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望言命法 前編

カント倫理学において根本的な原理として定言命法がある。
カントは道徳(無条件で行われる善)を「もしお金が欲しいなら仕事をせよ」という仮言命法と、「仕事をせよ」という「~なら」を除いた定言命法という2つの命法に分けて説明した。

「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」格言として扱われるカントのこの言葉。おそらくこれは定言命法に従って、つまり良心の絶対的命令に従って毎日行動しましょう的なことを言っていると考えられる(間違っていたら土下座)。

さらにカントは自由とは自律であると述べた。

カントにとって自由とは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性、つまり意志の自律そのものなのです。

東洋大学の創立者であり、哲学者の井上円了さんは語る
 https://www.toyo.ac.jp/link-toyo/culture/immanuel_kant

自発的にルールを守りたい!洗脳でもいいからそう思えたらどれほどよいでしょう、と思ったものだがそうはいかないのが世の常なのであって。資本主義と言う大きな物語に既に取り込まれている我々はどうもマイナス面に目が行ってしまい、「自由になりたい」なぞ思ってしまう。

そこでだ。浅はかで偏見まみれで独善的な私は新たな命法を打ち立てることにした。それが望言命法(もうげんめいほう)である。おっと、ネーミングセンスのなさを指摘してはならない。それはあなたの望言命法ではないはずだ。
望言命法とは読んで字のごとく「~したい」という欲求からなる命法である。
ただ、ここで注意したいのは私はこの望言命法を処世術のツールの1つとして提示したいということだ。強いて言うなら定言命法の一部と言ったところであろうか。

さて、皆まで言わなくてもわかっている。人間の欲望と言うのは際限がない。

「あの子とイチャイチャしたい」
—あら。
「高級プリンをただで食べたい」
—はぁ。
「むかつくから殺したい」
—落ち着きたまえ。

これらの望言命法が仮に存在し、従ってしまった場合たいへんなことになる。特に最後の望言命法は誰も幸せには……多分ならないはずだ。
というわけで何でもかんでもこの望言命法に従えば良いという物ではないことは直感的にわかるだろう。ではどのような望言命法に我々は従うべきなのだろうか?次回では従うべき、好ましい望言命法について考えてみたい。

続く



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