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第五章 幽霊

 雪はゆっくりと、書斎のドアの前にガラスのお姫さまを連れて来ました。お姫さまの小さな体では、広い書斎を渡りきるのも一仕事でした。彼女は来た道を振り返りました。棚の上では綿の町娘と陶器の紳士が、それからその下では梯子を運んだ置物たちが、そして梟や宝石の小鳥まで、各々の場所から手や翼を振っていました。お姫さまが手を振り返すと、ドアノブの鷲の頭はぐるりと首を傾げ、ドアを開けてくれました。
 
 部屋の外はとても寒く、薄暗い廊下でした。廊下の景色を見たことがある者は、書斎の中には誰一人いませんでした。皆、部屋の中を動き回っても、決して外へは出ないのです。それは、とても危険なことでした。
 足元は一面、毛足の長い絨毯で、その上を小さなお姫さまが歩くことは、人間が深く降り積もった雪の上を歩くよりもずっと大変なことでした。さらに、お屋敷の下の階で朝の支度を始めている、召使いのばあさまに見つかっては大変です。ガラスのお姫さまは先を急ぎました。
 ひとひらの雪は、ようやく長い廊下の突き当り、上の階に続く階段までガラスのお姫さまを連れて来ました。しかし雪はそこに留まることなく、ふわりふわりと軽やかに階段を上って行きました。まるで険しい崖のように、階段は小さなガラスのお姫さまの前にそびえ立っています。彼女の心は、もうとっくに引き返したい気持ちに襲われていました。しかし、梯子から伝わった大きな力が彼女の手足を突き動かしていて、立ち止まることも引き返すことも許してはくれませんでした。ガラスのお姫さまは、この力の熱っぽさがとても嫌いでした。彼女は手足に動かされるまま、仕方なく階段を登り始めました。
 階段を登るのにはとても時間がかかりました。何しろ一段の高さがお姫さまの身長と同じほどもあるのです。しかし不思議なことに、疲れを感じることはありませんでした。昨晩深く眠ったためか、それとも体の中で血のようにほとばしる力のためかは分かりませんが、窓辺の棚の上ではあれほど重たく感じていたガラスの体が、少し軽やかになったようにさえ感じられました。
 ひとひらの雪は、時折お姫さまの周りをくるくると飛びました。それはお姫さまを元気づけているようにも、急かしているようにも見えました。いずれにせよ、その動きはとてもかわいらしく、親しみを感じられたので、ガラスのお姫さまはその雪を「新しいお友だち」と呼ぶことにしました。
 長い時間をかけて、ようやくお姫さまは階段を登り切りました。召使いのばあさまも滅多に上ってこないこの階は、このお屋敷の中のどこよりも薄暗く古びており、ほとんど時が止まっているようでした。ひとひらの雪は迷わずさらに先へと進み、ガラスのお姫さまを一番奥の大きな部屋の前に連れて来ました。お姫さまが扉を叩くと、もう何年も眠っていたドアノブの獅子の頭は、深いため息をつきながら重たい扉を開けてくれました。
 部屋の中は、書斎のある下の階とはまるで別世界のようでした。屋根裏のように木の梁が剝き出しで、だだっ広い空間には死んだ家具がいくつも無造作に積み上げられています。その全てには一面に埃が積もり、まるであの窓から眺めた美しい銀世界のようでした。蜘蛛や鼠一匹の気配さえなく、置物たちも皆、言葉などとうの昔に忘れ去ったのか、ただどこまでも深く眠っているようでした。
 「ここはずいぶんと寂しい所ね」
 ガラスのお姫さまはひとひらの雪に話しかけました。
 「ねえ、新しいお友達。どうして私をここへ連れてきたの。この部屋に、何があるというの」
 雪は何も答えず、静かにお姫さまの肩に乗りました。
 ひとひらの雪は、その先はもうどこへも行こうとしなかったので、お姫さまの旅は忘れ去られたこの部屋で終わりを迎えたようでした。しかし、お姫さまは涙を流したり、「新しいお友達」に後ろ向きな言葉を溢すことはありませんでした。氷のように冷たかった肌が、まだ温かな熱を溜め込んでいたのです。それどころか少しずつ増していくようにさえ感じられるその微熱に、本当の氷になりたかったお姫さまはうんと嫌気がさしていましたが、同時に、それが自分の心を変え始めていることにも気が付いていました。
 ガラスのお姫さまとひとひらの雪は、一通り部屋の中を見物し終えると、部屋の隅の壊れた箪笥の陰に、転がっていたカーテンの切れ端で居場所をこしらえ、そこでうたた寝を始めました。

 しばらくすると、ひとひらの雪がお姫さまをくすぐって起こしました。寝ぼけ眼をこすってみると、割れて隙間の空いた窓の外は日が沈んだばかり、まだ明るさが残る夕暮れ時でした。
 ふと見上げると、高い天井の木の梁のあたりに、空気の揺らめきを見つけました。書斎の中にはほとんど見た者がいなかった、あの不思議な揺らめきです。ガラスのお姫さまは、空気が答えるわけもないと思いながら、それでもとても寂しかったので、言葉をかけました。
 「空気の揺らめきさん、あなたは一体だあれ」
 すると驚いたことに、答えが返ってきました。その声はとても小さく、幾重にも重なった悲しげなため息のようで、話し手は遠いようにも近いようにも感じられる、というよりこのお屋敷全体がゆっくりと呼吸しながら話しているような、不思議な声でした。
 「あなたこそ、誰なのですか。私のことが、見えるのですね」
 「ええ、私、ずっと前からあなたを知っておりますわ。私はただのガラスの置物です。ほらここ、壊れた箪笥の後ろにいますの」
 「私は幽霊。あなたを見ることはできません。私の、この屋敷の見え方は時を超えているのです」
 ガラスのお姫さまには、その幽霊の言っている意味が分かりませんでしたが、言葉を返してくれたことを、心から嬉しく思いました。幽霊は続けました。
 「しかしあなたの声は聞こえる。とてもはっきりと。誰かの声を聞くのは、誰かが私に話しかけたのはいつぶりだろう……」
 「私、前からあなたとお話してみたかったのよ。まさか本当に言葉を交わすことができるなんて。私のお友達はみんな、あなたのことが見えないんですって。どうして私には見えるのかしら」
 しかし、もう幽霊の声は聞こえませんでした。窓の外は、すっかり暗くなっていました。

 次の朝、ひとひらの雪はまだ日が昇る前に、ガラスのお姫さまを起こしました。東の空がだんだんと、白みはじめていました。お姫さまはまた、空気の揺らめきを天井のあたりに見つけることができました。あの幽霊です。
 「幽霊さん、幽霊さん、ごきげんよう」
 ガラスのお姫さまが挨拶をすると、幽霊はまた、あの不思議な声で答えました。
 「ああ、とても懐かしいそのお声。あなたのお声をもう一度聞く時を、孤独の暗闇の中でどれほど心待ちにしたことか」
 あまりに大げさな幽霊の言葉に、お姫さまは思わず小さく笑いました。
 「あら、おかしいわ。お話をしたのは昨晩よ。まるで何年も経ったみたいにおっしゃって」
 すると幽霊は思いのほか真剣な声で答えました。
 「いえ、何年も、何十年も経ったのです。まだ生きているあなたとは、時の流れ方が違うのです。私は永遠にこの屋敷の中を彷徨っている」
 「私、分からないわ。それは一体どういうことなの」
 「ある窓の光の中では、私はまだ建てられたばかりのこの屋敷の中を歩いている。家の者と、使用人が大勢見える。しかし次の窓の下では、誰一人いない廃墟と化したこの屋敷の中にいる。そしてまた別の窓では、自分が生きた時代の景色が見える。私は移り行くこの屋敷の景色をただ傍観し続けるが、そのどれもが幻に過ぎないのです。流れる時とは無縁の、永遠の中を彷徨っているのです」
 ガラスのお姫さまは、幽霊の話す不可思議な言葉を少し理解できたような気がしました。同時に、幽霊のため息のようなその声の中に、どこまでも深い悲嘆と諦観、そして恐れを感じ取りました。
 「あなたは、どうして幽霊なの」
ガラスのお姫さまの心の中には、幽霊の境遇に対する恐怖と同情が満ちていました。しかしそれよりも、次々に芽生える相手への興味が、幽霊との対話を促しました。
 「私は、流行り病で死んだのです。家族は、私を屋敷の隅のこの部屋に追いやりました。恨みはありません。そうするほかなかったのです。その頃屋敷には、親戚の家族がいくつも住んでいて、その中にはまだほんの小さな赤ん坊もいたのですから。しかし、苦しみの中で独り死にゆく孤独と恐怖は、死んでもなお私を放してはくれなかった。私には分からないのです。ここではない場所へ行く道が、何も見えないのです」
 幽霊が言葉を終えるとすぐに、窓から差し込んだか細い朝日が、埃っぽい部屋を薄暗く照らし始めました。そして空気の揺らめきも、同時に消えてしまいました。ガラスのお姫さまは、とても会話を続けたくなりました。それには、夕暮れ時を待つほかありません。

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