生きる意味とは

どうも。茶鳴です。
今回はタイトルからもお分かりいただけるかと思いますが、生きる意味について私が達した結論をつらつら書いていこうかと思います。いきなり毛色変わりすぎですが気にしないでください。こういう気まぐれなのが茶鳴雪という人間です。

こんなことを考えるようになったのは、友人関係とか、体調とか色んな面でしんどいと思うことが重なったことがきっかけでした。なんでこんなしんどいのに生きてるんだろう。生きてる意味って何?生きてる意味がないなら苦しいし死んだっていいのでは。
…あまりに極論すぎるだろう、と冷静になった今なら思いますが、とにかくそのような極論を掲げていた時期がありました。そこで改めて、どうして人間は生きるのか、生きることに意味はあるのかということを考え始めました。

そんなある日、友人が「私は生きる意味を見つけた、それは子孫を残すことだ」という話をしてきました。私は全くピンと来なかったので詳しい話を聞いてみると、「今まで脈々と自分まで受け継がれてきたこの血を自分の代で止めてはいけない、これを受け継ぐことが私の使命だ」というようなことらしかったのですが、私にはやはりピンとこず。少なくとも自分の納得する生きる意味はそれではないようでした。

そこから色々考えたりしてみたのですが、結局私のたどり着いた結論は、

生きる意味なんて、ない

というものでした。ここまで引っ張ってきて結論それかーい、という感じではありますが、私が最終的に一番しっくりきたのはこれでした。「生きる意味なんてない」とは言いますが、すでに実際自らの生きる意味を見出している人はいます。それを否定するつもりはもちろんありません。私が言いたいことは、正確にいうと、「“普遍的な”生きる意味なんてない」と言った感じでしょうか。みんながみんな納得できる生きる意味なんてないのです。もちろん、自ら導いた生きる意味はきっとあなたにとっては最適解なのでしょうが、必ずしもそれが他人に適用されるわけではない。
また、生きる意味を見出して軸にすることであなたにポジティブな影響があるのであれば見出せばいいとは思いますが、別に無理して見出すほど高尚なものではないと思います。なぜなら、生きる意味など結局ないからです。そして、基本的にあなたがそうしたい以外にそれを見出さなければならないこともないからです。

ではなぜ人間は生きるのか。それは、人間にとって生きる意味もありませんが、死ぬ意味もないからです。しかも死ぬという行為には肉体的であれ、精神的であれ、必ず苦しみが伴います。その上死ねば必ず救われるとか、無になるとか、そんなことは保証されてないわけです。つまり、死んだら現世よりも重い苦しみに襲われる可能性だってあるわけです。じゃあ別に死ななくて良くね。とりあえず現世で苦しんどこ。私はそう考えました。

「こんなアホみたいな考え、付き合ってられるか!」という人もいれば、もしかしたら「なるほど!しっくりきた!」という人もいるかもしれません。とにかく生きる意味ってそういうもんです。人生十人十色なんですから、生きる意味だって色々あっていいし、なんならなくたっていい。

今日も私は生きる意味も死ぬ意味も持たないまま、色んなことに苦しみながら生きていきます。もちろん楽しいこともありますが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?