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連載小説第1回 なつかしい人

連載①
このまま私を帰してもいいと思っているの、そんなに簡単には会えない二人なのに。

千秋はそのことばを口に出したかった。本当はそんなことを口に出したりするのは苦手だし、口にしないで過ぎてしまうことの正当性を自分に言い訳して、結局は言わないで良かったと納得させてしまえるタイプの人間なのだ。
もう50年もこういう自分と付き合ってるのだからよくわかっている。身の丈に合わないことをしたら疲れるだけ。あとから赤面してしまうようなことだけはもうこの年齢になった自分にはさせたくなかった。それでも、そういう気持ちを踏まえても尚、言いたい、言わなくてはこの先ひどく悔んでしまう時間の長さに別の疲労を感じてしまうことも予想できた。
このまま別れてもいいと思っているの?ともう一度心で強く叫んでみる。ことばにならない。ただ駅に向かって歩いているだけ。見知らぬ都会の夜更けた舗道を二人で歩いて、駅までの距離が短くなるだけ。

少し前をゆく背に向かって「木島くん」と呼びかける。「はい」とすぐに返って来た声にがっかりしてしまう。そういう返事の仕方はないでしょう。何も告げられない。何も察していないという証拠なのか、それとも察しすぎて戸惑っている結果の間の悪さなのか。ああ、どうして私にばかり考えさせるの?千秋は少し腹立たしい。
「このまま、別れたくない…」案外すんなりと言えてしまった。


「はい」と答えた方の木島は自分の返事に戸惑っていた。さっきもただ「はい」と言っていたな、と思う。
このまま別れたくない、か。どうすればいいのか。
ひとときの気持ちに流されて、千秋とこれ以上どうにかなるような展開に進んでしまうことをなんとしても押しとどめたいとは思っている。こういうときにただ自分の気持ちに率直に「このまま別れたくない」と口に出す千秋を愛しいと思わないわけがない。千秋の自分への思いは十分に感じている。その気持ちに対して愛しいとも思っている。まだるっこしい言い方はやめよう、木島は千秋が愛しい。切ない甘い感情に戸惑ってしまう。しかし、この気持ちだけでいいじゃないか、と思いたいところもある。それを暗黙のうちに了解しあったのじゃないのか。二人で三軒めのバーを出たとき、千秋が店の外で夜空を見上げて、「もう月があんなに傾いちゃったね」と言ったとき、木島は、千秋もまた自分の中の気持ちを必死で抑え込もうとしていることを感じた。

「もう帰りますか?」と聞いて、千秋がこくんと頷いた時に、ああ、何とか切り抜けたな、と思ったのだ。このまま別れて、それでいいじゃないかと。


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