屋監督が仰っていた、「脚本を読んだ時と実際に観終わった感想と微妙に違った」という話しや、「本当の名前を最後知らないままなのが悲しい」という言葉が深いと思うのと同時に、その感性でまた監督作を撮って欲しいなあ、という気持ちが頭の中にめぐる。
渋谷をあとにする道すがら、倒れている人がおり、私は5月からこの日まで、急に倒れた人、もしくはすでに道に倒れている人に遭遇したのが3人目でコロナは5類になったとしても、まだまだ得体の知れない何かが渦巻いているのを感じながら、ペダルを漕ぎ帰宅した。
映画とともに見た景色や色や匂いを忘れない。
撮影は2年前だとの事だったが、スクリーンから溢れてくる空気感も、それとともに見た演技も舞台挨拶も全部を記憶して、幸せな時間を過ごせたと色々な方々に感謝の気持ちになる。
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