20190718_20200718

去年、大きな悲しみがあった日に書きなぐった散文。
今年、そして今日、大きな悲しみがあって、読み返したら去年のそのままの気持ちだった。
おかしな文章だと自分でも思うけれど、何度も悲しみが襲ってくることに対して、私はこれ以上の言葉を吐き出せない。

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人の命
失われるたびにめまいがするようで、それでいて他人事と割り切るところもある。事故、人災、自然災害、戦争と形は様々だけれど、私は毎日毎秒、あらゆる瞬間この世界で人が死んでいくと言う事実を受け止められない。無視することもできないが気にしない、自分のことではないと…。
どうしたって人は死ぬ。けれどそれが定められた寿命だとは思わない。あらゆる人が死ぬことは平等だけれど、死ぬ瞬間のひとつひとつに正しさなどひとつもないからだ。
人を殺すもの、人を脅かすものは「なぜ」の問に一つ残らず人生の次の次まで向き合わなければならない。そうでなければあまりにこの世は地獄だ。災害であっても、それが定めだとは思わない。人の力は人を守るためにこそ生まれてくるべきだからだ。経済的な損得の前に、それが人を守るに足るかどうか、一人でも、一秒でも長く命を守れるかどうか、直感のままに力のすべてをこの世のあらゆる命にむけて備えるべきものだ。
それでも守れないものがある。そうやって形にも声にも残らない哀しみ、怒り、遣る瀬無さ、虚無が積み重なっているのに、なににもなれない人間の哀れさたるや筆舌に尽くし難い。
どんな思想?どんな囁き?なぜ?
人は死んでしまう。必ず死ぬ。命は脆い。けれども私は生きている。その厳とした事実になぜ向き合わないのか。私が生きているのと同様に、しかしそれは全く違った真実ではあるが、他人も生きている。私も他人も形の違った真実である。そこから目を背けるもの、他人を真としないものの誕生はこの世のあらゆる罪を幾つ束ねても敵わないほどに純然たる悪だ。
私は死ぬのがこわい。他人が死ぬのもこわい。何も感じられない、何も考えられない、そもそももはや存在しないということがどういうことかわからないからだ。生まれてくる前、実在した細胞の結合という出来事すらわからないのに、ただ世界を認識することに慣れた何かが突然失われる。準備もできずに。それを腹立たしく思う。それを悲しくも思う。
人は生まれてきただけで、何も持っていない。過去の歴史や、現在の希望、未来への展望が人間を誕生させる。人が自分自身の意思で決められることなどほとんどない。ないに等しい。けれども必死で、それこそどんな手を使ってでも人間は生まれてきたことそれ自体を問おうとする。それがあらゆる人間の本当の渇望だとなぜ思い至らないのだろう。ふとした瞬間に、どうして怒りに身を任せてしまうのか。 自分自身の生まれが他人にも関わっていると直感してこそ、守り、尊び、生きるものではないのか。
何度でも言う。人の死、そのあらゆる死に正しさなどない。一つもない。正しい死などこの世界のどこにもありはしない。