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第六章 鏡

 こうしてガラスのお姫さまと幽霊は、毎日話をするようになりました。ひとひらの雪はいつもガラスのお姫さまの周りを舞い、彼女と同様に、幽霊の話に聞き入っているようでした。幽霊が現れるのは決まって、空が白んでから日が昇るまでの間と、日が沈んでから完全に暗くなるまでのほんの僅かな時間でした。それでも、お姫さまはそのたった数分を毎日心待ちにしました。幽霊も、彼女の呼びかけを聞くと何度でも大いに喜び、安堵しているようでした。ガラスのお姫さまは幽霊について、思いつく限りの問いを全て投げかけ、幽霊はできる限りそれに答えました。幽霊は、書斎の梟に劣らないほど物知りでした。
 例えばある朝はこんな話をしました。
 「私が書斎の窓辺にいた時は、あなたのことが見えなかったのよ。どうしてかしら」
 「物は、暗い場所ではよく見えないと信じられています。しかし私のような存在は、そうではない。書斎の窓辺はよく光が入るが、明るい場所では見えないものもあるのです」
 またある晩はこんな話もしました。
 「私、幽霊って、もっと恐ろしいものだと思っておりましたわ。暗いお屋敷の中を、おぞましいうめき声をあげて駆け回るのよ。そして廊下の扉を全部、開けたり閉めたりして人間を怖がらせるの」
 「ああ、私もそう思っていましたよ、自分が死ぬまではね。しかし実際には、何もできないのだ。できるのは、恐怖に慄きながら悲嘆に暮れ、ただ屋敷の記憶を傍観することだけだ。いや、私自身が、幽霊などでなく、本当は屋敷の記憶の一片に過ぎないのかもしれない。ただの幻には、物音ひとつ立てることすら難しい。生きている人間の方がよほど恐ろしいのだ。しかし、あなたとこうして会話ができるのはなぜだろう……」

 それからまた幽霊は、数々の窓の光の中で見てきた、様々な時代の屋敷の様子を、まるで短い物語のように、ガラスのお姫さまに語って聴かせました。お姫さまはこの部屋にいながら、ある時は何十年も前の大広間の輝きを、またある時は数世代前に住んでいた家族の仲睦まじい団欒の景色を、まるで見て取るように感じることができました。そしてその全てが、何年も先の未来で廃れ果てた侘しい廃墟の景色でさえも、ガラスのお姫さまの心をときめかせ、彩りを与えていきました。幽霊の、上品な言葉遣いや語りの間の取り方、機知に富んだ言い回しは、人間として生きていた頃の教養の深さを窺わせました。幽霊はそれほどに、上手な語り手でした。

 幽霊と出会ったこの部屋に来た日から、ガラスのお姫さまは、もう涙を流すことはありませんでした。ガラスの梯子からお姫さまに伝わった脈打つ微熱は、すっかり彼女の体温になっていました。ある日の昼間、お姫さまはひとひらの雪にこんなことを言いました。
 「私、ただのガラスの置物なのに、生きているんだわ。とってもおかしいけれど、本当なのよ。今まではそんなこと、感じたことがなかったわ」
 枯れた花の散らばった乾いた床の上を、ひとひらの雪は楽しそうに舞い踊りました。

 ガラスのお姫さまと幽霊は、何週間もの間、毎日少しずつ対話を重ねていく中で、ある共通の願いが二人の心の内に芽生え始めたことを知りました。それはもちろん、お互いの姿を見ることでした。冬が終わろうとする最後の雪の朝に、幽霊が問いました。
 「なぜだろう、近頃はあなたの声が、とても悲しそうに聞こえる」
 ガラスのお姫さまは静かに答えました。
 「ええ、おっしゃる通りですわ。私は書斎の窓辺にいた頃、どうしても叶うことのない願いを持ってしまったの。そしてそのことで日々涙に濡れながら過ごしたのです。ここに来て、私の心は一変したはずでした。あなたとお話をしていると、毎日がとても楽しいのよ。私の知らない時代の、夢のような景色をたくさん見せてくれるんですもの。でもね、私、いけないわ。また、どうしても叶わぬ願いを持ってしまったのです。私、あなたのお姿が見たいの」
 幽霊は言葉を選びながら、しかし意外にも希望の気配を含んだ声で答えました。
 「その願いはもちろん、私も持っているのです。私に、考えがあります。この部屋の一番奥に、大きな姿見があるはずです。その鏡は、屋敷が建てられた時から、廃墟となって壊されるまで、一度も動かされることなくそこにあるものです。だから、この屋敷の全ての時をつないでいる。私たちの姿を、一度に映してくれるかもしれません」
 その考えは、すぐさま実行に移されました。ガラスのお姫さまは、大きな姿見の前まで歩いて行きました。花の模様が彫り込まれ、贅沢な金箔のためにほのかに輝くそれは、お屋敷に染み付いた、古き良き日々の儚い記憶を静かに留めているようでした。
 ガラスのお姫さまは、まだ暗い部屋の中、曇った鏡に映る自分自身の姿を見ました。ところが驚いたことに、それは人間の背丈でした。そしてもう一人、隣におぼろげな人影を見て取ることができました。お姫さまは目を凝らしてその姿を見ました。
 一体どういうわけなのでしょう。今まで話をしていたその幽霊は、なんと書斎に飾られていたあの肖像画の青年ではありませんか。揺らめく空気の奥に、冷たい風に削られた彫刻のような端正な顔立ちや、どこか憂いを帯びた深い瞳、黒々とした髪の美しいあの青年の姿がはっきりと浮かび上がってきました。
 ガラスのお姫さまが言葉もなくただ鏡を見つめていると、またも不思議なことが起こりました。部屋の中のどこからともなく温かい風が巻き起こり、鏡の向こう側へと吹き渡っていったのです。夜と朝を隔てる不思議な時間の断片が、全ての物の輪郭を溶かし出し、それらは互いに織り交ざってゆきました。鏡の向こうには、香しい風がそよぎ、明るく花の咲き乱れる優しい景色が見えます。それはまさに、いつかの眠りの深みで見た、美しい春の景色でした。暗闇の中で永らく待ち望んだ幸せが、鏡の向こうでついに二人を呼んでいるのです。青年がそっと口を開きました。
 「私はあなたを知っています。書斎で読み耽った物語の中に、あなたはいた。ガラスのお姫さまを包む涙の闇が、全て幸福に変わり果てるその時を、私は空想の世界で幾度となく見つめていた。その光景が今、目の前にあるのです。さあ、私と共に行きましょう」
 ガラスのお姫さまの心は、今や青年の言葉通り、計り知れない幸福によって静かに満たされていました。お姫さまは言いました。
 「ええ、喜んで。でも、ほんの少しだけ待って頂きたいの。日が昇るまではまだ時間があるわ」
 お姫さまは、ひとひらの雪に、夏生まれの雀の若鳥を呼んでくるように頼みました。ひとひらの雪が割れた窓の隙間に消えると、外からすぐさまこんな歌が聞こえました。
 「チッチ、チッチ、誰かが私を呼んだ、誰かが私を呼んだよ、こんな薄暗いお部屋から。だあれ、チッチ」
 ガラスのお姫さまは、今までの全てのお話を、雀に語って聴かせました。そう、ここで語られたことがそのまま、今皆さんが聴いているお話というわけです。お姫さまは小さな花の冠をそっと外すと、言いました。
 「これを私の大切なお友達に渡してほしいの。私はもう大丈夫。あなたのおかげでとても幸せよ、あなたも末永くお幸せにと、どうかそう伝えて」
 雀が快く承諾し、飛び去ってしまうと、ひとひらの雪が戻って来ました。雪は舞いながら、小さな光輝く雀に姿を変えて言いました。
 「私はシラカシにできた巣の中で、一つだけ孵らなかった卵の雀です。ガラスのお姫さま、あなたはただ一人、私のために涙を流してくれました。おかげで私は天使になり、あなたを助けに来たのです。どうかいつまでもお幸せに、さようなら」
 輝く雀は天高く、どこまでも昇っていきました。

 ガラスのお姫さまと青年がゆっくりと鏡を越えると、そこはまるで何もなかったように、静かな寂れた部屋に戻りました。しかし差し込んだ朝日に目を覚ましたお屋敷の庭は、春に咲く花の香りを宿していました。


涙の闇が、全て幸福に変わり果てるその時を、私は空想の世界で幾度となく見つめていた。
その光景が今、目の前にあるのです。

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