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そして、6ヶ月(暴露と随筆)

ずっとやりたいと思っていた仕事、養護教諭になって6ヶ月たった。短期で小学校を転々とし、現在は3校目が終わる。

「独りで壁を殴っていてもヒビは入らない」

最近そう言われて、今の私はとても現状に満足できていないんだな、思う。なにか違う、こうじゃない、と感じる気持ちに蓋をしてきていた。

しかしそうは言っても、これが性格なのだから質が悪い。これまで相方から、有名な人格テストや心理テストをやってみるよう言われてきたが、この「問題点をみつけ、改善しようと孤軍奮闘する。」点が回答になかったためしがない。まったく損な性格だ。最近は、自分の夢にむかうステップがなにやら行き止まっている気配すらある。行き止まり、というか霧の中だ。次にどこに一歩だせばいいのか正直わからない。このままでいいのか、という焦り、なにか変えなければ、という声だけが聞こえてくる。

小学校でのこの期間は、とても楽しかった。まずかわいい。それから、「相手にわかるように話す」練習になった。話している途中から、あ、わかってないな、と気づく。そこから持てる語彙力を総動員してあの手この手で伝える。そうすると相手の目がだんだん見開いてくる…。伝わる、と、楽しい。向こうも私がわかると嬉しそうにしてくれる。単純なことだろうが、精神科とはまた違うコミュニケーションの楽しさを感じた。

ひとつ痛感したこと。

指導ができないことだ。ほかの先生方のように、「~しなさい」「~しなきゃだめだよね」「~はこうだったからそうだったんだよわかる?」のような指導がなんだかできない。たとえば子どもが廊下を走っていたとする。先生たちはすぐ「廊下は走らないよ!」と伝える。しかし、私はなぜ走っているのかをいちいち考えてしまう。「どうして走ってるの?」と聞いてしまうのだ。まったく教員としてはだめだなあと思う。子どもたち同士の言い分の解説も苦手だ。子ども同士のトラブルの時、先生たちはそうほうに意見を聞いて、それはつまりこういうことでしょう、と上手にお互いに伝え、そのトラブルを見事解消している。しかし、そういう立ち振る舞いは私には難しい。言い分は聞くけれど、それをこっちで解説するのは私の場合主観が入ってしまう気がしてできなかった。だから、お互いの「でもここはよくなかったんじゃない」を伝えるにとどめてしまう。

指導とは、ある目的に向かって教え導くこと、とある。

そんな大それたこと私にはとてもできない、と正直思う。目的への道は、自分たちで、選んでほしい、そのために死なないように強く生きる術ならいくらでも一緒に考えたい、ともに歩きたい、というほうが近い。

そうはいっても教員なわけで、苦手といえどもわからねばなるまい。指導の視点を身につけないといけないな、と思うこの数か月の小学校生活であった。

そして冒頭の問題に戻るわけだが、とにかく巨大な一枚岩にむかって刀を振り上げてもこっちがけがをするだけで、憤り振り上げた刀はひとまず鞘に納め、同志を集めるために大声をあげなければならない。このように小部屋でちまちま稚拙な文章を吐いていたって、状況は変わらない(いや私にしては結構変わったが)ので、そろそろ、外に出ようと思う。

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