雑記:「一緒に見る」こと
ὁ βίος βροτοῖς ἄδηλος. 生は人間にとりて不明なり。 —— Anakr. Carmina, ⅩⅩⅩⅧ, 19.
出典が明らかでないので孫引きになってしまうが、サリヴァンは「人間には不安よりも孤独がいっそう耐えがたいものだ」というようなことを言っていたという。中井久夫はこれを引いた著書の中で、がん患者の孤独について印象的な指摘をしていた(その箇所で中井は宗教学者・岸本英夫の悪性黒色腫の闘病記に触れていたが、岸本英夫 (1973)『死を見つめる心』講談社文庫を読む限り、岸本にはすぐに病状が伝えられていたようなので、そのような記述があるとすれば別稿と思われるが、特定に至っていない)。担癌患者本人に病名を伝えるのを避けていた時代のことだと思われるが、患者本人は周囲の態度から自身の病名を察知する。「ガンと知らされた途端、周囲との間には一枚のガラスのように透明な、しかし破れない障壁が生じ」、周囲の人々は優しくなって、多くの美しい —— 一見すると慰めや励ましの —— しかし実は何も語っていない言葉をかけてくる、そのことが「患者を出口のない孤独に陥れる」のだと(中井久夫『精神科治療の覚書』日本評論社、1982年、130頁)。おそらくこのような孤独は癌に限らず、難しい慢性疾患等においても起こりうることだろうと思われる。顧みるに、わたし自身もこのような障壁を作る人々と同じ穴の狢たることを免れていない。
相手の心中を憶測する際の慎みを忘れないこと。「分かってたまるか」でも「すべてお見通しで、すでに分かられてしまっている」でもなく、「やはり通じるのだ」という疏通感が生じるような応待、これを中井は相手の「ことばに副え木を添えているような」応待と言っていた。このようなことを自省するときに個人的にしばしば思い出されるのは、精神科医・熊倉伸宏の次の言葉である。
「自分だけ高いところにいて同情するのは、共感ではなく憐れみである。見かけだけの共感の言葉は来談者には通用しない。共感という言葉に値するのは、来談者の抱えた解決不可能な課題から、面接者が眼をそらさなかった時である……困難から身を引かずに、『一緒に見ていきましょう』と言い切れれば……ここでは、共感とは単なる感性ではなくて、決意である。……来談者が本当に『自分で考える』ことを始めるのは、『一緒に見る』ことの中からである。」(熊倉伸宏『面接法』新興医学出版社、2002年、91-92頁)
面接者はときに、相手の抱える究極的な問いに向き合うことを迫られる。何故生きるのか、どうすれば自己肯定できるのか、といった類の問いがそれである。あるいは、渠(かれ)には医学的病名はつかぬにしろ(「因果な病」ではあるが)、流沙河の河底で独り言つ悟浄の問いもその類かもしれない。先述の、患者と周囲との間に生ずる障壁とは、問いのあることに感づきながら、しかし正面から向き合うを避けるようなしぐさによって生ずるのではないか。本人が発していなくても、周囲は他者の顔に問いを見る。というよりむしろ、顔によって自分が見られる。顔は、いわば出現しつつも外部性を有する何かであり、その顔の現われに応答するか、背けるか、凝視し造形的対象とすることによって「脱-顔化」するか、いずれにせよ、その行動は見られた者の選択であり、ゆえに倫理的有責性が生ずる、と言えば勇み足(あるいはレヴィナス風概念の変造密輸)が過ぎようか。
このようなとき、面接者がなにか自説を開陳したところで、益するところは少ない。説教好きは、たいてい相手を失望させる結果に終わる。自分は答えを知っているというような軽率な態度や傲慢は容易く見破られる。面接者は、自分より相手の問いかけの方が深い場合もあるということをぜひ承知しておかなければならない(同書、83-86頁)。さて、黒卵道士、沙虹隠士、坐忘先生にはじまり、妖怪の賢者たちが縷々説けども、悟浄は承服しない。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」(中島敦『悟浄出世』)と渠は独言して帰途につく。
人生にかかわるような究極的な問いを提起する相手に対して、これを解決するすることもできず、かといって相手の生活のあらゆることを支えることもできないとき、面接者には何ができるだろうか。この問題について、先に引いた熊倉伸宏は「受け止める」ほかはないと言った。つまり、それが自分にも解決できない問いであることを認め、自分も分からないから一緒に見ていこう、と告げ、一緒にいて、見守ることである。一緒にいるといっても、行住坐臥すべてにわたり四六時中ついていなければいけないというわけではない。一緒に見ていくという関係が樹立されるならば、面接者は相手の心のなかに「不在の他者」として棲まうようになる。面接者が不在のときも、あの人ならどう思うだろうか、と問われることによって、仮想上の共同関係が現れる。
ここで熊倉が「一緒に見る」といっていることは、熊倉自身も註で触れているように、北山修の「ともに眺めること」と呼応する。北山は浮世絵に描かれた母子像を分析して、例えば玉川舟調「風流七ツ目絵合」や喜多川歌麿「婦人相学拾躰 風車」のような、同じ対象を二人で眺めている関係に注目し、これを「ともに眺めること」(viewing together)と命名している(北山修「Ⅲ 描かれた過去から」『幻滅論』みすず書房、2012年、32頁)。両者の外部にある対象について言葉を交わす二者間外̇交流と同時に、非言語的、身体的、情緒的な二者間内̇交流をも̇重視するところに北山の炯眼がある(ちなみに、北山修は「あの時同じ花を見て美しいといた二人……」「あの時同じ夕焼けを追いかけていった二人……」の歌詞を書いた本人である」)。母子像での二者間内̇交流では、母親が子をしっかりと抱え支えるという強い絆が成立しているが、「ともに眺めること」における開かれた二者関係は、共有する対象を介した交流と情緒的(ときに身体的)交流による「横のつながり」(同書、52頁)があるという二重の関係であることが重要なのであって、母子のような二者関係に限らない。たとえば、石川豊雅「風流十二月 八月」や小林清親「両国花火之図」に描かれる大人たちの物見であってももかまわない。北山は他に、小津安二郎 (1953)「東京物語」で周吉ととみが横並びに腰掛けているシーンも挙げている。案ずるところ、抱える、支える関係を伴う場合はいくらか縦の関係も含意されるように思われるが、今回はこの点には深入りしない。また、精神分析学的文脈では、エディプス的ないし母-子-父の三者関係より手前にある母子の二者関係として、三者言語による成熟した交流に比べると退行していると指摘することも可能ではある。しかし、言語のみへの一本化傾向に抗して、言語的交流と非言語的/情緒的交流の二本立てで、この二重性をうまく保ちながら相手と心を通わせようと図ることには、より注意を払ってよいのではないかと考える。言語的交流に関しても、前回すこし触れた「希みの声」のような音声的、情緒的交流の側面が意識されてよいだろう。なお、北山修はさらに「『今はもうかよわない』という幻滅に立ち会うこともまた、大きな課題である」とも述べているが、彼の幻滅論についての考察は別の機会に譲りたい。
言語的交流優位の関係が有効でない状況というのも考えうる。さらには、強い支持や激励が苦痛となるような状況さえある(中井前掲書、309頁)。強く安心させるような言葉をかけたとしても、その安心感は長くは持続しない。かえって相手は安心と不安とを往復させられることになり、それ自体が新しい苦痛となる。このような時は、ただ隣にだまって坐っているよりほかにないこともあろう。いわゆる「シュヴィング的アプローチ」であるが、たとえ30分間であってもそれを実践することは実際にはとても難しい。ただ隣に坐るというこのような試みを、困難(可視な対象とは限らない)をともに眺めるという北山修的な二者間内̇交流の試みとして捉え直すことも可能と思われる。「抱えること」のごとき支持も裨益するところがあるだろう。中井久夫は、完全な緘黙不動不眠患者の隣室に泊まり込み、ひたすら小さく壁をノックしつづけたことがあるという(同書、160頁)。この「あなたは見捨てられていない」という小さなしるしは、のちに尋ねたところ、しかと患者に伝わっていたそうである。
観世音菩薩摩訶薩に従い、玄奘法師たちと遍歴の途に上った悟浄は、それでも観世音菩薩の教えに納得することはなかった。渠は考えることをやめない。だが、三者三様に生を肯定してみせる孫悟空、玄奘法師、猪悟能と行動を共にしながら、天竺国大雷音寺を一緒に目指しながら、そしておそらくは日々同じものを見ながら、渠は懐疑こそやめることはなくとも、おのれの宿痾と次第に和解していく。『悟浄歎異』の最後、悟浄は夜ただ独り目覚めており、仰向けになって星々を眺めていた。そこで渠はふと三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思い出す。起き上がって三蔵法師の安らかな寝顔を覗き込むうちに、「心の奥に何かがポッと点火されたようなほ̇の̇暖かさ」を感じるのであった。
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