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【ネタバレ有】エヴァオタクじゃない俺がエヴァを網羅したくなったシン・エヴァンゲリオン

本記事は必ず『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本編を見てから読むようにしてください。
お願いします。
本当に一切の興味がなく偶然にもこの記事がネットサーフィンで引っかかったという人以外は絶対に読まないでください。

シンエヴァを見た。

表記除けしている人のために今回はヱではなくエを使いたいと思う。

見ていない人に対して今俺が言えるのは
「とにかく見ろ」と「マジでトイレは行っておけ」ということだけ。

若いから大丈夫とタカをくくってはいけない。私はエンドロールで尿意を催し始めたから割とこれはマジの本質情報だ。

それと、本記事ではシン・エヴァについてマジでエンドのところまでのネタバレを含みます。
本当に軽い気持ちで開かないようにしてください。軽い気持ちで開いたのなら今すぐブラウザバックをしてください。

以下、空白がしばらく続きます。






これが最後のATフィールドです。よろしいですね。








『エヴァンゲリオン』について強い思いはなかった

今、世にあふれるシン・エヴァの記事を読み切れたわけではない。

その中でも、エヴァ世代だった人から、我々のようなゼロ年代後半~10年代前半のQをリアタイで見たか見ていないかのような世代の人、10年代後半ごろの新しい時代の人、色々いるだろう。

エヴァンゲリオンという作品自体は大変有名で名作として知られていて、教養として身に着けた人も多い若者世代、さっきの3パターンに言う2つ目以降の世代に私は該当する。

当然、友人にとんでもないエヴァ好きがいたり、自分でもエヴァ自体がある程度好きなことは間違いなかった。

と言っても、「エヴァファン」を自称するほどでもなかった。

ファンなんてどこからでも「好き」という気持ちがあれば十分だというのは当たり前かつ、正しい見解だと思う。ただ、自称するかどうかというのはあくまで自分自身ののめり込み具合を自分で測ったときの尺度の話。

エヴァが好きと言ってもエヴァグッズを持っているわけでもない。

どのキャラが一番好きかなど、熱の入った論争ができるほどの知識もない。

新劇版の新世紀エヴァンゲリオンしかしっかりと見たことがあるエヴァ作品はない

旧劇やアニメ版なんてもってのほか。

そんな奴が堂々とエヴァファンですと名乗るわけにはいかないと思っていたし、ファンと名乗るほど好きなわけでもなかった。

それでも、ミーハーながらにエヴァの最新作を映画館で観たいと思い、Twitterのミュートワード指定などもしっかりしていた。

その判断は紛れもないオタク精神のたまものであっただろう。
今となってはその判断をした自分を大変誇りに思う。

全てを変えたシン・エヴァンゲリオン

そんな中、来る3月10日。
友人とエヴァを見に行く約束をした。

先ほども言った通り、エヴァに強い思い入れはなかったものの、見たいという気持ちは強くあったし、曲がりなりにもQを見たことがあれば、どういう帰着のさせ方をするか見届けたいという気持ちもあっただろう。

それでも、やはりどこか完全な気持ちではない、「一つの大きな時代の終わり」を見届けるつもりでいた。

そうして映画館にやってきた。

エヴァを見た。

人生の中で、何度か出会ってきた、自分の中の感情がこれ以上なく揺れ動かされる感覚。それがエヴァを見た後にも確かにあった。

この物語についての全貌を、もっと鮮明に、もっと多くの感情を持ちながら見たい。そう思った。

これは、自分の中では消化しきれない。すごいものを見たという感覚。

言葉不足で上からの物言いのように聞こえる表現もあるかもしれないが、とにかくその衝動のままの言葉を書かなければいけない。そう感じた。

ここから先は本当に感想と評価が入り混じってしまうような文章になるが、少しの間付き合っていただきたい。

完全で完璧な「エヴァンゲリオン」の終わり

エヴァについて考察をしたり、そういう話を見たりしたことは人生でほとんどない。序・破についてもエヴァンゲリオンらしいカッコよさなどを感じるだけだった記憶があるし、Qについては本当にほとんど意味が分からないくらいの記憶で、その時に少しだけ考察などを見た記憶もある。

その程度の私ですら、このシン・エヴァンゲリオンの終わりが、エヴァの終わりの一つの形として完全で完璧であると感じたのだから、そうでない人はもっとそう感じる人もいたことだろう。

エヴァンゲリオンという話を網羅したくなったのは、このラストシーンがあったからだといって間違いない。

ラストシーンというと曖昧だが、個人的にはこのシン・エヴァンゲリオンという話は「新世紀エヴァンゲリオン」という物語の終わりと「エヴァンゲリオン」の終わりの二つの終わりのタイミングがあり、そのうえでそれを一連の流れとして同居させているように見えた。

新世紀エヴァンゲリオンの終わりは、マリがシンジを助けに来るあの瞬間。

エヴァンゲリオンの終わりは現代の風景が映ったあの瞬間。

あの時に俺は新世紀エヴァンゲリオンが終わり、エヴァンゲリオンという一つの時代が完全に終わったことを理解した。

この物語の最後を語るうえで間違いなく外しようのないものがこの書き換えるという行為。

今までのエヴァでもその行為が為されていたのかは知らないのですが、シン・エヴァを見た限りではその説得力と、その自然なまでの物語への入れ込み方が美しく、完璧なものだったと思います。

世界を書き換える。

言葉面だけ見ればよくある、それでも力強い物語の終焉にふさわしいセリフです。

他の作品でも、そういう言葉は色々見てきたし、ロンギヌス・カシウス・ガイウスの槍のような世界の仕組みのようなものから書き換えるものから、過去に戻ることで書き換えるなどのようなものまで様々です。

そのうえで、エヴァンゲリオンはそれを行う舞台として「裏宇宙」を設定します。

その裏宇宙は認識できないから、思い出の中の世界で認識される。

ここまでは言ってしまえばよくある話。

その先に、明確な違和感がなければ、よくある話で終わるんです。

エヴァンゲリオンを見たことがある人なら誰もが知っている初号機の搭乗シーン。「父との対話」の始まりのシーンとしてうってつけな空間からそれは始まります。

次に出てくるのは、何か違和感のある現代のCGとしてはチープにも見える3Dの第三新東京市。

「何年も待たせてこんなクオリティで出してくるのか」なんて思うわけがなく、間違いなく意図的であるとすぐに理解できます。

エヴァ同士の戦いのさなか、崩れずに下手な物理演算のようにスライドする街並み、今までエヴァの戦いで見たことのないほどの望遠の画角、露骨に「正しいSE」が鳴る布製の空。

これが作られた思い出の世界で、それが現実の「セット」であることをすぐに理解できます。

表裏一体であり同じ動きをするエヴァの後ろでは、明らかに不相応なサイズ感のミサトの部屋や、教室などの風景に次々と変わり、時にはセットが壊れ露骨にスタジオの風景が広がることもある。

きっとこの表現には様々な意図があるのは間違いないはずなのですが、何も知らない身からすれば、「裏宇宙」という空間が「我々の世界」と「新世紀エヴァンゲリオンの世界」の境界が曖昧になっている場所だと感じざるを得なかったのです。

そのうえで、何度も迫ってくる「書き換える」という言葉。

この言葉がある意味でメタ的に、そしてある意味ではその行為を裏付ける決定的な理由として我々に迫ってきます。

つまり、ガイウスの槍は、このエヴァンゲリオンの世界を「エヴァンゲリオンの要らない世界」に書き換えると同時に今までの「エヴァンゲリオン」という物語を書き換えるものである。ということが強い説得力を持って我々のほうにやってくるのです。

エヴァンゲリオンを書き換えると言っても、きっとそれは今までの終わり方へのアンサーとしての終わり方をするとか、あくまでも「エヴァンゲリオンの要らない世界」への書き換えの説得力の補強とか色々理解の仕方はありますが、この「書き換える」という行為がこの作品において果てしなく重要で決定的な行為であるということがここで突きつけられるわけです。

そうして書き換えられた世界で描かれる各キャラクターにとっての救い。

そして取り残されたシンジは海岸に一人座り、徐々に「エヴァンゲリオンの要らない世界」から消え現実たる「裏世界」に消えていくような描写が挟まります。

そこに、「迎え」に来るマリ。

彼女の存在によってシンジは「エヴァンゲリオンの要らない世界」となった「エヴァンゲリオン」の物語にもう一度戻っていきます。

でも、裏を返せば、すべてのアンサーと救いはこの時点までで為されていることは理解でき、この先我々が見る世界は、シンジがコンテ絵になったところで「終わり」となった我々の知る「エヴァの必要な」エヴァンゲリオンの世界ではなく、すべての終わった「エヴァの不要な」エヴァンゲリオンの世界になることはわかってしまうわけです。

ここで我々にとっての新世紀エヴァンゲリオンの物語は一つの結末を迎えます。

そうして戻った世界では書き換えられた「現実」と「エヴァ」が混在するような見慣れた風景が広がります。

この風景に溶け込むエヴァのキャラたちを見て我々は理解するわけです。

本当にエヴァンゲリオンという物語は書き換えられ、新たな日常への地続きがここにあるということを。

感想で良く書かれている「青春が終わった」というのはまさしくその通りで、エヴァンゲリオンという物語の結末として少年時代の彼らですらなく、架空の世界の風景ですらない、紛れもない現実の今に続いたエヴァンゲリオンは「物語が書き換えられた」という決定的な裏付けで我々を日常世界に戻すわけです。

これは悪いというわけではなく、紛れもない「エヴァンゲリオン」という壮大ないくつもの分岐を持った物語の終着点として完璧なものだと感じるわけです。

ところで、ちょくちょくシンエヴァを見た後に記事を読んだんですが、波打ち際のシーンとかも一つのアンサーとしてのシーンになってるということは衝撃だったし、ほかのシーンにもきっとアンサーとしての演出が「知らない人にも意味のあるシーン」として描かれていると思うと、いかにエヴァという作品が偉大であったかを思い知らされます。

ひとまずの終わりに

これ以外にもいくらでも語る気持ちはあります。

このシン・エヴァンゲリオンの一貫した「対話と拒否」や「人とのかかわり」、「親子の在り方」のようなテーマ性。

たどり着いた先にあったのは人間のエゴであったこと。

それらすべてが間違いなく長々と語れることなのですが、ここについてはまたきっと書く機会があると思っていますので、ひとまず書かなければならないと思った部分は書き終えたということで筆をおきます。

また書く機会があるというのも、もしかしたら堪えきれずすぐ書いてしまうかもしれませんが、ご興味があればぜひ読んでいただければなと思います。

それでは、またの機会に。

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