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小寺の論壇:やりたいことをやりながら前に進むしかない話

知財、IT産業、ネット、放送、買ったもの、ライフハックなど、コデラの気になるところを語ります。


筆者が昨年に還暦を迎えたということは、かつての同級生も皆還暦を迎えたわけである。サラリーマンだった者は定年退職となったわけだが、知る限りではそのまま隠居したという人はおらず、別の会社に再就職するなどして働き続けている。

先日も「MIRAIスピーカー」という製品の取材をさせてもらったところだが、広報としてご連絡をいただいたのは元Roland広報で、Queenのトリビュートバンド「Gueen」のボーカリスト、フレディ波多江さんだった。波多江さんと筆者は同い年なので、60歳になって再就職どころか、シルバーのスパッツ履いてガンガンステージで歌っているわけである。

60歳で能力的な限界が来るのは、主に体力だったり足腰だったりと、肉体的な労働を伴う場合で、頭の方は60を境に急にボケたり物忘れが激しくなったりするわけではない。まあ徐々にはやってくるが、デジタル的にパシッと区切りが来るわけではない。

とはいえ、自分でコントロールできないことに振り回される会社勤めは大変だと思う。それがストレスになるタイプの人は、定年後は何か別のことをやりたいと考える人は多そうだ。

定年後に何をして暮らしたいか、様々な理想があるだろう。働かずに暮らしていけるよう、お金を貯める人も多いと思うが、日本人の平均年齢からすれば、定年してからの人生は25年もある。これだけの時間を、貯めたお金と年金で食いつないでいけるとは到底思えない。

死ぬまで働き続ける、と聞けば過酷な話のようにも聞こえるが、筆者には縁側で猫をなでながらぼんやりしているような老後は退屈すぎる。

■老後に対してアグレッシブだった祖父

明治生まれの筆者の祖父は、地方公務員であった。よって55歳で定年した後もそこそこに恩給をもらえただろうが、それでじっとしているようなタイプでもなかったようで、退職金を注ぎ込んで土地を買い、祖母と2人して小売業を開業した。

国道10号線に面した小さな店で、三角地だったので商売には向かないと言われたが、道路を挟んだ向かいに大きな県立病院があり、見舞客が手土産に生花や果物を買い求めたために、ずいぶん繁盛した。当時は病院に生ものを持ち込んでも良かったのである。

また店の斜め前にバス停があり、まだマイカーがそれほど一般的で無かった時代の足として重宝された。病院に用がある人達はみなそこでバスを降り、店に立ち寄って手土産を買って、病院へ向かうという流れである。こうした人の流れを踏まえた商売のやり方には、なかなかに先見の明があったという事だろう。

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