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第二章 ひなげし

 ある日の素敵な昼下がり、窓の外のシラカシの木には、葉の茂みに隠された安全な枝で、雀の小さな丸い巣が完成しました。
 ガラスのお姫さまが窓辺の棚に移動されてからというもの、彼女の心は沈んだきり、何日も塞ぎ込んでいました。しかし彼女の心を本当に苦しめていたのは、窓辺に移動されたという事実よりも、なぜ自分はそれっぽちのことでこれほどまでに落ち込んでいるのか、なぜ隣に座る町娘や窓の外で元気に歌う小鳥たちのように明るい考えを持つことができないのか、自分でも分からないということでした。物事はたいていの場合こんな風に、表面に見えるよりももっと奥深くで問題が起こっているのです。ですからこの場合も、綿でできた町娘が彼女の善意によって、ガラスのお姫さまにどんな言葉をかけようと、それでお姫さまの気持ちが晴れることはありませんでした。
 「体はこんなに透明でも、私の心は鉛のよう。そして心につられて体まで、少しくすんできたんじゃないかしら。ほら、どう見えて。このつま先のあたりよ。どうしましょう」
 町娘はお姫さまのつま先に息を吹きかけて言いました。
 「ただの埃よ、もう飛んでいったわ。あなた、いつまでそうやって泣いているつもりなの。どんなに涙を流そうと、まさかおじいさまが気付いてあなたを元の場所に戻すことなんてないでしょうよ。それならもっと素敵なことに目を向けたらいいじゃない。ほら見て、下の庭のひなげしがとても美しいわ」
 ガラスのお姫さまは、その虚ろな瞳を庭に向け、ため息まじりに答えました。
 「ええ、確かにとても美しい。ひなげしの、あの赤色こそ本物だわ。私には色がないの。大きな嘘を抱えているのよ、まるで幽霊のため息のよう。でも、花が美しいのはほんの一瞬、若さも美貌もすぐに衰えるわ。この私と同じようにね。かわいそうに。あなたも同じはずよ、なのにどうしてそんなに、いつも明るくいられるの」
 お姫さまは町娘の、かわいらしい小さな帽子を見つめながら言いました。お屋敷の老紳士は町娘の人形が日に当たらないよう、敢えて棚の中段に置いているのに、彼女は毎日のように上段に登って日向ぼっこをするので、彼女の花柄の帽子は色褪せていたのです。もちろん町娘本人は、そんなことはちっとも気になりません。
 「短い人生だからこそ楽しむのよ。私なんて、ガラスでできたあなたよりもずっと短い命でしょう。綿は萎み、色は褪せ、この素敵な細かいレースの飾りもいつかは縮れてなくなるわ。でもね、ひなげしをよくご覧なさい。彼女たちのほうが、やっぱり私よりもずっと短い命。それなのに、そんなことは少しも気にかけず、輝くばかりに懸命に咲き誇っているわ。どれほど嘆いても時の流れには抗えないのなら、身を任せるほかないのよ」
 ガラスのお姫さまは頬杖をつきながら、話に耳を傾けていました。
 突然、壁際の本棚に飾られている機械仕掛けの小鳥が口を挟みました。
 「素晴らしいことをおっしゃいますね」
 小鳥は全身が色とりどりの宝石で埋め尽くされていて、羽を広げたり、本物の小鳥そっくりに歌うことができました。
 「私もね、若いうちはいつも嘆いてばかりいたんですよ。こんなに美しい体を持っていても、本物の鳥には決して敵うことがない、とね。本物の小鳥なら、弾む気持ちに合わせて次々に新しい歌を歌えますけれど、私は決まった歌を繰り返すことしかできない。彼らは自由にどこへでも飛んでいけるのに、私はここで無様に羽根をばたつかせることしかできない。でもね、いつかはこの声も出なくなる。決まった歌も歌えなくなるのです。錆びついて、少しも動けなくなる時が来るのです。今のうちですよ、人生を楽しむのは。そう考えるとね、私にしかない、本物の小鳥たちが持たない美しさがあると、思えるようになったんですよ」
 「ごもっとも、ごもっとも」
 小鳥が話し終えると、今まで静かに聴いていた若い紳士の置物が声を上げました。彼は窓辺の棚の一番下の段に住んでおり、綿の町娘の婚約者でした。二人は「来週」に結婚の日取りを決めていました。といってもその日はいつまでも「来週」で、何度日が昇り、沈もうとも彼らは「来週」結婚する恋人同士なのでした。結婚を目の前にした恋人たちほど幸せなものは、この世にそうありません。ですから二人はいつまでも、幸せに包まれていることができるのでした。
 陶器でできた若い紳士は、ちょうど町娘に会いに上段によじ登ってきたところでした。
 「いやはや、素晴らしい演説でしたな」
 紳士はかわいらしい婚約者に挨拶すると、いつも通りの上機嫌でそう言いました。
 「その通りですぞ、ガラスのお嬢さん。あなただって僕らと同じようにまだお若いんだ。悲嘆に暮れている時間がもったいないですよ、もっと楽しまなくちゃ。あなたは幸運にも、箱に入れられたまま放置されるでもなく、きちんと綺麗に飾られている。体にひび一つ入っていない。気持ちを聴いてくれる友達もいる。どれもとても素敵なことだ」
 ガラスのお姫さまは、自分の後ろ向きな性格のことが皆の話題の中心であることに、少し疲れてきてしまいました。彼女はうつむき、自分の涙の玉を手に持て余しながら言いました。
 「何もかも皆さんのおっしゃる通り、異論はないんですの。何か特別、不満に思うことがあるわけでもないんです。とても恵まれていることも分かっているわ。ただ、自分でも何が悲しいのか分からないの。うまく言葉にできないけれど」
 皆はこれを聴いて困惑してしまいましたが、お姫さまは自分自身にも分からないことを、他人が理解することなどできないことを、よく分かっていました。綿の町娘は、親友が困っていることに気が付いて言いました。
 「とにかくね、あなたはとても美しいわ。そんな綺麗な姿には、笑顔の方が似合うって言いたいのよ。あなたがほほえめば、今よりもっとお日様の光を綺麗に反射して輝くでしょう」
 ガラスのお姫さまは親友に感謝して、力なくほほえんで見せました。しばらくすると、不意に別の話題を思いつきました。
 「ねえ、私ここに来てから、見かけなくなったものがあるの。明け方と、夕暮れ時にだけ見える、空気の揺らめきよ。あなたも見たことがあるでしょう」
 しかし町娘はきょとんとした様子でした。
 「一体何のことなの。空気の揺らめきですって?」
 「そうよ、この部屋の中に、どこからともなく見えはじめて、ふわふわと飛んで、そしていつの間にかいなくなるの。形があるわけじゃないのよ、ただぼんやりと、空気が揺らめいて見えるの」
 お姫さまがどんなに丁寧に説明しても無駄でした。驚いたことに町娘以外も皆、そんなものは見えたことがないというのです。書斎の中のあらゆる者たちが皆、口々に推測を話し合いました。一番もっともらしく聞こえたのは、陶器の紳士の言ったことでした。
 「それは、光の屈折というやつではないですかな。太陽の光が窓に当たる角度と、部屋の中の湿度なんかが関係しているんじゃあないかと思いますね」
 陶器の紳士はとても現実的な考えを持つ人でした。科学というものに、ある種の憧れを持っていたのです。しかしそれは熱心に研究する対象としてではなく、紳士の嗜みとして、今朝の新聞に載っていたことくらいは知っておくべき、というようなものでした。
 「いいや、全く、全く分かっておらん」
 書斎の机のすぐ横で、大きな梟のはく製がおもむろに片目を開けながら言いました。今まで静かに眠っていると思われていた梟は、皆の話を黙って聞いているのに耐えかねたという様子で、首を振りながらいらいらと足踏みをしました。
 「若造が浅い知識でものを言いおって。あれはわしも見たことがある。光の屈折なんぞでああはならんわい」
 皆の目の前で突然大恥をかかされた陶器の紳士は、平静を装って丁寧に尋ねました。
 「おや、梟の先生。ご指摘に感謝致しますよ。ではその空気の揺らめきというのは、一体どういう現象なのです」
 「あれは他ならぬ、幽霊じゃ」
 この答えに、皆は拍子抜けしてしまいました。梟が紳士の意見を打ち負かすような説得力のある仮説を唱え、この不可思議を学術的に紐解いてくれることを期待していたのです。しかし、皆がこの言葉の続きを聴くことは叶いませんでした。ゆっくりと階段を上ってくる、お屋敷の老紳士の足音が聞こえてきたからです。議論は急いで中止され、次の瞬間には、皆は何事もなかったように、もと居た場所に戻っているのでした。

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