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「正しい好きになり方」と言う矛盾

自分がどうありたいとか、どうあるべきかとか、そう言う尺度で先に形を決め、その理想との差分を埋める努力を繰り返すことが正しいことだと信じてきた。

だから、人を好きになると言う情動的な反応に対しても理性を以って解釈して、「正しい好きになり方」と言うことを自分に強いる行動に至る。その正しさには外的妥当性はないかも知れないし、そもそも妄信かも知れないが、それでも自分自身が正しいと思ったものに寄ってしまう。

それでは「正しい好きになり方」とは何か?それを僕は、相手本位であること、と定義付けたようだ。

好きでいると言う状態は厄介だ。永久機関や増殖炉に近い。自分自身で「好き」を増幅させていき、必ず爆発に近い状態に至る。冷却と加熱の速度が等分ならば現状維持もできるだろう。冷却が勝れるような恋であれば、握りつぶすことも可能かも知れない。しかし、本当に愛してしまえば、加速度を持って増殖を続け、胸は食い破られる。誰かを好きになると言うこと自体、僕にとっては危険なことである。恋愛は罪悪です、その通りですね、先生。

そして、好きでいると言う状態は、知らずに相手へ何かを求める。自分を好きになって欲しい、自分を好きでいて欲しい、他の誰かに心を奪われないで欲しい、自分だけを見ていて欲しい。この気持ちを伴わない恋など、存在しないと思う。しかしながら、これが前面に出ていることは美しい状態とは思えない。だから、僕は自分の気持ちで相手に何かを求めることを徹底的に排除したくなるのだ。

自分を愛して欲しいなら、愛してもらえるような存在であればいい。優しくして欲しいと願うなら、倍以上に優しくするしかない。ただ乞うてはいけないのだ。対価は自発的に払われることに価値があるのだから、乞うて与えられるものには価値を見出してはいけない。

こうして規定した自分の在り方は、ふと振り返るとなんと歪んだものであろう。好きだと思う相手の前で、自分を曝け出すことはない。自分が思う完璧を演じ、それを愛されることを幕袖で只管に祈る。正しいと思った在り方が、こんなにも滑稽でいいのだろうか?そんな疑念を抱きながらも、僕はこの在り方からは離れられない。縋るように求める在り方ではならない。そう自分で決めたのだから。

だから、彼女が振り向かなくても、仕方がないのだ。掠め取られるように誰かが彼女の気持ちを奪っても、僕に文句を言う資格はない。その恋が、彼女の幸せになるならば、血の涙を流してでも、応援しなければならないのだ。

大事なことだから繰り返す。大切なのは相手であって自分ではない。自分が得る一握の幸せに彼女の幸せが翳ってはならない。

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