見出し画像

連載小説 最終回 なつかしい人

「このまま別れたくない」という千秋のことばにもただ「はい」としか答えられなかった。「はい」というのは自分も同じ気持ちだという意味であり、千秋の気持ちをわかっているという意味でもある。しかし、この先のことは自分でもわからない。

ホテルまで送っていきます。
部屋まで送って。
はい。
終電は何時?
11時45分。
あと40分…
駅の構内を抜け反対側のオフィス街という雰囲気の中にあるホテルを目指して、さてどうなるんだろうこれから…木島は急に酔いが回ったような気がしてくる。

千秋は、これからどうなるんだろうと思っている。思っている?自分の思いってなんなのだろう。わからない。
部屋まで送ってと言った私のことばをどういう風に受け取ったのだろう、彼は。
本当に部屋まで送って終電で帰るつもりなんだろうか。きっとそうなんだろうな。そういう人だもの。
心の中でいろいろに考えながらも、胸が苦しい。会えないでいたときには心地よい感情だと思っていた恋しさが、会っているうちにどんどん苦しくなっていく。

ホテルのフロントへの正面扉が開いて、灯りを落としたロビーには人影もまばら。エレベーターホールにも誰もいない。上りのボタンを押す。六基のうちの一基にランプが灯る。振り返ってその扉の前に立つ。千秋は木島の手をとる。

「部屋まで送ってください」

普通に言うつもりだったのにすごく掠れた声になってしまった。全然普通の声じゃなかった。木島は返事をしない。エレベーターの扉が開いてしまった。乗り込む。手を握り合ったまま。
「何階?」
木島の声も掠れて聞こえる。千秋の耳がおかしくなっているからだろうか。

木島は自分の声が掠れていて、まずいなと思う。どんどん雰囲気がそっちへ傾いていく。
32、千秋が答える。小さい、よく聞き取れないような声。
千秋が不意に手を離す。木島も何気なさを装う。
32階。
扉が開いて二人が降りて、千秋が先に自分の部屋に向かって歩き出し、木島がそれを追う。
部屋の前に来て、振り向きもせず千秋はバッグの中のキーを探し出してドアを開け、振り向いて、木島に「キスして」と言う。目を伏せたままで、けれどきっぱりした口調で。
木島は急に思いがこみ上げて溢れそうになる。半開きのドアを開け、千秋の肩を抱きかかえるようにそのまま部屋に滑り込む。木島はなんて自然な動き だろうと自分でも感心する。ドアを閉じて右側の壁に千秋を押し付けるようにして唇を重ねた。なんだかさっきまでの抑制がバカらしくなるような自然なキス だった。
千秋は意外に落ち着いて木島のキスを受けている自分に驚く。エレベーターを降りたところあたりからの記憶があまりない。自分で感じている以上に酔っているのかもしれない。気が付いたら木島ととても自然に唇を重ねていた。

気持ちが溢れ出す。でも堰き止める。
唇を離して暗がりで見つめ合う。部屋の電気をつける間もなく抱き合ってしまっていたのだ。でも暗闇になれた目には窓外の街明かりで十分なような気がする。この暗さだから見つめあえる。
思いが溢れる。
高校3年の時、ボーイフレンドと手を繋いで歩いていて不意に木島と出くわしたときの彼の姿が蘇る。そうだった、あのあと駅前のビルの地下にある喫 茶店に向かう非常階段でそのボーイフレンドとキスをした。キスをしながら千秋は木島の姿が脳裏に浮かんだことを思い出した。30年もたってやっと思いが 叶ったような錯覚があった。いや、錯覚ではなく本当にそうだったのかもしれない。
 
木島は、今目の前にいる千秋が18歳の頃の彼女のような錯覚を持った。その錯覚の中で木島自身も18歳に戻っている。
次の瞬間それは錯覚だと強く思う。あれからの日々に僕もこの女性にも時間が流れたのだ。30年という月日は確実にあったのだ。僕らは決して18歳ではない。
「木島くん」 千秋が声を発する。かすれていることをもう恥ずかしがらなくてもいいというかすれ声で。
「木島くん、私のこと欲しくない?」と聞く。
木島は、どう答えたら良いのだろうと一瞬の逡巡の後、率直でいいさと思う。
「欲しい」と。
「私も木島くんが欲しい」と千秋が答える。
「欲しいけど我慢したほうがいいとも思う」これも率直な木島の気持ちだ。
「私は木島くんがすごく欲しいよ」
「僕も瀬尾さんが欲しい、すごく欲しい。ホントに」
「でも我慢したほうがいいのね」
「うん、やせ我慢」
「うん私もやせ我慢する」
フッとどちらともなく息が抜けるような声が漏れる。フフッ…千秋が笑う。
私は、欲しいって言ってもらっただけで十分めくるめいたよ。
僕も、かな。
中年の恋ねえ。
初老にさしかかってるよ。

木島は50歳になっている自分と千秋の年齢に感謝した。10年前だったらこの先を望む気持ちを抑えきれなかっただろう。こんな風にやせ我慢で切り抜けられるくらいの年齢で千秋に再会できたことは幸運だと思った。深く考えた末のことではなく、いま、とてもそう思える。

でもこの年でこんな恋ができるなんてすごく幸せです。
千秋のことばを木島は自分の気持ちも同じだと思う。

うん…もう一度抱きしめてもいい?
うん、抱きしめて。今の私を抱きしめて。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?