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【ネタバレ有】シン・エヴァンゲリオンによって過去のものにしてしまった自分の脚本

本記事は必ず『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本編を見てから読むようにしてください。
お願いします。
本当に一切の興味がなく偶然にもこの記事がネットサーフィンで引っかかったという人以外は絶対に読まないでください。

シン・エヴァンゲリオンの話は以前にもバカみたいにした。

間違いなく名作で傑作で天才の所業と言わざるを得ないものだった。

それを見たことで、大変失礼かつ不遜の振る舞いであることは理解しているが、「今書いている脚本が自分にとって過去のものになってしまったと感じた」という話だ。

隙を見つけて自分語りしているだけではありますが、もしよかったら見ていっていただければと思います

なお、本記事ではシン・エヴァについてマジでエンドのところまでのネタバレを含みます。
本当に軽い気持ちで開かないようにしてください。軽い気持ちで開いたのなら今すぐブラウザバックをしてください。

以下、空白がしばらく続きます。

これが最後のATフィールドです。よろしいですね。








どうでもいい注意書き

もし、僕が参加した公演を頻繁に見に来ていただいてる方であったり、最近の記事でちょくちょく言っている「今書いている脚本」についての構造部分についての予備知識を一切入れないでおきたいという方が、万が一いらっしゃった場合はいったんこの記事を閉じていただくようお願いします。

そうでない、シン・エヴァンゲリオン関連の記事目的でいらっしゃった方であればこのまま読み進めていただいて一切問題はありません。

ただ、もしこの記事を読んで「この脚本気になる」と思ってくださった方がいたとしても過度な期待はしすぎないでくださると、大変助かります。

ちなみに、感想については以下の記事で先に書いていますのでこちらからお読みいただければと思います。


シン・エヴァでたどり着いた結論

これはこの前書いたエヴァ記事の直後に書き始めてる記事ですが、前の記事で

ここについてはまたきっと書く機会があると思っていますので、ひとまず書かなければならないと思った部分は書き終えたということで筆をおきます。

なんて書きましたが、耐えかねて全文書いた上に投稿してしまいました。

さて、そんなシンエヴァで導き出された一つの答え。それがゲンドウの行動が「それってエゴじゃん」だったということ。

当然、見ている側もうすうす気づいてはいたし、言いたくもあった言葉。それを制作側から明確に、それも吐き捨てるようにポロっとあっさりと言う言葉に込められた真理。

人間の欲や目的なんてものは、元をたどればたった一つの小さなエゴであるということ。

どれだけ壮大な計画も、どれだけ人に恨まれるような悪行でもエゴで世界を終わらせられるような覚悟があるということ。

それを、制作の側から言ってのけてしまったのだ。

そしてそれを構成するのは親子の思い。

それぞれの思いが交錯するその構図は、明確で、確実に自分が最近どこかで見た構図だった。

そして、多いように見えて必要最低限の人間で構成された世界の中で、すべてを託されていた一人の少年。

最後にあったのは「共に生きていたかった」という思い。

必要なのは親子の対話であったということ。

それを責任をとることで送り出す、大人という存在。

神とヒト、抗えないハズものと抗う意思。

エヴァについて詳しくない自分でも、シンエヴァを見る直前、Qなどを振り返っていてどこか気づいていて、どこかシンエヴァを見るのが怖かった。

自分が描きたかったものがいつの間にかどこか根底にあるエヴァの要素で構成されていて、シンエヴァの終わりを見てしまえば、その完成品を見てしまって、自分の描く世界の意味がなくなるんじゃないかという恐怖。

そうして見に行ったシンエヴァでは先ほど羅列したような構成が確かに物語の中にあった。

もちろん、随所で違うところもあり、結末も自分とは異なる終着点にあった。

それでも間違いなく、それを見た瞬間に誰が押すでもないのに、

「エヴァによって過去になったもの」

「世間の人間からすれば二番煎じの駄作」

そういう烙印を押された気分になってしまったのだ。

先に思いついて書き始めていたから

これはただの言い訳でしかないがエヴァンゲリオンを意識など一切していない。それは断言できる。

でも、だからこそ、「それはもう、人々にとって過去になった物語の真似事だ」「真似事の駄作なんて見る気にもなれない」

自分の中で、自分に対してそう言ってくるような。

一緒に見た友人にもその脚本を相談していただけに、彼が口を開いていうはずもない「それエヴァと同じじゃん」という言葉がいまにも出てきそうで。

これがもし、シンエヴァに感化されて書き始めた物語だったらきっと自分の中で「エヴァに影響されました」と胸を張って言えるはず。

でも、ほかの様々な作品に影響されヒントを得て、自分の中でかみ砕いたと思っていたものが、目の前で全く違う形でそれでいて一つの完璧で完全たる結末に行きついている。

その事実がどうしようもなく辛く、それと同時そう感じてしまった以上はもう、自分の物語が「過去のもの」にいつしか変わってしまっていた。
その事実を理解せざるを得ない状況になっていたことも、どうしようもなく悲しくなっていたのです。

自分にエヴァは書けないし、書きたいものではない

散々エヴァの劣化とか、エヴァと比べることそれ自体がすでに傲慢な行為だったのにこんなタイトルをつけるなんてゴミクズ以下だ。

そう思う気持ちもわかりますし、俺も自分でそう思っています。

でも、嘘偽りない自分の心から行けば、本当に「自分にエヴァは書けないし、書きたいものではない」。

その最後に至った極形が一緒だろうがなんだろうが、今書いている物語の形が今の自分が書きたかったもので、エヴァみたいな遂行され尽くした、とんでもない物語が書けないのはよくわかってて。

自分にはあの物語を書く力がないのは心の底からわかってるからこそ、今自分が表現できる最大の話を書く。

書きたいものではないとは言ってもエヴァを書きたくないとかそういうことじゃなくて、あくまでもエヴァは今の自分が書きたいものの完成形じゃない。

今書きたいものを完成させて、それが偶然庵野監督と近しかったのであれば、「エヴァみたい」って感想がもらえるのであれば、それは実は最大限の誉め言葉である。

そういうことも全部頭の中で理解はしてるはずなのに、作品を世に出して、その結果出てくるかもしれない「エヴァみたい」という言葉が「劣化コピー」という悪意が含まれている可能性を考えると、理解はしていても認められない自分がどこかにいる。

今書いている頭の中は実はいつか庵野監督が通ってきた道のりだったかもしれない。

それしか今は自分を正当化できるものがない。

「見たことある」が生む「二番煎じ」

自分の正当化、自分を納得させることはできたとしても、創作関係でどうしても取り払えないのが「二番煎じ」という現象。

これがある意味では、先ほどから何度も言っている「劣化コピー」と思われるかもしれない。を生み出している現象の根源である。

なんでも、作品を世に出すうえでは絶対気にするであろう「これに似てる」という言葉。

これは、言う側にはほとんど悪意はないだろうし、実際自分も言ってしまうことはある。

いわば純粋な「感想」だ。

場合によっては「あっちのが面白かった」とか「あっちとはこんな感じに違って両方面白い」とか色々付属の感想はあるだろうが、きっと多くの人は「あーこれこの前これで見たことあるな」という口をついて出たものが多いはずで。

それ自体何ら悪いことではないし、その感想はあるべきだと思う。

しかし、その感想が意味しているのはまごうことなき「見たことある」なのだ。

見たことあるということは、自分がどれだけ頭をひねって、絞り出した最高傑作でも、その時の感動を絶対に超えられないということ。

そしてその「見たことある」の元となる対象があの「シン・エヴァンゲリオン」では、そうなる人も、そうなった元の作品の質も桁が違いすぎる。

たかだか一回の学生が考えた話だとしても、その学生が今までで一番面白くできたと思って書いているその作品が、まさかそんなところに超えられない壁を用意されているとは想像もつかなかった。

「今までの人生で一番」だと思っていたものが、突如全国に、より高度な状態で、より完成度の高い感動で、衝撃で、より多くの人の目に留まる状態で流れている。

もはや両手をあげて降参する時間すら用意されず、気づいたら体を銃弾が貫いている。そんな感覚だった。

他の人にとっての二番煎じなら、当然自分にとっても二番煎じになるわけで、この先、どれだけ自分が自分の作品に驚きながら作り続けられるかわからなくなっていた。

一日考えて出した「エヴァすらも使う」

そうこうしているうちに日は跨ぎ、今の時刻は2021年3月11日0:30。

かれこれシン・エヴァンゲリオンを見終わって半日ほどたったくらいの時間だ。

こういう悶々とした感情こそ、まだ残っているわけだが、結局最後に行きついたのは最初からうっすら見えていたこの一つの答えだけだった。

エヴァすらも使ってやろう。

俺よりも完成度の高いエヴァを見て、差を理解して、それを落とし込んでやれば絶対に今よりいいものができる。

また、自分が知らなかった新しい「自分の中の想像力」に驚けるかもしれない。

それが単純で間違いのないただ一つの結論だった。

純粋に、シン・エヴァでエヴァを好きになった心的には「またエヴァを見に行くことでもう一度エヴァを終わらせたくない」そういう気持ちがあるのは間違いない。

それでも、エヴァという作品を自分の中に取り入れる。それが、ある意味で楽しみになってきてはいる。

最終的に今書いている話がどんなところに落ち着くのか、今の自分にはわからないけど、きっと今考えているものよりは面白い、「エヴァみたいな」面白さすら持った作品になれば、今エヴァというものにある意味で囚われている自分自身を救い出すこともできるのかもしれない。

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